閑話 アルベールの憂鬱 後編
「ご主人様、エーレンフェスト侯爵がいらっしゃったそうです」
「!?········」
侍女長が領主の間に入ってきた。
アルベールは思わず吃驚して、コーヒーを少し零す。
「ヴァネッサ、御主人様は少し余裕がないようです。エーレンフェスト侯爵には応接室でお待ちいただくように」
品行方正で儀礼を欠くような人物ではないのでノックを忘れることなどあり得ない。
さらに、ヘンリックは普通に応対していたので、アルベールは自分の方がノックを気づかないくらい考え込んでいたのだろうと合点した。
「そうおっしゃると思い、すでに手配を済ませております。それはそうと、レプトン伯爵が怒っておられるようでしたが?」
「その件については心配ない。誰か問う者がいても、決して広めることなく私に報告するように」
「承りました」
侍女長はひとつ頷くと、そのまま部屋をあとにした。
侍女長の耳に入るということは侍女達の間でも広まっているということだが、表面上は取り繕ってくれるだろう。
辺境伯は安心してほっと一息をつく。
「そういえばそんなこともありましたね。レプトン伯爵との会談はどうだったのですか?」
侍女長が居なくなるのを待ってからヘンリックは問い質した。
「やはり協力はしてもらえないらしい。我らにできることは折り合いがつくまではフィリーネと伯爵一派の交流を抑えることぐらいだな」
アルベールは溜め息をつきながら言った。
レプトン伯爵は辺境伯の妻であるカナリアの父親、つまりフィリーネからすれば祖父に当たるミスランティの中でも随一の有力者だ。
彼は同じく王命結婚に反対であるアルベールとは比較にならないほどの強硬派として知られており、今は周囲が必死に抑えているものの一触即発の事態となっている。
「そうでございますか。予想通りですが、領地の安寧を最優先に考えるとあまりよくない兆候にございますね」
レプトン伯爵家の厄介なところは彼の管理する土地の出身で、ミスランティ辺境伯領の騎士団に所属している人物がとても多いということだ。
例えば、今は引退しているがかつては細麗の副隊長との通り名で勇名を轟かせたリリーしかり、フィリーネの信奉者達のリーダー的存在になっているルイーゼしかり・・・
「問題ないだろう。いくら影響力があるとはいえ、あれらがフィリーネの意思を無視して行動するとは思えん。カナリアに任せていれば十分だ」
「左様ですか」
「ああ。では行くぞ」
アルベールは立ち上がり、エーレンフェスト侯爵を待たせている応接間へとむかった。
* * *
「お待たせいたしました」
「いやはや、こちらももてなしを受けておったでな。何ならもっと遅れてもよかったのじゃぞ」
応接間に入ると、見慣れた好々爺然とした老人が冗談を飛ばしながらカラカラと笑った。その明るさに安心感を感じつつも、数年前の騎士顔負けの体躯を誇った姿を思い出すと感慨深さも感じる。
「そうはいきませぬ。侯爵はミスランティの大事な客人ゆえ。して、この度はどのような御用で?」
「老人の目的もない揺蕩いじゃよ・・・と言いたかったところだがの、状況が変わったな」
人懐こそうな老人の面影はどこへやら、いつのまにか物事を見抜くような鋭い視線を持った海千山千の老獪な文官の姿がそこにはあった。
どうやら彼もこの度の婚約話に並々ならぬ関心を持っているようだと思い至り、口には出さないがそういえばそうだったと思いだす。
「フィリーネとバルデン宮中伯の婚約話ですか・・・」
「話が早くて助かるの。聞くによれば其の方、受け入れる決意をしたとか」
非難するような厳しい視線を浴びせられて、アルベールは天を仰ぎたくなった。
「仕方ありますまい。ミスランティは取り決めにより定められた、断れない王命を行使されたのです。断っていればひと月先にはミスランティの雪も溶けてしまいます」
アルベールは遠回しに、王命の受諾するか戦乱を引き起こすかの二択を迫られていたと弁解した。雪も溶ける、それは戦火と犠牲の比喩である。
「其の方にとってもこれは望ましくないということかな?」
「判断は閣下にお任せいたします」
なんだかんだでエーレンフェスト侯爵は王国の首脳の一人なのだ。いくら誘導されたからとおいそれと認めるわけにはいかない。まあ、答えないことこそ答えなのだが、現地を取らせないことは重要である。
「なんじゃ面白くない」
「民の命を守らねばなりませぬ故」
「さすがはミスランティというところかの」
初っ端からこんな話題では盛り上がるものも盛り上がらない。沈黙が流れる。
それを破ったのは、侯爵の方からであった。
「辛気臭い話ばかりではだめじゃの。というわけでこれをしよう」
「オセロ・・・ですか」
「なんじゃ知っておったのか。最近北の国の知り合いから教えられた遊びなのだがな、これがなかなかに面白くはまっておっての。だがレプトン伯爵には断られたのじゃ。よければ其の方が代わりに相手してくれないかの?」
「・・・私でよければ」
おおかた婚約話で不機嫌だったのだろうが、侯爵の御誘いを断るなど何事だと思いつつも飲み込んで返事をした。
「其の方も中々に筋がいいの」
「ありがとうございます」
接待と思っていたものの、アルベールは思いのほか熱中していた。
意外と楽しい、あとでフィリーネにも教えようと思いつつ会話に興じる。
「カナリア殿とも先程指したが、ミスランティはオセロに秀でた者の多い土地柄なのかもな」
「カナリアとですか?」
「待っている間にな。しかしあれはよくできた嫁よ。儂からしっかり情報を持っていきおったわい」
愛する妻をほめられて気分がよくなるアルベールだった。侯爵相手に待合室で情報収集をしていたとかはどうでもよいと思える。
「ところでの、ソフィアは元気か?」
ソフィアと言えばテオドラの教育係である。そういえばエーレンフェスト侯爵の紹介で雇ったのだったと思いだした。
「元気ですが・・・」
「それは良かった」
嬉しそうで、それでいてどこか寂しそうな顔を見せた。
「実はあれは儂のかつての腹心の娘でな。あやつには儂の不手際のせいで大罪を背負わせてしまった。せめて娘には幸せになってほしいと思っておったのよ」
「会って・・・いかれますか?」
ゆるゆると侯爵は首を横に振った。
「父を破滅に追いやった相手など顔も見たくなかろう。楽しくしているのならばそれでよい。儂らは関わらぬ方がきっと良いのじゃ」
エーレンフェスト侯爵はオセロを終えてしばらく貿易取引の話をしてから、次の予定があると言ってその日のうちに帰ってしまった。
その背中は不思議ととても小さく見えた。
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