5 音
そう思い、不可思議な心持ちになると音が聞こえる。
木塊の中を風が通り抜ける音だろう。
空気の移動が肌を撫でれば心地良い。
冬ならば、ぞっとするような寒さだろうが……。
木塊の中でびゅうぼうと鳴る風音は、わたしが立つ位置にも僅かに依存するようだ。
場所を変われば音が変わる。
さらに移動すれば、また変わる。
もちろん制御はできないが、微妙な変化が耳に愉しい。
外の風が止めば、音が消える。
いや、別の音が置き換わり、その隙間を埋める。
それは木塊そのものの音。
無音だがそそり立つ舎利殿のような感じの音と、それとは対照的な別の音。
当然、わたし自身の存在の音だ。
聞こうと思えばいつでも聞けるが、普段は大抵意識しない。
健康なときは尚更だ。
病気になると気になり始める。
心臓が脈打つ音が聞こえる当然だが、わたしの場合、摂取した食物が内部でこなれて自分の栄養になる音を聞く。
もちろん、そこまで言えば幻想か。
実際には胃や腸がそれぞれに動いて出す音しか聞こえない。
ぎゅるぎゅるだったり、グーだったり、くううぅだったり、ポンだったり……。
だが耳を澄ませばもっと小さな音が聞こえるのだ。
異質の食物自体が触れ合う音。
それらが人体の作用で砕片化される音。
アミノ酸またはオリゴ糖にまで分解され、腸内で吸収されていく音。
それらの音は幻想には違いない。
少なくとも通常の耳にとっては、そうだろう。
そこまで感度の良い耳は誰にもない。
けれども高性能のマイクロフォンで拡大すれば聞こえる実際の音なのだ。
幻想性は微塵もない。
ところで心臓の鼓動は聞こえるが、動脈や静脈を流れる血液の音はまず聞こえない。
心臓/ポンプの音が大きく、掻き消されるから。
だが川を流れる水が、さわさわ、や、ごおおぉ、と音を発するように血液の流れにも音がある。
それは指先や腸内の毛細血管――前者は酸素を送り二酸化炭素を返し、後者は栄養素を送り老廃物を返す――でも同じだろう。
血管内に異物があれば音も変わる。
その原理を利用した健康診断法も既にある。
世界は微音に満ちているのだ。
……とはいえ、わたしは実際にそれらのどの微音も聞いたことはない。
さて、世界が微音に満ちているなら、木塊も微音に満ちているはずだ。
けれども、それが感じられない。
もちろんマクロな音はある。
空気や地面のうねりに合わせ、幹や葉が常に音を立てるから。
樹木が生命として成り立つには葉から光を、根から水や栄養物を吸収しなければならない。
吸収すれば音が鳴る。
どんなに些細でも音があるのだ。
その生命の音が木塊から感じられない。
……かといって死んでいるのかといえば、そうとも思えない。
そこには生命が存在する。
けれども、それを支える背景がない。
喩えれば、そんな感じだろうか。
もちろん、それはわたしが感じた印象だ。
だから幻想に違いない。
この世に不死は存在しない。
初めから生命を持たない非死ならあろうが、不死はない。
少なくともわたしは例を知らないし、当然予想でしかないが、この世の何人も知らないだろう。
伝説や神話/伝承を別として……。
世界最古の不老不死説話はメソポタミアのギルガメシュ叙事詩らしい。
ギリシア神話に登場するティーターン、また北欧神話のアース神族も不老不死だ。
インドのリグ・ヴェーダには不死の飲物アムリタを巡り、神と悪魔が争う様が描写されている。
中国では秦の始皇帝が不老不死を求め、徐福に蓬莱国へ赴き仙人を連れ帰るよう命じたという。
伝説では、仙人を探し損ねた徐福が始皇帝の怒りを恐れ、そのまま日本に亡命したとされる。
日本の竹取物語には不老不死の秘薬が登場する。
また古事記には食べれば不死になるというトキジクノカクという木の実が描写される。
いずれも不死ならぬ身の人間の願望が呼んだ内容だろう。
生物学の分野に転ずれば、個性の宿る個体が滅びたときが死。
だから単細胞生物に寿命はない。
細胞分裂により命を繋ぐからだ。
一方、多細胞生物は子孫を残すという方式で命を繋ぐ。
多細胞生物は細胞の再生能力の限界に伴い、必ず死ぬ。
ベニクラゲなど若返りの例もあるが稀だろう。
ただし細胞の一部を取り出し、培養した場合は話が別。
それらの細胞が不死化することがあるから。
人間でも癌化した細胞が不死株として培養され続けている例がある。
木塊が不死ならば、逆説的にそれが生きているとはいえないだろう。
けれども本当に不死ならば生きている伝説だろうと、ふと思い、その考えの可笑しさ/異様さに自ら笑う。
今はまだわからないが、わたしも老いれば生命を惜しむのだろうか。
それとも古木のように枯れ惚けて、心を失くしつつ土に還っていくのだろうか。
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