36 死
前期試験が終わると夏休みだ。
両親が家に帰って来いと煩いので、とにかく最初の一週間をそれに当てる。
大学に入り奨学金の申請をし、特別な高額コースが叶ったので学費と家賃の負担を両親にかけていないが、それだけで割り切れるものでもないだろう。
「大学はどうなの」
「どうって、普通よ」
「周りは男の子ばっかりなんでしょ」
「女子もいるよ」
「気に入った男の子とかはいないの」
「頭の良い人はいるわね」
「そう。尊敬から入る恋もあるっていうじゃない」
「それは先生とかの場合でしょ」
「じゃ、先生はどう」
「どうって、普通よ」
「あんただっていつまでも若いわけじゃないんだからね。そのうち、お父さんもお母さんも死んだら一人きりよ」
「わかっていますよ」
「何だよ、物騒だな」
「お父さんだって孫の顔は見たいでしょ」
「相手が馬の骨なら願い下げだな」
「あら、強がっちゃって。でも紗の結構式で泣くならお父さんね。親戚の透(とおる)ちゃんのときでさえ、すぐに泣いたし」
「煩いな」
「あら、本当のことじゃないの」
透というのは父の姉の娘で、わたしより三歳年上。
つまり彼女は大学卒業とともに結婚したことになる。
もちろんそのまま主婦の座に納まるよう人ではなく、好きな就職先を自ら探し、ちゃんと受かってバリバリと仕事に励んでいる。
蓮見の家系にはそういった女が多いようだ。
透さんとわたしとはまるで姉妹のように育ったと言えば聞こえは良いが、それは子供の頃までのこと。
それ以降は近くにいても距離感がある。
彼女が完全なポジティブ人間だったことが原因かもしれない。
……とはいえ、わたしだって当時からネガティブ人間だったわけではない。
幼稚園児のとき、確かにわたしは理不尽な死に直面したが、一度はそれを乗り越えている。
今思えば彼の死が最初だったわけだが、それが後に続くとは思っていない。
だから彼のあの死は理不尽であったが、単に不幸な死としてわたしの中で合理化される。
わたしの性格が完全に歪むのは二度目の理不尽な死を経て、三回目以降だろうか。
二度目のそれが中学の終わりに起き、そのとき最初の死を思い出し、わたしが再度ショックを受ける。
それが呪縛の始まりだが、まだその連続性を信じていない。
それを信じるのは次の理不尽な死が高校生のときに起こったからだ。
時期的には、わたしの男漁りの日々の先に当たる。
毎日自分に降りかかる両親の種々の言葉を受け流しつつ、それとはまた別の両親の願いに負けてわたしはずるずると家にいたが、日を置かず木塊にも会いに行っている。
木塊の許まで辿り着く道程が簡略化できないから、自ずとわたしの足腰に筋肉がついたようだ。
いつ会っても木塊の表情は変わらない。
無愛想な愛想を見せるだけだ。
だが……。
あの日、わたしが木塊の中で寛いでいると気配がある。
その気配は木塊の外にあり、鋭くわたしを刺している。
それでわたしは寛ぎを解き、気配の元を探るように木塊の外に顔を向ける。
すると綺麗な女が立っている。
初めて木塊を見て驚いたようだが、それ以上にわたしに向けた憎しみが痛い。
女の年齢は、おそらくわたしと同じくらいだ。
わたしと違うところはいくらでもあるが、特徴づけるとすれば身体の線が素晴らしく、出るところが出て、そうでないところが括れていたこと。
わたしと視線を交え、女が一瞬、おや、という表情を見せる。
わたしの顔が華奢な男に見えたからかもしれない。
それから無言で木塊の中に入ろうとする。
だがそれは叶わず、やがて入口を探し、女が木塊を巡る。
結果的にわたしが選んだ入口から女も木塊内に入るが、それは枝絡みの隙間が一番大きかったからだ。
入口を抜けるとき女の服が少し解れたが、気にもしていないようだ。
「蓮見紗さんで間違いない」
わたしの正面に仁王立ちし、女が問う。
「ええ、そうですが」
わたしが答える。
それに続けて、あなたは誰、と問い返しはしない。
わたしには女の正体の見当がついたからだ。
女は中学のときに伊勢くんを愛し、かつ自ら別れた相手に違いなかろう。
「名前も聞かないのね」
「聞いて、あなたの気持ちが変わるとも思えませんから」
「そんなあっさり顔をして、文朗さんの前ではきっと可愛い女だったんでしょ」
「さあ、どうかしら。それは伊勢くん次第じゃないの」
「ああ、やっぱり文朗を知ってるんだ」
「確信がないまま、あなたはここまで来たというのね」
「まったく、こんな辺鄙な場所に何かがあるとは思わなかったわよ」
「……ということは今日、偶然に」
「蓮見紗のことは調べたわ。でも文朗と同じ大学にいたところまでしかわからない。それでアパートまで出向いたけど」
「いなかったわけね」
大学入学以前に借りたアパートの所在地にわたしが住民票を移したので、実家の住所がわからなかったのだろう。
もっともそこまで調べがついたなら興信所を使えば後一息だ。
「わたしのことは、どうして」
「小母さまのスマホを盗み見て……」
「ああ、まだ付き合いがあったわけね。だけど、すごい勘」
「だって文朗があんなところで死ぬわけがないから……。もしそうだとすれば悪い女に引っかかったとしか思えないから」
「それで電車で移動するわたしを見かけ……」
「後を追ったら吃驚するじゃないの。何よ、ここは」
「わたしは木塊と名づけたけど、正体は知らない」
「もっかい……」
「樹木の『木』に『塊』よ」
「そのままね」
「あるいは木群。……あなたはわたしに会えて満足かな」
「もちろん会えただけでは満足じゃないわ」
「じゃ、どうすれば」
「それはね、こうよ」
女が隠し持った料理用の包丁でわたしの腹を深く突き刺す。
そうとわかっていれば逃げられたはずだが、わたしはそこまで予期していない。
つまり男女の機微に疎かったということ。
わたしが死んだところで伊勢くんが生き返るはずもないというのは理屈に過ぎない。
嫉妬に狂った女には通じないのだ。
「あのね、それでさ、こうやって包丁を突き差しただけなら、きっと助かるのよ、あなたは。だけどね、こんなふうに包丁をぐるぐる廻していろんな内蔵を傷つければ、絶対に助からないんですって」
女は自分で言った通りに力を込め、わたしの腹に突き刺した包丁をグリグリと廻すが、たとえそうしなくとも人里離れたこんな場所で出血が止まらず血が慣れが続ければ、やがてわたしは死ぬだろう。
わたしの両手は女がわたしの腹を刺したとき、反射的に包丁を引き抜こうと彼女の手の上に被さっている。
だが、残念ながら効果はない。
わたしの意識が薄れてゆく。
そのとき女の態度に変化が起こる。
どうやら怖くなってきたようだ。
最初は己の強固な意思に肉体を突き動かされていた女だが、わたしの腹から流れ出た血が自分の両手を真っ赤に染め始めると、その呪縛も解ける。
冷静に現実が見えてきたのだ。
だから女は身体を震わせ、わたしから遠ざかろうと必死になる。
けれども彼女の両手の上にはわたしの両手が覆い被さり、簡単に離れないのだから逃げるに逃げられない。
数分間、女はわたしと格闘する。
けれども、わたしにはほとんど意識がない。
遂に女がわたしに勝利し、一目散にその場から去る。
わたしの身体をそのままに……。
彼女が木塊を抜けるとき、枝の何本かを折ったらしい。
そう思える音がわたしの耳に聞こえるが、それがわたしがあのとき意識して聞いた最後の音。
わたしの両手は無意識のうちに格闘したらしいが、腹に突き刺さった包丁は引き抜けない。
手に力を入れれば腹筋も締まるから、それに打ち勝つことが出来ないのだ。
やがて完全に意識を失う。
けれども、そのときにはもう夢と現がわたしの中で交じり合っている。
だから意識を失ったこという感覚はない。
それは、そのままわたしの死。
つまりわたしはあそこ、木塊内で死んだのだ。
おそらく……。
(第三章/終)
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