10 想

「家に人がいないのね」

「時間が遅くなれば帰ってくるよ。」

「なるほど鍵っ子なわけだ」

「そういうこと」


 時刻はまだ午後九時にもならない。

 天井が高く、落ち着いた色合いに囲まれた広い応接間でブルーマウンテンを頂きながら、わたしが伊勢くんと会話をする。


「伊勢くんはアパートとかを借りなかったんだ」

「今はね。でも将来的には借りる予定なんだ」

「それは親離れのため」

 すると少し寂しそうな表情をわたしに見せながら伊勢くんが言う。

「蓮見さんには説明が要らないから話が楽だな。……せっかく来てくれたんだから、ぼくの部屋も見る」

「そうさせてもらうわ」


 わたしが伊勢くんに案内されたのは屋敷の二階にある一部屋だ。

 夜なので方角はわからないが、たぶん東向きだろう、


「ここも広いわね」

「自分じゃわからないよ」


 机/本棚/クローゼット/ダブルベッド/その他諸々が置かれているが、窮屈な感じがしない。

 窓の外を覗くと遠くのビルが霞んで見える。

 目線を下げれば民家の屋根が連なっている。

 伊勢くんのお屋敷が街の高台に建つ証拠だろう。


「そういえば、お食事代を免除してもらってありがとう」

 と思い出したようにわたしが伊勢くんに礼を言う。

 あのとき会計のため給仕は来たが、伊勢くんの母親に何かを言い含められたのだろう、

「お客様のお会計はすでにお済になっております」

 と言われただけだ。

「だから、ここに来るのは嫌なんだよ」

 と伊勢くんが小声でわたしにぼやくが、面倒を起こす気はないらしい。

 ……となれば、わたしも従うしかないだろう。



 やがて伊勢くんがやっと本題に入る気になったようだ。

「どうして蓮見さんは今日大学にいたの」

 と、ようやくはっきりした口調でわたしに尋ねたから。


 食事の席で一度もその話題を口にしなかったから、まさか忘れたのかと訝りはしたが、それは伊勢くんなりの気遣いだったらしい。


 この部屋にいれば、盗聴器でも仕掛けられていない限り、わたしの話を聞くのは伊勢くん一人しかいない。

 それで、わたしも口を軽くする。

 誰に聞かれて困る話とも思えないが、簡単に他人に話してはいけないような縛りを感じるのは何故だろう。


「実はね……」

 と伊勢くん一人に向かい、わたしがゆっくりと話し始める。


 やがて話が終わると伊勢くんが、

「ふうん」

 と首肯きながら真顔になる。


 ついで首を傾げながら、

「蓮見さんのいう『木塊』だけど、似たような木群の話を聞いたことがあるよ」

 とわたしにはまるで予想外の言葉が伊勢くんの口から発せられる。

「それ、本当。伊勢くんが自分で聞いたの」

「……とは思うけど、誰からだったかな。子供のときのことだから、この家の人間か、それとも親戚かもしれないね」

「思い出せないかな」

「うーん、今は無理みたい。それより……」

「それより……」

「そんな冒険をしたのなら、蓮見さん、ゆっくりとお風呂に浸かりたいでしょ」

 と笑顔で言い、インターフォンに用件を告げる。


 インターフォンの先にいるのは、おそらく吉田さんだ。

 すぐにお風呂を沸かす準備を始めるだろう。

 その間、わたしの出番はない。


「申し訳ないわ」

 と一応申し立てはしたものの、一連の流れが変わるとも思えない。

 だからわたしは抵抗を諦め、

「それならお湯を頂くけど、伊勢くんも一緒にどう」

 と誘い水を差すと、

「そんなことをしたらママに絞め殺されちゃうよ」

 と慌てて伊勢くんが返答する。

「だけどさ、お湯を頂いたら、わたしもう帰るからね」

「うん。ぼくがアパートまで送っていくよ」

 と何処までも伊勢くんは紳士のようだ。


 わたしの髪がもしロングだったら他人の家で髪を洗いはしなかっただろう。

 けれどもおでこが見えるくらいショートカットなので、逡巡はしたが、洗うことに決める。

 春の夜だからすぐに乾くだろうという見込みもある。

 さすがに長湯は恥ずかしいので夜烏の行水になるが、それでも心身ともにさっぱりする。

 いや、身の方は眠くなる。


 それを伊勢くんに言うと、

「それなら蓮見さん、アパートに着くまで寝てれば良いよ。丁目を教えてくれれば行けるから」

 と笑う。


 ワゴン車とは別の高級車でわたしが伊勢くんにアパートまで送ってもらおうと屋敷を出るまで家族の誰も帰ってこない。

 固定電話も鳴らず、鳴るものといえばグランドファーザー・クロックくらいだから屋敷中が静けさに満ちる。


「子供の頃から夜はずっとこんな感じだったのね」

 としみじみ、わたしが言うと、

「兄たちも年が離れていたから、そうだね。もう慣れたけど、子供の頃のことは思い出したくもないよ」

 と伊勢くんが答える。


 その目はわたしを通り越し、自身の過去を見ているようだ。

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