31 頓

 しかのごときのたぐひ、宋朝の(諸)方におほし。

(こういった一派が宋の国に多い)

 まのあたり見聞せしところなり。

(目の当たりに見てきたことだ)

 あはれむべし、かれら念慮の語句なることをしらず、語句の念慮を透(脱)することをしらず。

(これは哀れむべきことで、彼らは心の中であれこれ思い巡らすものが言葉であることを知らず、言葉が思念/思慮を突き抜けることを知らない)

 在宋のとき、かれらをわらふに、かれら所陳なし、無語なりしのみなり。

(宋国にいたとき、わたしは彼らを笑ったが、彼らは反論もできず、ただ黙っていただけだ)

 かれらがいまの無理會の邪計なるのみなり。

(彼らが言うところの理性では理解できないという考えは誤ったものでしかない)

 たれかなんぢにをしふる、天眞の師範なしといへども、自然の外道兒なり。

(あなたがたには自分たちを正しい考えに導く師がいなかったとはいえ、そのままで異教徒の弟子ではないか)

 しるべし、この東山水上行は佛(祖)の骨髓なり。

(知っておくと良い、この東山水上行は仏教の開祖が残した骨髄なのだから。

(諸)水は東山の脚下に現成せり。

(様々な種類の水が山々の麓に現れる)

 このゆゑに、(諸)山くもにのり、天をあゆむ。

(それゆえに諸々の山に雲は乗り、天を流れるのだ。

(諸)水の頂(額)は(諸)山なり、向上直下の行歩、ともに水上なり。

(様々な種類の水の一番上にあるのは諸々の山で、その上を歩くも下を歩くも、どちらの水の上にいることになる)

 (諸)山の脚尖よく水を行歩し、(諸)水を(跳)出せしむるゆゑに、運歩七縱八横なり、修證(即)不無なり

(諸々の山の麓では様々な種類の水が流れ、それら様々な種類の水を噴出させるから、その流れは縦横無尽であり、それらが悟りの郷里にあろうと、そうではなかろうと、本来具わっている性質なのだ)


 道元の正法眼蔵で『経』が付くのは『山水経』だけだ。

 その深い意味はわたしには理解できそうもないが、究極の自然の教えと言うことまではわかる。


 山水経の冒頭は、

『而今の山水は、古佛の道現成なり。

 ともに法位に住して、究盡の功(徳)を成ぜり。

 空劫已前の消息なるがゆゑに、而今の活計なり。

 朕兆未萌の自己なるがゆゑに、現成の透(脱)なり。

 山の(諸)功(徳)高廣なるをもて、乘雲の道(徳)かならず山より通達す、順風の妙功さだめて山より透(脱)するなり。』

 というものだ。


 而今(にこん)という言葉の意味は、永遠の現在だが、それは単なる今でなく、遠い過去から現在まで、それにまだ来ない遥かな未来までをも含めた今を表す語句なのだ。

 逆に言えば、それこそ一瞬の現在なのだろうか。

 つまり永遠が一瞬を孕み、一瞬が永遠を宿すということ。


『現前に広がる山水は古えの昔からある仏の教えの今ある姿。

 ともに仏の法そのままだから比べられない素晴らしさだ。

 遥かな過去から続いているから永遠に生き生きとしている。

 自分が存在する兆しもないころから存在しているから一切に囚われない。

 山の働きは限りないから様々な雲の流れは必ず山から始まり、その風に乗り進むものは必ず山から解脱している(一切の煩悩や囚われから通り抜けて自由自在である)。』


 さて、『隻手の声』に戻るが、この考案はいわゆる一般常識からの意識の解放を教えているようだ。

 一般常識という言葉は人の分別とも言い換えられるだろう。

 特に『隻手の声』では対という概念に破壊の手が加えられる。

 対とは大きくは「主観と客観」「具体と抽象」「相対と絶対」などとなるが、ここでは両手/両耳などという日常的なものにより大きな概念を託している。


 禅の特徴は一般常識/分別を仮のものと捉えることだ。

 それらが社会生活を営む必要上、人が作り上げた人為的なものでしかないと考える。

 いわゆる概念だから実体はない。

 けれども人は恰もそれが実際に存在するかのように振舞ってしまう。

 一般社会に溶け込もうとすればするほど、概念そのもの囚われてしまうというわけだ。


 そこに悩みが生じる。

 煩悩と呼ばれる苦悩だ。


 禅には種々の宗派があるが、どの派も煩悩を断つことを目的としている。

 ただ、その方法に違いがある。

 特に公案は煩悩の中でも分別に対する拘りを打破するために利用された問題集のようだ。


 公案には参禅して老師から与えられる問題である古則公案と現実世界の種々生起すべてを公案と見る現成公案の二種類がある。

 隻手の声は当然現成公案だ。


 道元の正法眼蔵の中には現成公案に触れたものがある。


『佛道をならふといふは、自己をならふ也。

 自己をならふといふは、自己をわするるなり。

 自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。

 萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして(脱)落せしむるなり。』(現成公案)


『仏教を習うということは自己を習うことだ。

 自己を習うこととは自己を忘れることだ。

 自己を忘れるということは自分に触れるものすべてに悟ってもらうことだ。

 自分に触れるものすべてに悟ってもらうこと(悟り)とは自分の心身及び自分以外のすべての存在から拘り(迷い/分別)を捨て去ることだ。』


『自己をわするる』というのは単にボーっとすると言う意味ではなく、例えば掃除をするならば箒や掃除そのものになりきるという意味だ。


 ここまでくれば白隠が『隻手の声』で言おうとしたことが明らかだろう。


 片手/両手/音/聞くという行為/耳/云々……。

 それらの乖離にある。

 更に音のない音を聞くことである、と付け加えれば蛇足だろうか。


 ……とそこまで考えてみて、わたしは別の解釈に気づく。


 片手で音を鳴らすことは可能し簡単だ。

 片手に片手を打ち当てれば良い。

 それで聞こえるパンという音はあくまで片手と片手とが立てた音であり、両手で立てた音ではない。


 ……といった解釈は何処から考えても頓知だろうが、わたし自身にはそれがお似合いとも思える。

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