6 帰
そんなことを考えつつ、木塊の中で時を過ごす。
愉快とか嬉しいとかいう感慨はないが、自分自身と向き合えたような趣きがある。
当然それもわたし自身の幻想なのだが、それを言えばすべての想いが幻想になる。
この世は幻想に満ちている。
木塊の中にそれほど長くいたつもりはないが、枝々が絡む隙間に覗く外の気配が遅い午後に変わっている。
もうすぐ四時といったところ。
江戸時代の不定時報で言えば(夕)七つ前となる。
それで、そろそろ帰ろうかと思う。
帰りの山道を思えば、足元がしっかり見えた方が安全だろう。
そう思うと、何故か深呼吸をしたくなる、
もしかすると、それはわたしなりの木塊への別れの挨拶だったかもしれない。
けれども深呼吸をしようとし、僅かに惑う。
わたしの知る深呼吸のポーズといえばラジオ体操第一か第二のものだ(第三は知らない)。
そのポーズがこの場に似つかわしくないと感じたから。
それで内容が同じならば効果も同じだろうと自分なりにアレンジをし、海の中を泳ぐようなポーズを考え付く。
喩えれば、平泳ぎの立位型か。
水を掻きわけるときに大きく息を吸い、後方に水を掻くときにゆっくりと息を吐く。
それを四回繰り返し、最後にはクラッと眩暈に襲われる。
軽い眩暈なので倒れはしないが、引き上げ時だろうという気が強くなる。
それで木塊に入った隙間を探し、外に出る。
その場で上を見上げれば空の色が変わっている。
雨が降る気配はないが、場所が山の一部なら、日が暮れるのも早いだろう。
それで木塊に、
「縁があれば、また来るよ」
と声に出して別れを告げる。
すると妙に気恥ずかしい。
辺りに人影はないが、誰かに物陰で苦笑されたような気分になる。
けれども、それもまた幻想。
あの日のわたしは幻想に取り付かれていたようだ。
その自覚はなかったが……。
来たのと同じ道を帰路とする。
地図でもあれば他の道を試すが、土地勘もないのに無謀な行為は危険だから。
もっとも、わたしは子供の頃よく迷子になっている。
結果的に自分で道を見つけて人の世話になったことが殆どないから『よく』ではないかもしれないが……。
とにかく知った道を歩いていると飽いてしまう。
それで脇道に入り込む。
それを繰り返すと迷子になる。
けれども知らない道を歩くときの緊張感は半端ではないので脇道の脇道に進むことは稀なのだ。
だから考え事をしていて場所を失うことの方が多かったはず。
本当の迷子になったことは一度だけだが、不思議とそのときの記憶が薄い。
……というより、記憶の一部が飛んでいる。
幼稚園児の頃の話だが、道に迷った自分を自分で恥じたからだろうか。
今思えば不審者のようだが、若い男が近づいてきて、おそらく今にも泣き出しそうな様子のわたしの手を取り、中通りに出る(たぶん)。
その少し前、わたしは自分がまだ知らなかった近所の民家奥の抜け道を冒険している。
しばらく進んで藪に至る。
その藪を掻き分けると知らない一角。
家々の並びは普通だが、それまで一度も見たことがない。
その中の一軒の柵の中に黒い大きな犬がいて、それも初見。
犬はわたしを見、気づいたらしいが吼えもしない。
その辺りで不安が最大になる。
瞬間移動でもして、知らない場所に飛ばされたような気分に襲われる。
父がSF好きだったから(今でも)、その影響を受けたのかもしれない。
種を明かせば、わたしが迷子になった場所は当時通っていた幼稚園のすぐ近くで、援助者がいなければ、わたしは自力で脱出できたはずだ。
けれども、あのときのわたしには援助者がいて……。
「道に迷ったの」
と訊かれ、
「たぶん、そう」
と答えたところまでは憶えている。
そこから数分の記憶が消え、次にあるのは自分が知る道に立つわたしの自覚。
空も暗くなり始めていたから、すぐ家に向かう。
歩きつつ若い男のことを考え、不審に思う。
あれは誰だったのだろう。
あの若い男は本当にいたのだろうかと不思議になる。
人見知りのわたしが知らない人間に手を取られるとも思えないから尚更だ。
あの疑問は未だ解決していない。
『幽霊の正体見たり枯れ尾花』が世の常だから、おそらく向こうはわたしのことを知っていたに違いない。
それが今のわたしの解釈。
『お譲ちゃん』ではなく『蓮見紗(はすみ・すず)ちゃん』と氏名で呼ばれれば自分の知り合いと認識しただろう。
けれども、そういった記憶がない。
また別方面から(つまり若い男の側からの)、同じ話がわたしの耳に届くこともない。
無論、これから先届く可能性は否定できないが……。
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