88話 トラウマへの帰り道
「おい、ユウジ……おまえは完全に包囲されているぞ!」
「
「おまっ、いまアイツを刺激するような言葉は使うなよ!」
「あの美少女の安否がかかっているんだぞ!?」
「し、しかたないじゃんっ。
「とにかく! ユウジ! 落ち着いて、こっちにその
文字通り、身も心も完全に硬直し切っていた俺を我に返らせたのは、周囲のユウジを攻め立てる声だった。
じりじりとベランダのドアを開け、慎重にこちらへと近づいてくる水泳部の奴らや、吹奏楽部の女子たち。そんな彼ら彼女の動向を、教室内で心配そうに眺めている
「ゆ、ユウジは悪くないです! 友達です!」
俺は咄嗟にユウジを擁護するために叫ぶ。
するとにじり寄って来た生徒達が一瞬だけ動きを止める。その隙に俺は、駆け出した。
「ユウジは何も悪い事をしてません! 友達だから、何でもないです! あなたたちには何も関係ありません!」
ビックリする彼らを押しのけ、俺は
茜ちゃんがいるだけで、鼓動が高鳴り、苦しくなる。
そして、フラッシュバックする、蒸し暑い夕焼けと汚臭。
それらから逃れるように、俺は走り続けた。
「ユウジ! キミはあんな少女の弱みを握って楽しいのか!?」
「成敗だ! ロリコンは成敗するしかない!」
「小官は無実であります!」
「
「くらえ! 水泳部直伝、バタフライパンチ!」
「こっちはクロール連続チョップだ!」
「飛び込み頭突き!」
「ぐふぉっぶふぉっぼへふっ」
背後が何やら騒がしかったけど、ユウジの誤解は最低限解けたと思う。
俺は茜ちゃんから離れたい一心で、無我夢中になって廊下を駆け抜けていく。
「ハァッハァッ……ッハァ」
着なれないシスター服の裾を軽くつまみながら、全力疾走しているうちに、辿り着いたのは渡り廊下だった。
ここまで来れば、もう大丈夫だろう。
もつれそうになる足の速度を緩め、よろよろと歩く。
「ハァッ……ハァ」
どうして、茜ちゃんが夏休みに学校にいたんだ。
彼女も部活には無所属なはずだし、わざわざ学校に来る用事なんてないはず。それなのになぜ……。
「どうして……」
切れた息を整えるため、日差しから隠れるように俺は壁へともたれかかる。
そして、気付いた。
ちょうど、この渡り廊下の中でも外から死角になる場所は、俺が茜ちゃんにウン
「うぅ、これは何の罰ゲームだ……」
無意識のうちに自ら来てしまったのに、悪態をつかずにはいられない。
あの時のトラウマが、
「すぅー」
だけど、深呼吸をして乱れそうになった気持ちを落ち着ける。
とにかく、早くこの場を離れて姉のところに帰ろう。
「……えっと、きみ。大丈夫かな?」
だが、運命は無慈悲だった。
鈴を転がすような声が、俺の背中にかけられたのだ。
逃げたい。
けれど、もっともっと、その綺麗な声を耳にしていたい。
そんな相反する欲求が、頭の中をぐるぐるとめぐってしまい、俺は何もすることができない。
「迷ったの?」
キュッと上履きの小さな足音を響かせ、素早く俺の前方へと回り込んだ彼女は、腰をおろし、わざわざ目線の高さを合わせて心配そうに尋ねてきた。
「さっきは、大丈夫だった? わたしはここの学校の生徒なのだけど、名前は
彼女は少し不安気に、だけど
心配して、見ず知らずの
「えっと、その服は……もしかして、シスターさんってやつなのかな?」
キョトンと漆黒の瞳が、俺を見つめてくる。
可愛いとか、心配してくれてるとか、優しいとか。
いろいろな感情が彼女に対して浮かぶけれど。
久しぶりに、こんな至近距離で彼女を見て。
こんなに身体は近くにあるはずなのに、ウン
――――
――――
うん……。
この状況はきっとマズイ。
「急に話しかけたお姉ちゃんが悪かったね。ごめんね」
俺の瞳が潤んでしまうと、慌てた
「おねえちゃんが何でもキミの力になるから。おねえちゃんはキミの味方だよ?」
これはどう対処したらいい。
あの茜ちゃんと手を繋げるなんて幸せで死にそうだし、でも何か迂闊に喋れない雰囲気だし、頭が真っ白だ。
ここで『俺だよ、
ウン
俺も既に錯乱状態に陥りそうだし。
「えとえと、キミはシスターちゃんでいいのかな? あっ! もしかして、学校の関係者とか?」
終始無言もまずい。
これ以上、彼女に気を遣わせるのも忍びない。
男だろ、俺は! しゃんとしないと!
そう自分を叱咤して、俺は重く閉じていた口を開いた。
「はい……」
学校の関係者であることはウソではない。
在学生なので……。
「あー、うちの理事長が献金してるって話は本当だったんだ! ってことは、やっぱり校内に建設中の礼拝堂と何か関係があるのかなっ」
ニコッと笑いかけてくる
思わず身体がよろけてしまう程だ。
「だ、大丈夫?」
とっさに身体を支えてくれる
彼女のいい匂いが、シャンプーの心地よい香りが俺の鼻孔をくすぐる。
「
口では否定の言葉をあげていても、しっかりと吸い込んでしまう。
とても良い香りだ。何のシャンプー様を使っているのだろうか。
今度、姉に相談して探し出し、買ってもらおう。
って、そんな事を思案している場合じゃないだろ、俺! しっかりしないと!
理性は激しく警鐘を鳴らしているけど、どうも本能がいう事を聞いてくれない。
「ん、なにか言った?」
なんだか、自分が変態野郎になった気分だ。
とっさに首をふるふるして、否定しておく。
「うちも宗教系の高校みたいに、朝礼とか礼拝とかやらされるのかなー」
茜ちゃんはきっと共通の話題をだして、
聞きたい事があると言えば、どうして
「あか……」
思わず出かかった言葉をのみこむ。
今の俺の姿じゃ、こんな喋り方は、
危ない。
思考が支離滅裂になっている。
落ち着くんだ。
「ここには不浄の
自分を抑制えたつもりが、俺の口から出た
「えっ? 私、もしかして
慌てて、俺から離れる
ええ、それはもう甘美な匂いの残り香が漂ってますよ。
「いいえ、
待て。
俺は何を聞こうとしている?
「とある生徒が、
時間が止まった。
そう錯覚してしまう程、
そう、この顔だ。
俺は、記憶の底に埋めたはずの
「気持ちわるいですよね」
やめろ。
「神聖な学び舎に、……不浄物をまき散らすなんて」
止まれ。
どうして、俺は自分の口からこんな事を。
こんな内容を言いたかったんじゃない。
でも、客観的に見たら、俺のしでかしてしまった事件を表現するとしたら、きっとこう言わざるを得ない。
これで……これで、ウン
「許せないですよね」
あの時の不甲斐ない自分が許せない。
そして、今もこうして
吐き気がしそうだ。
でも、俺は……神に盲目的に許しを請うのではなく、自分自身がしでかした所業と向き合って、茜ちゃんの言葉を受け止め、気持ちの折り合いをつけたい。
彼女がなんて言おうと、俺の心がバラバラに砕け散る事はきっとない。
ユウジは言った。
『何一つ、変わらない』と。
俺の姿がこんな事になっても、変わらないものだってあるはずだ。
それでもダメなら諦めるしかない。
それぐらいの覚悟は……できている。
だから、きっと大丈夫。
「あなたも、そう思いませんか? ここで
俺の問いに、茜ちゃんは沈黙を落とした。
怖くて、痛くて、俺は自分の足元を凝視しながら、彼女の言葉をジッと待つ。
「キミが誰から、その話を聞いたのか気になっちゃうけど……」
永遠にも感じる空白を経て、彼女は言った。
「そんなことない。誰にだって、具合が悪いときはあるでしょ?」
……え?
きっぱりとした口調で、茜ちゃんは俺に同意を求めてきた。
「私はその場にいたけど、そういう風には思わなかったよ」
……ドン引き、してない?
「彼はいつも一生懸命だから。そんな彼の日々の行いが、たったそれだけで失われるなんて事はないもん」
幻滅してないのか?
「良く分からないけど、神様を信じるって事も同じなんじゃないの?」
……。
「神様へ祈りを込めても、何も良くはならなかったし願いは叶わなかったとして。ただ、それだけで神様を信じることをやめちゃうの?」
なぜ、神様?
あぁ、俺がシスターだと見て、わかりやすいように例え話をしてくれているのか。
「私は
……。
なんて、嬉しい事を言ってくれるんだ。
ずっと下を向いていた俺だけど、思わず茜ちゃんを見上げてしまった。
そこには太陽のように明るく、俺を照らし出す、彼女の笑顔があった。
「たった一度の過ちも、神様は許してくれないの?」
キミがそんな風に思っていてくれたのが、何よりの救いだ。
歓喜に打ち震えてしまう。
同時に俺は、新たな罪を作ってしまった。
せっかく彼女が俺の事を信じていると言ってくれたのに、自分の正体を偽って、彼女の気持ちを聞き出してしまったことは恥ずべき行為だ。
ならば今、言うしかない。
自分の正体を、ウン
茜ちゃんがどんな反応をするのか、もう恐怖の連続だ。
足がガクガクするけど、無理矢理に意志の力でねじ伏せる。
告白をしないと。
「あの、実は……あかねちゃ――」
「こんなところにいたのか! スマホに連絡しても出ないし、心配したんだぞ!」
姉の呼ぶ声が、俺の小さな声をかき消してしまった。
――――
――――
結局のところ、茜ちゃんにはカミングアウトできなかった。
だけど一学期の中旬頃にラインは交換はしてあったので、この夏休み中に連絡し、タイミングを見計らって打ち明ければいいかな。
「おい、太郎。なんだか、機嫌が良さそうだな?」
学校の帰り道。
隣で手を引いてくれる姉が、不意にそんな質問を投げかけてきた。
「それはもう、姉のおかげで学校に通い続けることもできるしね」
それにユウジとの事もある。
なんていったって、茜ちゃんの気持ちを聞けた事が一番嬉しかったのは秘密だ。
「なにをニヤニヤしているんだか」
呆れるような姉の声は、夏の夕空に吸い込まれるように消えていった。
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