34 類

 比叡山の千日回峰行の阿闍梨が被る網代笠を模したから阿闍梨餅……というその由来は知っていたが、口するのは初めてだ。

 店主に聞くと、わざわざ老舗から取り寄せているという。


「わたしの父が京都出身者でしたので、こちらで店を開いて暫くしてから取り寄せ始めました」

「すっかり有名なお菓子になってしまったから、お店の隠し名物としては痛し痒しじゃないですか」

 と環奈さんが問うと、

「いえ、こちらにはまだご存じない方もいらっしゃいますので」

 という返事。


 阿闍梨餅は見た目どら焼きの小型版で割った感じもそうなのだが、食べると確かに餅なのだ。

 丹波大納言の粒案を包む生地が餅なので、その感触となる。


「ああ、珈琲も美味しい」

「ですねー」


 キリマンジャロはキリマンジャロ山域/タンザニア北部/ケニア国境近くのモシ地方で栽培収穫された果実から加工生産したコーヒー豆のブランドだ。

 遡れば一八九〇年代に東アフリカを植民地としていたドイツがコーヒーノキの栽培を目論んだことが最初となる。

 その事業は失敗し、キリマンジャロに最初にコーヒーノキを持ち込んだのはギリシャ人。

 その後、東ウサンバアでのコーヒーノキ栽培に失敗するとドイツ人やイギリス人がこぞってキリマンジャロ山域にプランテーションを開拓する。

 一九一四年頃には百のプランテーションで二百万本のコーヒーノキが栽培されるまでになったそうだ。

 けれども当時はブランド価値がなく、一旦イエメンに運ばれた後、モカのブランドでヨーロッパに運ばれていたという。


「環奈さん、キリマンジャロがどうして今のように日本で有名になったかご存知ですか」

「さあ、問われてみると知らないわね」

「嘘みたいですけど、ヘミングウェイの『キリマンジャロの雪』なんですって。それも映画(一九五三年日本公開)の方。わたしは見ていませんが……」

「それはわたしも見ていないわ。原作の方は読んだけど」

「わたしも同じです」

「死に関するお話だから怖い部分が多いけれど、最後の方に不思議な描写があるでしょう。あれが印象に残って」

「ええ、わたしも同じです。もしかしてわたしと環奈さんって似たような感性をしているのかもしれませんね」

「さあ、どうでしょう。『キリマンジャロの雪』の感想を聞けば、全員があの部分に引っかかるかもしれないし」

「なるほど、そうかもしれません」


 わたしと環奈さんとの当たり障りのない会話はそこまでだ。


「今日はありがとう、紗さん。わたしの我侭に付き合ってくれて」

「いえ、それは。わたしの方でも踏ん切りをつける必要がありましたし……」

「わたし個人はあなたとお友だちになりたいのだけど」

「やはり、ご家族が……」

「蓮見紗をあなたと特定したのは、家族や親戚の中ではわたしだけよ。でも彼らはあなたのお名前に良い印象を持っていない」

「当然だろうと思います」

「世間は厭ね。文朗の事故死は、紗さんに関係ないことなのに」

「本当にそうでしょうか」

「そうよ」

「だけど、わたしには前科があって」

「そんな前科だったら、わたしにもあるわ。偶然にせよ、過去に五人も殺している」

「なるほど、そういうことだったのですか。環奈さんがわたしに気を遣ってくれたのは……」

「紗さんと初めてお会いしたとき、わたしは何かを感じたのよ。超能力みたいなものは信じないけど、似た人間の匂いはあるかもしれないと」

「それならば、あのとき止めてくださっていれば……。いえ、わたしをレストランから追い出せばそれで良かったんですよ」

「無理だわ。そこまで確信があったわけじゃなし」

「それでも環奈さんは、わたしを赦してくれるのですか」

「赦すも赦さないもないわ。紗さんには何の責任もないのですから」

「法律的にはそうでしょう。警察だって、わたしのところへは現れもしませんでした。でも世間は違う」

「あなたが他人に対して頑な性格になってしまったのには、それなりの理由があったのね」

「わたしが人嫌いだと調べましたか」

「悪いとは思ったけれど、途中で止められなくて」

「わかりますよ。わたしが同じ立場だったら、やはり同じことをしたと思います」

「そうね。あなたとわたしはやはり似ているのかもしれないわね」

「似ない方が良かったのに……」

「ああ、それはそうかも……」


 暫く沈黙が続く。


 だがそれは重いものではなく、わたし同様、環奈さんも始めて同胞を得たという想いを抱いていたのかもしれない。


「いずれ二人は出会う運命にあったのかもしれませんね」

「そうね。こんな出会いでなければ良かったのに……」


 そこでわたしは恐ろしいことに気づく。

 同時に環奈さんも気づいたようだ。


「ああ、なんてこと」

「大丈夫ですよ。きっとわたしたち二人の間には起きませんから。それにこれまで生きて、わたしたちが出会った人たち全員の中のたった五人ですから」

「そうね。確かにそうね」


 けれども、わたしは自分で口にした言葉の内容が信じられない。

 ただ環奈さんの方がわたしより強ければ、と願っただけだ。

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