16 嚼
「齟齬ってどんなふうな」
と伊勢くんが問う。
「齟齬は齟齬よ」
とわたしが答える。
「例えば蓮見さんが実際にしたことと日記に書かれたことが違うとか」
「端的に言えばそうだけど」
「具体的には」
「恥ずかしいよ」
「ああ、そういった行為の一種なんだ」
自分が気に入った相手と話すのはとても愉しい。
内容がどのようなものであろうとも。
けれども、そうでない場合は苦痛となる。
気に入った相手と盛り上がった内容と同じ話題でも苦痛の度合いは変わらない。
また同じ話し相手でも虫の居所が変われば相手から受ける印象も変わる。
焦っている/寛いでいるなど状況の違いも反映される。
さて、わたしは何が言いたいのだろう。
「自分に訪れた感情の起伏から想像すると信じられないんだけど、最初のオジサンとの行為はわたしが服を脱いでから三十分もかかってない」
「それで……」
「あのビジネスホテルは、わたしの家から十分まで離れていない私鉄の駅前にあったから、こっそり家に帰ってもまだその日のうち」
「それが……」
「次に行為をしたのは四人のお試し相手を挟んだ後でのことだったけど」
「うん」
「その人数が日記では一人少ないの」
「書き留めたくなかったんじゃないのかな」
「極めてまっとうな解釈ね」
「どういたしまして」
「喫茶店で話して、確かに失敗したと感じたわ」
「なるほど」
「だけど、それは大したことじゃないの」
「じゃ、何が大したこと……」
「わたしの次の相手は、まあイケメンの若い男だったけど、行為の途中でわたしは首を絞められたのよ」
「えっ、そうなの。危ないな」
「危なくはないわ。それはわたし自身が喫茶店でのお試し時間に見越したから。本気じゃないのはわかっていた。……というより彼自身、それを克服したかったみたい」
「意味がわからないよ」
「理由は知らないけど彼は逆の願望を持っていたみたい」
「つまり自分の方が誰かに首を絞められたいと……」
「そう。日記の中だと確かにわたしもそうしている」
「蓮見さんが首を絞めたってこと」
「そうよ」
「今度は逆の意味で危ないな」
「まあね」
「だけど蓮見さんにその記憶がない」
「単に抜け落ちてしまっただけかもしれないけどね」
「でも、そうとは思えない」
「わたしはサディストじゃないからね。だから自分がそんな行為に及べば忘れるわけがないはずでしょ」
「確かに……」
「でも記憶はない」
「厭だったから忘れたとか」
「それなら日記にも書かないと思うな」
「そこはどうだろう。……蓮見さんは、いつ齟齬に」
「はっきりしないわね。日記を読み返すことは余りないし……。備忘録じゃないのよ。小さいときからの習慣だから。その日に目立った出来事がなければ朝夕晩のご飯の献立を記し、それで終わり」
「ぼくは日記を書かない人だから何ともいえないな」
「わたしだって他人が自分の日記をどう扱っているかを知らないわ」
「彼について他の齟齬は……」
「たぶんないと思う」
「蓮見さんは齟齬のあるのが不安」
「それはないな。どちらかと言えば面白がってる」
「不思議な人……」
「どういたしまして」
「だけど記憶違いは誰にでもあるんじゃないかな。程度差があるにしても」
「ああ、それはわたしも思う。だから真剣に悩むんじゃなくて、自分が面白がってるんだって」
「でも、それは自覚でしょ」
「うん、あくまでも自覚だから」
「事実とは限らない」
「他人の目で自分を見ることは出来ないからね」
「映像を介する手があるよ」
「なるほど。それは思いつかなかったな。伊勢くん、頭がいいのね」
「頭は蓮見さんと変わらないよ。同じ大学に通っているのだから。だけど監視カメラについては、ぼくの方が詳しいかも……」
「映された経験が過去にあるのね」
「子供の頃に迷子になってさ」
「それはわたしにも……。ええと、続けて」
「何に気を惹かれたのかわからないけど、猫でもいたのかな、ガレージ側の門扉の隙間を潜って外に出る自分の姿を後に家のモニターで見たよ」
「わたしも小学校の門扉の隙間を抜けて遊んだことがあるわ。あっ、ごめん、話の腰を折って……」
「それは構わないよ。大した内容が続くわけじゃないから……。結局、近くの公園のブランコ奥の叢で、ぼくは寝てしまったらしい。もちろん、そこまで映像に映っていたわけじゃないけど」
「でもブランコ奥の叢に入っていくところまでは映っていた」
「正確には公園の中に入るところだけど」
「家族全員に探されたのね」
「防犯カメラに別の使い方があると気づいたのはママだよ」
「それだけ必死だったのね」
「そこは何ともいえないけど機転の利く人ではあるよ」
「そうか、わたしの行為も監視カメラに映っていれば良かったのか」
「ラブホテルの室内にあるのは監視カメラじゃないと思うけどさ。蓮見さんは使わなかったんだね」
「気づきもしないわ。偶然映像が残っていたりしないかな」
「それはそれでマズイんじゃないの」
「あははは。まあ、そうかな」
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