37 釈

 初めて天使と目が合った日。

 あるいは、わたしの勘違いかもしれないが……。

 場所はアパートの近くで夕方だ。

 棒のように見えるのに少し猫背という形態的形容矛盾姿勢で人も疎らな道にわたしの方を向いて立っている。

 わたしが見る気もなく天使を見ると天使もわたしを見る。

 本当か。

 だが、わたしを見る天使の顔に表情はない。

 この世に創造される神の多くは怒れる神だが、天使はどうやら違うようだ。

 正しい神の遣いなので感情がない……と説明すればわかりやすいが、この天使はおそらく神の遣いではないだろう。

 そもそも天使という呼び名もわたしがそう呼ぶだけで単にこの世で似ているものを探せばそれだけだったという以上の根拠はない。

 謎の存在だからXでも良いが、それだとまた別のイメージが強くなる。

 だから天使は天使。

 わたしの中で天使はもう天使以外の何モノでもない。

 おそらく木塊がわたしの中では木塊でしかなくなってしまったように……。


 天使が見たのはわたしだが、その視線はわたしを素通りしているようにも感じられる。

 わたしの身体を通り過ぎ、それで逆説的にわたしの本質を見ているのかもしれない。

 ……とはいえ、わたしの本質とは何だろう。

 わたしを形作る物質としての肉体がある。

 また、わたしをこのわたしであると認識する実は物質由来ではあるものの非物質の心がある。

 あるいは、これまでの期間生きて経験したすべての集積としてのわたしがある。


 道元禅師は朕兆未萌(ちんちょうみもう)と自著の中で述べる。

 朕兆は生じるきざしで、朕兆は未だ萌さざる状態、つまりまだ現れていない状態のことだ。

 何かがいる/ある兆しがない大昔から、それがいる/あるということ。

 朕兆已前ともいう。


 それと似たような言葉に父母未生以前(ぶもみしょういぜん)がある。


 明治三年生まれの哲学者、西田幾多郎も用いた仏教用語だ。

 禅宗の語であり、父や母すら生まれる以前の状態を表す。

 相対的な存在に過ぎない自己という立場を離れた、絶対/普遍的な真理の立場。

 その意味は朕兆未萌を人間に限定したと考えれば良いか。

 別の言葉でいえば、自我のない絶対無差別の境地となる。

 それでわかり難いなら、平たく訳して、終始一貫。

 一から今に至るまで、となる。


 わたしとはわたしが存在する気配すらない大昔からわたしなのだ、と説明されれば頭ではわかる。

 けれども、そこには実感がない。


 道元禅師はまた『語句の念慮を透脱する』(言葉が思念/思慮を突き抜ける)ともいうが、これは語句を数式に置き換えれば納得し易いかもしれない。

 例えば物理学はこの世に現れた諸相からその本質(法則)を抽出する学問だが、それを正確に記載するには数式が用いられる。

 数式は物理学者より数学者の方が得意なので、物理学者は数学者がかつて発見した多くの数式から自分たちが書き表したい現象に見合うモノを借りて来る。

 もちろん物理学者が自ら数理体系を作ってしまう例もあるが、ここまでは思考の流れが順当だ。

 すなわち物理学者たちが普通に取って来た手法とは実験による観測結果を数式に置き換えることで逆ではない。

 けれども数式の方を優先し、その数式に合った物理法則/現象がある……もっといえばなければ可笑しい/あるに違いないと考えた物理学者もいる。


 量子力学の祖の一人、ポール・ディラックがそれに当たるか。


 ディラックの場合、『物理法則は数学的に美しくなければならない。』という己の美学に沿いつつ数式を導いたが、その半分は未だ発見されない実験結果を表している。

 やがて時を経、それが実験的に発見される。

 いわば、それまで自然界になかったものが、式の導きにより暴かれてしまったというわけだ。


 数式にはまた自動性/自走性という性質がある。

 簡単にいえば、方程式が解けるということ。

 物理現象を現す方程式には実際には解けないものの方が多いが(近似はできる)、それは一先ず置く。

 方程式を用いれば答が必ず導き出せるということだけを考える。

 概念的な遊びだが、禅の公案に適応できる方程式がもしあれば、問いをそれに代入するだけで答を得ることができるということだ。

『語句の念慮を透脱する』を表すイメージの一つかもしれない。


 もっとも禅の場合は自己を忘れることにより非自己のすべてと一体化するという過程を経、本来の自己を再発見するという流れがあり、そこで発見される自己とは当然すべての人間で異なるから、入力内容が同じでも結果が違う方程式が必要になるが……。


 見るということは見られることでもある。

 見られるということは見ることだ。

 天使がわたしの本質を見るなら、わたしも天使の本質を見ているだろう。

 わたしがそれに気づくか、気づかないかに関わらず。

 もちろん頭で考えてもわからない。

 人の頭の中にあるのは、それまでその人が生きた時間内で得た個人的集積に過ぎないからだ。


 ……という認識があるからこそ、『無理会話(むりえわ)』(通常の知性ではなく知的理解を超えたところで成立する問答)という概念も生じたのだろう。

 それが理性の生んだ概念であることは明らかだ。

 わからないことをわからないとわかるために、わからないことの方をわかることより上位に置いたわけだ。


 さてわたしは天使に見られ、同時に天使を見ているが、己を忘れればわたしが天使と一体になるか。


 常識的には勘違いの範疇だろうが、わたし自身が天使だからこそ、天使がわたしに敵意を持たないようにわたしには感じられる、という解釈が成立してしまったな。


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