38 妄

 あの後目覚めると、わたしは死体でなければ、腹に包丁が刺さってもいない。

 つまり木塊内に女が侵入し、わたしを刺し殺した事実はなく、言うなれば妄想だったわけだ。

 つまりそれくらい、わたしは伊勢くんを気にしていたということ。

 言葉にすれば恥ずかしいが、わたしは伊勢くんを愛していたのだろう。

 それがわたしに妄想の女を産む。

 妄想にしてはリアル過ぎたが、それが妄想というものだ。

 想だけならば推理や可能性が複数だが、妄が付くと偏ってしまう。

 つまり複雑性が薄れるのだ。


 つつしむところなく、節度なく、むやみに、みだれ、まことなく、うそいつわりだらけで、でたらめ。


 それは愛も同じか。


 かわいがり、いとしく思い、いつくしみ、いたわり、思いあい、親しみの心でよりかかり、そのものの価値を認め、強く引きつけられ、大事なものとして慕うから……。


 想う心が大きければ、それはすでに執着だ。

 相手にも同じことを望むだろう。

 ところが伊勢くんはもうこの世にいない。

 だから、わたしは彼のために殺されることで己の愛を貫いたのだ。

 その先は物語の結末の向こう。

 いつまでも平和に暮らしました、が永遠に続く。

 いわば神棚に祭られてしまうわけで、それ以上の変化はない。

 少なくとも自分にとって……。


 わたしが木塊の中で目覚めたのは夕刻だ。

 空に一番星が輝いている、

 それで家に帰ることを諦める。

 不慣れな山/丘の夜道を歩くのは危険だという常識判断。

 母には大学の友だちと出会ったからその人の家に泊まる、と嘘を吐く。

 わたしがしれっとした口調で母に告げると瞬時の間。


「あっ、そうなの。わかったわ」


 どこか落ち着きのない声で母が続ける。

 どこにいるの、誰と一緒なの、とは問いかけない。

 これが家庭内での会話なら、


「相手は男の子なんでしょう。逃がしちゃダメよ」


 となるはずなのに……。

 母からの返答がないので、

「じゃ、そういうことで」

 と通話を終える。


 長く電話をかけていれば背景に街の喧騒がないことが母に気づかれたとそのとき思う。

 いや、おそらく母は気づかなかっただろう、と続けて思うが、それはわたしの平静心のため。

 母の内心までは預かれない。


 母とそれから父のわたしへの心配は身につまされるが、どうにもできないことはあるものだ。

 母が父にわたしが言った言葉を何と伝えるのかと考えれば気が重い。

 機会があるなら父に花嫁姿を見せたいとわたしは思う。

 けれども叶うかどうか。

 娘が変人に育ったのは決してあなた方のせいではないよ、と遠く呼びかけ、思考の流れを切ることに決める。


 空の果てから雷の音が小さく聞こえてくる。

 いつかそんなこともあろうかとリュックの中からビニールシートを取り出し、地面に置く。

 雨が降る気配はまだないが、本降りになったら頭から被るしかないだろう。

 ……とはいえ携帯傘を常備しているから、そちらの方がマシだろうか、と考え直す。

 ついでビニールシートを介し、地面にぺたりと座り込む。

 ついさっきまで木槐内の落葉の上に寝ていたのだから不思議な気分。

 そのときより寒い感じがするのは何故だろう。

 真夏とはいえ山/丘の夜だから冷えるのか。

 それとも単にビニールシートの感触か。


 木槐の中に虫や蚊がいないのが、ありがたい。

 まだ陽が高いその日の内にそれに気づく。

 そのことも、わたしが木槐内で一晩明かそうと決めた理由だろう。

 わたしは血色が良い方ではないが、どうやら肌が蚊の好物らしい。

 出かけるときには除虫剤や痒止の薬が欠かせない。

 困ったことだが体質が変わらなければ対処を続けるしか方法がない。

 いずれ、わたしが歳を取ったときには二酸化炭素代謝が減り蚊に刺され難くなるのだろうか。


 小腹が減ったので、これも常備している栄養調整食品を口にする。

 ペットボトルの麦茶もあるが、すでに約半分量まで減っている。

 風の音が強くなってきたが、まだ雨の気配はない。

 けれども木槐の外れから顔を覗かせ、見上げた空には一面の雲。

 満月に近い月明かりが透けるから厚くはないが……。


 風があるので雲の流れが速い。

 ……と思っていると水の匂いが鼻につく。

 すぐに小さな雨音が聞こえ、たちまちそれが大きくなる。

 木槐が雨の進路にあれば、もっと大きくなるだろう。

 そう思ったわたしの予想は当たったようで、煩いほど雨音が大きくなる。

 この地にそれまであった夜の静寂が瞬く間に掻き消される。

 木槐の葉群れた天井は夏夜の嵐に暫く堪える。

 だが、やがてポツリポツリと雨粒が落ち始める。

 それをわたしが携帯傘で避ける。

 ビニールシートは濡れないように、すでにリュックの中に仕舞ってある。

 雨が上がった時点で地面に敷くことを考えたからだ。

 さすがに濡れた枯葉の上で横になる気はわたしにはない。


 木槐内で雨を避ける間、椅子でもあれば座ったが、ないから仕方なくしゃがんだ形でじっとする。

 次に木塊に会いに来るときは椅子にできそうな何かを拾うか、携帯椅子を持ってこようと考えながら……。

 木槐天井からの雨漏りは止むことはないが量も増えない。

 だからわたしはびしょ濡れにならずに助かり、ホッとする。

 木槐内でじっとしながら十分も経つと雨雲が木槐を通り過ぎる。

 外を覗けば空に星が戻っている。

 近くで鳥の声が聞こえるが、それが徐々に遠くなり、やがて辺りからすべての音が消え去っていく。

 月明かりが木槐とその周りを照らし、驚くほどの明るさだ。

 それに惹かれるように、わたしが木槐の外に出て歩く。

 荒れた芝と雑草が水を吸い、それらがキラリと輝いている。

 月明かりならではの魔法のようだ。

 陽光の許で見る輝きとは一味違う。

 時計を見ると午後八時ほど。

 日の出が午前五時前として、うんざりするほどの時間がある。

 月明かりが強いので、これから帰ろうかとも考える。

 量は少ないが水に濡れた木槐の中で、わたしは本当に一夜を明かしたいのかと自分に問う。

 答がないのはわたしの心に雑念が多いからだが、それならいっそそれらに付き合うのも宜しかろうと想いを固める。


 深呼吸をし、木槐内に戻る。

 そのとき腕を擦り剥くが、別の場所が痒くなってきたので気づかない。

 わたしの心はあのとき真剣に死にたがっていたが、身体の方にその気はなかったようだ。

 蚊を誘う甘い血が流れていたのだから……。

 だとすれば心も本当は死を望んでいなかったのかもしれない。

 単に一時的な感傷に囚われただけに違いない。

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