30 案

 高校二年ときに『隻手の声』を知ったとき、わたしはそれが場の概念に似ていると思う。

 つまり二つの力点が相互作用して初めて成立する力の概念から一方の力点を除いた場合を思い浮かべた、ということ。


 例えば電場は最低二つの電荷(電気力点)があって成立する。

 正電荷や負電荷同士ならば反発を、異なる電荷が相手ならば互いに引かれ合う。

 その状態のときには空間の各点における電気力の強さを表す電気力線が描ける。

 生徒や学生のとき、誰でも一度は教科書でその図を見たことがあるだろう。


 まず、その状態から出発する。

 二つの電荷があって初めて成立する、その状態を先に作り上げるのだ。

 ついで、そこから片一方の電荷を除いてしまう。

 力というものは相互作用して初めて生じるが、相互作用する前の状態を考えるのだ。

 相手がいないから電荷は自分のいる位置の周りに同心球状に広がるしかない。

 他の電荷が現れなければ、その電気力線はいつまでも変わらない。

 ついで無限に遠い位置に相手の電荷を置く。

 電気力は無限遠にまで到達する力だから理論的には電気力線は歪むはずだが、その位置では誤差範囲だろう。

 相手の電荷を近づければ電気力線はどんどん歪み、最初に考えた位置まで相手の電荷が近づけば同じ電気力線が描かれる。


 けれども実はそちらの方が本当に実在する形で、片一方の電荷があるだけでは力は生じない。

 そのときの電荷は潜在的なものだ。


 そういった概念的で潜在的な力のことを科学一般でポテンシャルと言うが、ポテンシャルの日本語も、潜在すること/また可能性としての力、と訳される。

 つまり電荷一つだけでは可能性でしかないということだ。

 すなわち隻手の声ではないか。


 現実的には相手(この場合は反対側の手)がなければ、さらに両者が打ち合わせられなければ、声(音)は発生しない。

 しかし可能性としての音はあるという解釈になる。


 あのときわたしが下した解釈が禅問答的にどう解釈されるか知らないが、看話禅的には、理屈で考えたからダメ、と却下される可能性が高い。


 同じ禅宗でも無理会話を嫌った道元禅師なら、別の教えを賜れるだろうか。


 道元は鎌倉時代初期の禅僧で日本における曹洞宗の開祖だ。

 一般には道元禅師と呼ばれる。

 その道元が嫌ったのは無理会話という看話禅の方で公案そのものではない。

 自著、正法眼蔵『山水経』の中で以下のように述べる。


「いま現在大宋國に、杜撰のやから一類あり、いまは群をなせり。

 小實の撃不能なるところなり。

 かれらいはく、いまの東山水上行話、および南泉の鎌子話のごときは、無理會話なり。

 その意旨は、もろもろの念慮にかかはれる語話は佛(祖)の禪話にあらず。

 無理會話、これ佛(祖)の語話なり。

 かるがゆゑに、黄檗の行棒および臨濟の擧喝、これら理會およびがたく、念慮にかかはれず、これを朕兆未萌已前の大悟とするなり。

 先(徳)の方便、おほく葛藤斷句をもちゐるといふは無理會なり。」


 意味だけ汲んで訳すとこんな感じだろうか。


(今の宋の国にはいい加減な輩たちの一派があり、群をなしている。

 少数の心あるものでは排斥することができない。

「近々語られる東山水上行の話や、南泉の鎌のような話は、元々理性では理解できない話なのだ」と彼らは言う。

 何故なら、我々の理性で理解できるような話は禅の話ではあり得ないからだ、と。

 理性によって理解できないものこそが先覚者の言葉や説話なのだ。

 よって黄蘗の痛棒や臨済の喝のことが理性で理解できるわけがなく、理性で理解できないからこそ、自分が存在する兆しすらない大昔からある大きな悟りなのだ。

 かつて先覚者たちが喩えとして心の迷いを絶つ言葉を多く残したが、それこそが理性では理解することができないことではないか)


 ここまでは相手の言い分の紹介だが、続けて道元禅師の反撃が始まる。


 かくのごとくいふやから、かつていまだ正師をみず、參學眼なし。

(そのように言う人たちは、これまで一度も正しい師に逢わず、学ぶ力を持っていない)

 いふにたらざる小(獃)子なり

(取るに足りない小物たちだ)

 宋土ちかく二三百年よりこのかた、かくのごとくの魔子六群禿子おほし。

(宋の国では、この二、三百年の間に、こういった悪魔の弟子あるいは仏弟子に相応しくない者が多い)。

 あはれむべし、佛(祖)の大道の癈するなり。

(哀しむべきことに仏道が廃れたのだ)

 これらが所解、なほ小乘聲聞におよばず、外道よりもおろかなり。

(この者たちの考えは小乗仏教にさえ及ばず、異教徒よりも愚かでさえある)

 俗にあらずに(僧)あらず、人にあらず天にあらず、學佛道の畜生よりもおろかなり。

(この者たちは俗人でも僧侶でも人間でも天人でもなく、仏道を学んでいる神や人以外の生まれの者たちよりも愚かだ)

 禿子がいふ無理會話、なんぢのみ無理會なり、佛(祖)はしかあらず。

(愚かな禿頭一派が理性では理解できないなどと言うが、あなたがたが理解できないだけで仏教の開祖はそうではない)

 なんぢに理會せられざればとて、佛(祖)の理會路を參學せざるべからず。

(あなたがたに理解できないからといって、釈迦の理(ことわり)を学ばなくて良いはずがない)

 たとひ畢竟じて無理會なるべくは、なんぢがいまいふ理會もあたるべからず。

(一歩譲って理性では理解できないということを認めても良いが、そうすると、あなたがたが言うところの理性で理解できるということも理性で理解できないことになってしまうではないか(逆説的に言えば、無理会という概念も理性により考えられた概念ではないか、となろうか)。

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