44 嘆

「だったらいいんですけどね」

「嘘をついてもダメよ」

「もう死にました」

「えっ」

「三月になります」

「全然知らなかったわ」

「だって誰にも話してないから」

「紗ちゃん、わたしいけないことを聞いてしまったかな」

「いえ、却ってすっきりしましたよ。話せて良かったです。でも透さん、母の密偵なんでしょ」

「バレてたか」

「バレバレですよ」

「おばさまは心配してるのよ」

「それは知ってます」

「おじさまもね」

「まあ、それも……」

「紗ちゃんはその人のこと愛していたの」

「当時はわからなかったけど、今はたぶん……、ああ、でも、ダメ」


 わたしの目から不意に涙が溢れ出す。

 一人のときならともかく、人前で自分が泣くとは思っていない。

 伊勢くんのお母さん、環奈さんと一緒に伊勢くんのお墓参りをしたときだって泣かなかったのに……。


 格好悪い。

 イメージが違う。

 まるで、わたしじゃないみたい。


 元のわたしに戻れ。

 心で思うが、身体の反応は止らない。


 人間の身体は子供のときには約七〇パーセント、成人で約六〇パーセントが水だ。

 だから涙は枯れないと無理やり考える自分がバカみたい。


 恋しいよ、伊勢くん。

 会いたいよ、伊勢くん。

 今更のようにそう思うよ。

 もう一度、会いたいよ。

 格好悪くてもいいよ。

 化けて出てくれてもいいよ。

 夢の中でもいいよ。

 わたしのことが嫌いになっていたっていいよ。


 ああ、もうダメ。

 ダメ、ダメ、ダメ……


 わたしが毀れる。

 人格が涙の中に溶けてしまう。

 どこにもないところに飲み込まれてしまう。

 心が消えてなくなってしまう。

 身体の方は死んでしまう。


 でもさ、わたし、思うんだ。

 もう二度と伊勢くんに会えないのなら死んだ方がいいって。

 そう思うんだ。

 もしかしたら、あの世で伊勢くんに会えるかもしれないから。

 信じてもいないあの世に行きたがる自分の気持ち。

 今では、それがよくわかる。

 わたしなんていらない。

 わたしなんていなくていい。

 伊勢くんがいないなら、わたしはいらない。

 伊勢くんがいるから、わたしがいたんだ。

 伊勢くんがわたしを生かしてくれてたんだ。


 ああ、でも……。

 そんな伊勢くんをわたしは殺した……おそらく。


 もちろん、わたしに殺すつもりなどなかったよ。

 これっぽちも……。

 なかったけど、伊勢くんがわたしの呪縛にかかって死ぬ。

 かつて、わたしに殺された/愛された男たちと同様に……。


 道元禅師の教えなんか、わたしはいらない。

 この世のすべてが仏の顕れと知っても救われない。

 不生不滅も関係ない。

 諸行無常がどうしたというのだ。


 わたしはずっと無理をし続けて来たのかしら。

 わたしは全然強くない。

 ただの弱虫だ。

 伊勢くんが望むと信じたので、それらしい振る舞いを続けてきただけ。

 だから誰にも相談しない。

 だから誰にも打ち明けはしない。


 それが、わたしが振る舞いを続けられる条件だ。

 わたしはそれを知っていたはずなのに……。


 けれども透さんに打ち明けてしまう。

 それまでわたしを支えてきた、わたしの周りではわたししか伊勢くんの死を知らないという事実が漏れれば、一瞬のうちに、わたし自信が毀れると十分知っていたはずなのに……。


 ああ……


 すると――


 何か柔らかいものが、わたしをそっと包む。

 包みつつ、わたしに嘆くなと言いはしない。

 わたしに悲しむなと言いはしない。

 ただじっと見守るように、わたしの心を包んだのだ。


「可哀想な紗ちゃん」


 透さんの声が聞こえる。

 わたしの耳に入ってくる。

 まるで伊勢くんの心のように染み渡りながら……。

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