39 到

 ビニールシートを地面に敷き、上に座る。

 最初は体育時の膝抱えスタイルを取るが、すぐに座禅に切り代える。

 心に無を願うが叶わない。

 ふと、母には単にアパートに本を取りに行き、そのまま泊まると言えば良かったと思う。

 その方が要らぬ心配をかけなかっただろう。

 それから何故か、母はおそらくわたしの放蕩を知らないが、もしかしたら父は知っているかもしれないと唐突に思う。

 何の根拠もないが、それならば父は何故怒らなかったのだろうかと重ねて自分に問う。

 わたしの人格を認めてくれたからだとすれば嬉しいが、自分の手に余ると判断したとも考えられる。

 けれども、わたしが犯した他人への暴力を叱った父だ。

 わたしの心の足掻きを自力で克服せよと仕向けたと思った方が父らしい。


 そんな母と父への想いがきっかけとなり、様々な想念/邪念が頭に浮かぶ。

 仮に禅寺で座禅をしていたなら、何度も警策をいただいただろう。


 道元禅師の『正法眼蔵』所収の『有時』では「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。」と述べ、時間がすでに有(存在)であり、存在はすべて時間だと説かれている。

 続けて『丈六金身これ時なり、時なるがゆゑに時の莊嚴光明あり(仏の姿が時間であり、そしてそれが時間であるからこそ、荘厳な耀きがある)。』と述べ、仏が(全)存在と一つである、その表れが時間であると論を進めている。

 更に『有時』を読み進めば時間が流れるものではなく、また何か/誰かにより規定されるものでもないことが説かれている。

 一切が自己の中にあり、そこにあるすべての事物が時間だとも説く。

 自分の中に時間があるから時間は流れず(過ぎ去らず)、そういう見方をすれば過去は現在すなわち今ここに有る。

 時間は草木(自分)の外にあるのではなく、草木(自分)の中にあるのだから、過去も未来も(当然現在も)草木(自分)の中にあるわけで、だから草木(自分)以外の時間はない。

 更に存在は時間の現われだから仮象であり、その仮象以外に時間はないから時間と存在は一つで、しかも仮象(如)なのだ。


 究極の唯心論と混ぜっ返すのは簡単だが、所詮、人は自分の心の中でしか生きられない。

 ならば、そんな教えに耳を傾けるのも救いではないか。


 道元禅師はまた時間は去来せず一切を埋め尽くし、過去も未来も連なっていると論理的に説くが(それを成立させる概念が『経歴』)、感覚的にならば、すでにその構造が見えるだろう。


 わたしが一切ならば伊勢くんもまたわたしであり、生きていた伊勢くんも、死んでこの世にいない伊勢くんもまたわたしなのだ。

 そのわたしはまた時間であり、悟ることができないわたしは悟ることができないわたしとして到り(充溢し)、悟ることができたわたしとしては至らない(充溢しない)。

 同時に、悟ることができたわたしは悟ることができたわたしとして到り、悟ることができないわたしとしては至らない。

 そのどちらも過去に過ぎ去ったものではなく、未だ到来しないものでもなく、過ぎ去った時として今に到来し、未だ到来しない時として今に到来するのだ。


 つまり、すべてはここに有る。

 有って流れず、ここ(わたしの中)にあるわけだ。


 ……とはいえ、あの日、わたしは伊勢くんが死んでしまうことに気づかない。

 その事実が、すでにあったにしても気づかない。

 いや、それでは流れてしまうか。

 気づかないことは気づかないこととして到り、それそのものとして充溢するのだから。


 ……だとすれば、わたしはどうして悲しむことがあるだろう。

 気づかないことに充溢したわたしに気づくことができるはずもなく、まして未来を変えることなどありえない。

 アレはあの時ここにあり、今もあの時としてここにあり、未来についても同じなのだから。

 未来に起きる事故をわたしが未然に防げなかったとすれば否定になる。

 けれども未来に起きる事故を未然に防げなかったわたしが、あの時いたとすれば、それが充溢する。

 そう捉えれば、わたしは僅かでも救われるか。

 いや、そもそもわたしは救いを求めているのだろうか。


 理由は知らないが、わたしは過去に五人の人間を殺している。

 あくまで間接的にだが、死は死であり、死んだ人間は生き返らない。

 そのことに、わたしは罪を感じている。

 もちろん感じたくはないし、実際に彼らの死は(少なくとも社会的には)わたしのせいではないが、そうは思えない。

 わたしが好きだった人たちばかりが死んだからか。

 かれらのことをわたしが好きだと感じたために……。


 中学の終わりにビル窓掃除用のゴンドラが落下し、彼が死ぬ。

 彼といっても、あの人がわたしと付き合っていたわけではない。

 特定の個人名で呼ぶのが怖いから単に彼と呼び、遠ざけただけだ。

 あの日あの時間に彼がゴンドラの真下にいたのはわたしのせいだ。

 学校の帰り道で彼と話し、そのままでは別れ難くて近くの公園で更に少し話す。

 彼がわたしのことをどう思っていたか知らないが、とにかくあの三十分ほどの時間が彼を殺す。

 だが、わたしに責任があろうはずもない。


 けれどもそれが一つのきっかけとなり、わたしの放蕩/男漁りが始まったようだ。

 憑物が落ちるようにそれが終わった直後、彼が死ぬ。

 唯一無二、わたしが二度寝た彼だ。

 わたしに再び彼と出会うつもりがなかったといえば嘘になる。

 わたしは会いたくて/逢いたくて/遇いたかったことを覚えている。

 破瓜を捧げたオジサンを、わたしはやはり愛したが、その愛は彼への愛とは違い、感謝に近い。

 それにオジサンはわたしを愉しみはしたが、愛さなかっただろう。

 彼以外の男たちも、おそらくそうだ。

 わたしにしたところで顔さえ覚えていない。

 だが彼は……。


 わたしが自分の目で始めて見たのが彼の死だ。

 昼間だったがラブホテルに入り、愛し合い、そこを出てすぐ左右に別れる。

 わたしが彼を見送ると何故か彼がわたしを振り返りもせずに駆け出し、そこに角を曲がったバイクが現れ彼を撥ねる。

 幸いなことにバイクを運転していた女性に怪我はなく、また事故の責任もないはずだが、彼は死ぬ。

 人間の骨が折れて砕ける音を聞く機会など、そうあるものではない。

 わたしはこの耳でそれを聞く。

 けれどもわたしはその場にへたり込みもせず、警察に電話をし、事故を伝える。

 その先の記憶が跳んでいるのが情けないが、いつまでも現場に居残りはしない。

 警官が駆けつける前に去ったはずだ。

 気づいたときには公園のトイレで吐いている。

 その後鏡を見ると目が赤かったから、きっと泣いていたに違いない。

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