35 流

 わたしの杞憂はただの杞憂に終わり、その夜も、次の日になっても、わたしも環奈さんも死にはしない。

 自分のことは自分でわかるが、環奈さんの無事はメールで知る。

『何もないから心配しないで……。かしこ』

 シンプル・イズ・ベストな内容だ。


 それからのわたしの日々は日常に変わる。

 大学一年生の忙しい生活がすべてを覆う。


 ほとんどの授業では困らなかったが、わたしには実験の才能がないようで、教えられた通りに事を運んでも定性実験の結果が違う。

 それでレポートが受理されない。

 当然のようにグループとなった仲間にも迷惑をかけてしまう。

 もちろんすぐにコツを覚えるが、才能とコツとは自ずと違う。

 だから軽口もかけられる。


「蓮見さんって見かけと違って不器用だね」

「でもロボットじゃないとわかって安心したよ」


 わたしに向かいかけられる、そういった揶揄に苦笑する。


 けれども、わたしにとって自分がある意味大雑把だと気づいたのは発見だろう。

 もっとも、そうでなければキスの経験さえない若い娘がいきなり男に抱かれたいとは思わないはずだ。


 意地もあるので、授業終了後も助教に断り実験の復習をする。

「済みません、無理を言って」

 と実験室に見まわりに来た助教にわたしが言うと、

「この学校では年に一人はそういったのがいるよ」

 という返事。

「他の大学では違うんですか」

「多くは知らないけど珍しい部類だろうね」

「そうなんですか」

「同じ大学出身の何人かに聞いた限りでは」

「もう少しいてもいいですか」

「今夜は卒論の連中が泊まりだから、こっちも泊まりだよ。だからいいよ」

「ありがとうございます」


 定性実験担当の一人、その助教の年齢は三十代半ばだろうか。

 草臥れた白衣姿だから、年齢以上に見える。

 その上、若い準教授より風格がある。

 大学のそれぞれの教授及びその教室(研究室)には各一名以上の助教がいるが、不思議と全員が同じような佇まいだ。

 一人だけ例外のシャッキリした助教もいるが、彼はすでに他大学で上級准教授の席が決まっている。


 時計を見ながら、そろそろ片づけをしようかと考える。

 バスがなくなると私鉄の駅まで歩き至るのに小一時間かかるが、まだそれほどの時間ではない。

 ただしアパートに帰る頃には深夜だろう。

 片付けの作業に入れば早いもので辺りに散らばった実験器具や試薬を棚に戻す。

 洗いものをし、電気を消す前に助教を探す。

 大抵は実験棟と同じ建物だが上階の教授が帰った後の教授部屋にいるが、そこを覗いても見当たらない。

 それでそのうち来るだろうと実験室に戻ると、そこにいる。


「ああ、行き違いでしたか」

「通話して貰った方が早かったね」

「それでは番号を交換しましょう」

「止めておくよ。きみを好きな誰かに恨まれそうだ」

「そんな人はいませんから」

「きみ的にはそうだろうな」

「どういう意味ですか」

「いや、余計なことだ。忘れてくれ」


 助教とわたしの不自然な会話はそこで途切れ、助教が手馴れた様子で実験室内を点検し、電気を消す。

 ついで時計を見ながら


「ああ、もうこんな時間か。気をつけて帰れよ」

 と言うので、

「はい。気をつけます」

 と応え、

「今まで、ありがとうございました」

 と一礼する。


 それからキャンパスに出て校門を目指すが、結構な道程だ。

 バス停に着くまで五分以上かかる。

 ようやく着いたバス停に人は疎らで、わたしを入れても三人しかいない。

 夜遅い……といっても午後十時半だが、非常事態でも生じなければ、その時間のバスで帰路に着くことになりそうだ。


 夏が近いから風が吹いても寒くないが、周りに店が少ないので閑散とした雰囲気が心を冷やす。

 ふと、幽霊が出るならこんなときかもしれないと思う。

 心の隙間に認識不可能なナニカが迷い込むのだ。


 けれども気紛れに吹く夜風にヒュウビュウと木の葉が鳴るばかりで幽霊は出ない。

 それに最も近かったのが近所に住む女の子らしい子供の泣き声で、一瞬闇を裂き、風向きが変わるとすぐに消える。

 その女の子の泣き声に思わずビクリとしたのはわたし以外にもいたようで、同じベンチに座ったわたしの父くらいの年齢の男がぶるっと身体を震わせる。

 するとまったく無関係だろうが、わたしは木塊を思い出す。

 木塊が鳴いたら怖いだろうな、と感じたのだ。


 木塊にわたしには生命の痕跡を感じなかったが、アレが生物ならば厭な目にも会うだろう。

 気持ち良く太陽の光を浴びていたのに急に嵐になれば不快と感じる。

 木が泣くとすれば、それは鳥や虫に啄ばまれるときか、あるいは動物や人間に実を奪われるときか。

 だが、それはどうしようもなく人間的な思考かもしれない。

 元々自分では動けない植物だから、その辺りのことはすでにお見通し。


 ……とすれば木が泣く状況とはどんなだろう。


 水がなく、土がなく、光がなく、風がない。

 乾き切り、支えなく倒れ、ただ腐り、子孫が運ばれない。


 わたしはこれまで自分の子孫が欲しいと思ったことはないが、いずれ思うときが来るだろうかと想いを馳せる。


 わたしは伊勢くんとの非生殖的セックスを愉しんだが、伊勢くんの子を欲しいとは、あのとき微塵も思わない。


 けれども伊勢くんがまだこの世に生き、付き合いがそれなりに深まれば、いずれわたしはそう思うようになっただろうか。

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