60話 美少女カミングアウト(2)


 少女化してしまった俺の胸に、ずっとくすぶっていた恐怖の根源は価値観の変化だ。



 例えば極端な話。


 俺に付き合っている女の子がいたとして、その子がある日を境に10歳前後の幼い男の子に変化を遂げてしまったら。果たして、俺はその子の事を恋愛対象として見続ける事ができるのだろうか? そもそも、幼い男児相手にそういった目を向ける事すら、法律的にはばかられるのではないだろうか。

 青春の一ページを飾る甘い口付けも、男子なら焦がれてやまない子作り的な欲求も。その全てを、突然幼い同性になってしまった相手に抱くことはできるのだろうか。

 好きな女の子に対する気持ち、様々な倫理や概念が、根底から覆されるのではないだろうか。

 


 姉や、友人、今まで構築してきた人間関係が容易く崩れていくのではないかという猜疑心と畏れから、なかなか言い出せずにいた。



 だけど、今。

 一番近しい距離にいた家族であり、幼い頃から俺の面倒を見てくれた姉に真実を見せた。



「私の記憶によれば……太郎は男子だったはずなんだが、それは記憶違い・・・・というものだろうか?」

 

 黒曜石を丹念に磨き上げたかのような、その煌めく漆黒を伴った姉の両眼には至極真面目な光がこもっていた。記憶ちがいという珍妙な表現の仕方に一瞬、俺は姉が混乱していると錯覚してしまったが、どうやら思い違いかもしれない。

 

「……うッ、ぐっ」


 俺を俺だと、即座に看破し、信じてくれた姉に対する嬉し涙は滴り落ちるばかりで、全然止まる気配はない。


 それでも、目の前の姉が真剣に答えを求めているのが伝わってくるので、俺は働かない頭をなんとか落ちつけようと、両目から流れ落ちる小粒の雫たちをぬぐっていく。


「記憶、ちがい?」


 ぽそりと確認すると姉は静かに頷く。

 姉は、自分の記憶力に自信を持てないという人間ではないはずだった。

 

 では、なぜそんな事を聞いてくるのだろうか。

 疑問が口をついて出てきそうになるけど、まずは自分に起こった事を正直に話すことにする。


「記憶違いではないよ。俺は姉の弟だ……でも、10日程前に身体が急に変わってしまって……」


 ゆっくりと、だが確実に。

 終業式から今までの事をカミングアウトしていった。

 少女化してから、クラン・クランで現実逃避に走っていたこと。一応、市役所で身体の変化について報告もしたこと。いわゆる、自身の症状はニュースなどで報道されている性転化に該当するということ。


 姉はその間、一切の言葉を発することはなく、ただ黙って耳を傾けてくれた。時に眉をひそめ、時に瞳を歪ませ、時に唇を噛む。いつものクールな姉とは違って、顔に現れる一つ一つの表情全てが、俺の身を案じる暖かみを帯びていた。

 自然と秘密にしていた事への罪悪感が膨れ上がっていく。


 ぽつり、ぽつりと静寂の部屋に、俺の贖罪にも似た近況報告が落ちた。



「姉、なかなか言い出せなくて、その……ごめん」

 

 全てを言い終えた俺に、姉はどこか安心したようにホッと息を吐いた。



「バグじゃなかったわけね……」

「うん……」

 


「バカな、弟だ」

 

 やれやれと肩をすくめ、姉はソッと俺を抱き寄せてきた。

 

「太郎、訊太郎じんたろう……お前は、お前が少女になる事で、私がお前に対する扱いが変わるとでも思ったのか?」


「た、多少は……」


 嘘だ。本当は今までとは全然違う対応をされるのが怖くて怖くて仕方なかった。見た目が変わるってことはそういう事だ。まして俺は性別まで……。


「確かに、多少は変わるかもな。身体の変化に合わせて変えるべき部分は必ずある。まがりなりにも、今の太郎の身体の先達を行っている私としては、然るべき指導や教育を施さなければならない義務がある」


 そう言って顔を合わせてくれた姉は、神仏に身を捧げる神官様の如く、晴々として清らかだった。


「だがな、例えば……」


 一旦言葉を区切った姉は、しゃくりを上げる俺を諭すような口調で再び語り始める。


「父さん達が連れてきたミシェル。今では私たちの妹であるミシェルが、弟だったとしても私たちの態度は今と変わっていたかと思うか? 妹に向ける感情に、家族だと思う気持ちに違いはあると思うのか?」



 姉の、その質問はストンと胸に落ちた。

 両親を失い、色々な事情を経てウチで引き取る事になった俺達の妹、ミシェル。彼女がたとえ弟であったとしても、一緒に過ごしてきた幼少期の日々や思い出、それらが失われる事はなく、家族として大切な一員だと思う気持ちに何の変化もないだろう。


「変わりはしない……ミシェルは大事な俺達の家族だ」


 俺はこんなにも素晴らしい姉の事を信頼できずに、一人でグジグジと思い悩んでいた事を切に恥じた。俺の姉は、いろんな意味で広く大きい人なのだなと痛感させられた瞬間だった。

 

「そうだろう? それは私にとっても同じことだ」


 そう言って姉は鋭い視線で俺を睨み、右手でこぶしを握り締める。


「この愚弟め!」


 そして、そのまま俺の頭へと堅く握られた右手を振り下ろした。

 ガツンと鈍い痛みが頭頂部を突き抜け、背中から足へと、身体の隅々まで走り渡った。


「今度からはもっと早く、私に言いなさい」


 不思議とその痛みは、確かなぬくもりが込められていた。不安に閉ざされていた胸の内に、心地よいポカポカとした陽気が沁みてくるような。思わず俺は姉を見上げ、つい顔をほころばせてしまう。



「そのゆるい笑顔は、ぜったい家族以外には見せるなよ」


 姉はよく分からない事を呟き、ストレートロングの黒髪を揺らしながらそっぽを向くのだった。







 姉に父さんや母さんへは、この事を伝えたの? と尋ねられ、俺が市役所を通して伝わっているはずだと答えたら、盛大な溜息ためいきをつかれた。

 

「あんたね、いくら自由人のあの・・父母でも、太郎がこんなことになってたら、すっ飛んで帰ってくるわよ。今から電話するわ」


 すぐに姉は父へとスマホで電話をかけ始めた。

 しかも、父さんの声が俺にも聞こえるようにスピーカーモードで。

 姉が電話をかけると、すぐに繋がったようで、口早に俺に関する市役所から医師の紹介状や書類等などが届いてないかと確認をしだす。



『あぁ~~なんか知らない番号から着信が何度も来てたな……』


 何やら、背後でドドドドドッと銃声にも似た連続音とか、誰かの叫び声とか、不安を助長させるような騒音が聴こえてくるが、父さんの声音は至って平常運転だ。


訊太郎じんたろうのやつ、何か病気にでもなったのか?』


 市役所の職員さんが何度も電話をしてくれたのだろう。

 子煩悩である父さんが俺の現状を知って、一切の連絡をしてこなかったという事は、まぁ半ば予想していたが、俺の事は伝わっていなかったのだろう。

 市役所職員としては、姉という保護者がいると思い込んでいるし、しばらく様子を見るスタンスだったのかもしれない。

 

 それは、自分の変化を家族に知られるタイミングを引き延ばしたいという俺にとっては、好都合でもあった。

 だから、何となくボンヤリと受け止めてはいたけれど。


「父さん、貴方はなんて呑気なことを」


 姉の能面のような顔を見て、後悔する。

 電話越しの父さんに対し、静かに激怒している姉は触れるだけで全てを切り裂きそうなほど、鋭利な空気をまとっていた。



 ……父さん、ごめん。

 もっと早くに俺の携帯から電話するべきだった。

 

『いいじゃないか~~愛する娘の電話には出るんだからさ~~』

「愛する息子が大変なことになっているわ。その件についての電話だったのよ」


『あなた、トルコの国際事務局から郵便が日本から届いたって連絡きてたじゃない』


 誰かの悲鳴や絶叫、怒号が響く中、不意に母さんの声が届く。きっと父さんの後ろにでもいたのだろうか。

 

『あぁ~~、あれな。近々、こっちに届くそうだ』

「こっちって。今どこにいるの? ミシェルは元気なの?」

 

 姉が猛烈な勢いで質問攻めをする。


『あぁ~~、今はパキスタンだ。ミシェルはさすがに情勢が不安なここまでは連れて来れないから、信頼できる人の傍に預けてある。夏が終わったら日本に帰らせておくぞ~~』


「パキスタン? なんで、またそんな物騒な所に……はぁ、もういいわ。それより太郎が大変なの」


 それから手短に、姉は両親へと事情を説明し、今後の方針を素早く立てて電話を切った。俺の現状を知った父と母は、背後から聞こえる喧騒に負けず劣らずの悲鳴を上げて、俺に無事なのか、とか体調はおかしくなっていないのか、いや性別が逆転してる時点で健康面を気にするのもおかしい、いやでもこれは重要な確認事項だ、などなど俺に話しかけているのか、夫婦ふたりで話し合っているのか途中で分からなくなるぐらいの慌てっぷりだった。

 俺が電話で受け答えを少しすると、本当に女の子みたいな声変わりしてんなぁ! と父さんの少しズレた感想が印象的でした。



「はい。じゃあお昼ご飯を軽く食べたら、病院へ行くわよ」


 電話を終えた姉は、有無を言わさない般若のような鬼神モードに突入していた。





 父や母は俺の変化を把握し、急遽予定を変更して三週間後に日本へ帰国するそうだ。その際、ミシェルも同行してくるらしい。というか、元々ミシェルは日本の学校における夏休み期間が終わるとともに、しばらくはこちらに落ち着くことになる予定だったそうだ。



 家族会議を手早く終えた後、姉はテキパキと準備を整え、市役所に行き医者への紹介状を保護者代理として受け取り、俺の病院行きへと付き添ってくれた。



「太郎はコレを着ておきなさい」


 もちろん外出時は妹のミシェルが置いて行った女子用の私服を、拒否権なしで着せられた。一瞬だけ、姉の俺を眺める目が、妖しくうっとりと輝いていたのは気のせいだと思いたい。


 病院ではCTスキャンやら、血液やら、皮脂の一部を取られたりと色々な検査を受けたけど、現段階では何の異常・・もないそうだ。

 


 そう、何の異常も見られない健康な女の子・・・だと診断された。



 その結果にやはり意気消沈してしまう俺だが、今は傍に姉がいるので思っていたよりも不安に駆られることはなかった。


 全ての検査が終わり、家に着いた頃には日が傾き始めていた。

 西日が射しこむベランダで、洗濯物を姉と一緒に取り込む。


「……正直、怖かったよ」


 改めて科学的に女だと判定された俺は、何を言い出すでもなく自分の気持ちを正直に伝えた。

 姉は俺の感想に、乾いた衣類を回収する手を止める。そして俺の方は見ずに、小さく頷いてきた。


「わたしもだ」


 小さく吹きつける夕凪に遊ばれた長い黒髪を、右手で耳にかける姉はどこか遠くを見ているようだった。視線の先は沈みゆく紅に向いている。その凛々しい横顔には、どこか影がさしているように感じた。


 しばらく互いに黙って夕日を見つめ合っていると、ふいに姉が低い声で呻いた。


「太郎まで・・、おかしなことを言いだしたかと思った」



 少女化という十分に不可思議な現象を口に出したと思うけれど、俺は姉の続きを遮らないように言葉を発することなく待つ。


「あいつら……トムとジェリーなんだがな……」


 クラン・クランで頻繁に姉の両サイドにはべっている、渋い風貌のオジサン傭兵プレイヤー二人組の名前が姉の口からこぼれる。


「実はあの二人は同じ学部の友人なのだが、八日程前からおかしな事を言い出したんだ……」


 あの二人の容貌はゲーム内では、歴戦の傭兵めいた中年だが、実年齢は二十代と聞いていたけど、まさか姉と同年代でしかも学友だったなんて予想外だった。



「大学のキャンパスにいつの間にか変な建物ができていて……それがクラン・クランにある教会と酷似していたのに、あれは前からあっただろうとか言い出したわ」


 姉の話を要約すると。

 彼女が通う大学は外国にいくつかの姉妹校が点在していて、カトリック系大学であったりもする。だから、学内の敷地にはキリスト教の教会や礼拝堂が備えられているわけだけど、ある日を境にクラン・クランにあるような建物に丸ごとすり替わっていたという。


「気付いた当初はトムとジェリーもいぶかしんでいたのに、次の日になったら何の疑問もなく『この宗派は昔から存在していた』と主張して、逆に私の正気を疑ってきたわ。しかもキリスト教ってどこの宗教だ、なんて言う始末よ」


 だから、ついに弟が女の子になって見えた時は自分の眼や記憶に不安を覚えたってわけ、と姉は独りごちる。


 なるほど。記憶違いなんて尋ねてきたのには、そういう理由があったわけか。

 何でもないように振舞う姉だったが、その背中はやけに小さく映った。だから、俺は安心させるように強い声音を意識して張り出す。



「キリスト教はあるでしょ。トムとジェリーさんは歴史の勉強をしてないのかな。キリスト教なんて有名な宗教は、常識の範囲内だと思っていたのに」


「そう。そうでしょ。よかった、太郎はわかるのね。でも、大学の誰もがその建物があるのが当たり前といった態度でいるから、私の頭がおかしくなったのかって思いたくもなるわ」


 安堵しつつも、姉の眉間には小さなしわが寄っていた。

 

 急にゲーム内で存在するような建物が自分の通う学校に現れたら、俺でも正気を疑うかもしれない。それこそ、ゲームのし過ぎて現実と虚構の区別がつかなくなってしまったのではないかと。しかも、同じゲームをしているはずの学友であるトムとジェリーさんの二人は、前からこの建物はあると主張し、ゲームをプレイしていないであろう、他の学生や大多数の学校関係者も何ら不思議がる事をしないとなれば、たしかに自分自身に大きな不信感を背負うことになる。



「そうだ。そのキリスト教の件について俺の友達、晃夜こうや夕輝ゆうきにも確認してみるよ」


 それは助かる、と淡く微笑む姉。

 


「そういえば、その友達には太郎に起こった事を相談したりはしたのか?」


 的得た質問に、思わず俯いてしまう。


「いや……まだ、だよ……」



 夕輝や晃夜にカミングアウト。姉同様に、アイツらも俺にとって大切な存在だ。高1にもなって、ウン白をかました俺なんかに平然と手を差し伸べてくれたアイツらには、家族の次に、誰よりも早く向き合わなくてはいけない相手なんだろう。


 でも、姉は女子だ。対してアイツらは男子なんだ。

 その違いが何を生みだすのかが、心配で。今までのようなバカを言い合うような仲になれるのだろうか。



あねにとってね、弟だろうが妹だろうが関係ない。大事なきょうだいなんだ。それだけでいいじゃない」


 姉は言う。


「太郎は太郎だ」


 そして、そっと肩に背中に手を回してくる。


「しゃんとしな訊太郎じんたろう。そして、私に甘えてきな」


 ぐっと抱き寄せられる。

 そのぬくもりが、俺と姉の――――


 何かを、不安を溶かしていく。

 


 この木漏れ日のような暖かさ、小さな光が、俺を俺だと変わらずに気遣ってくれている証。



「ん~~よしよし」


 そう言いながら、とろんとした顔で俺の頭をなでる姉。


「おい、姉」

「なんだ、太郎」


「扱いが、少し変わってないか?」

「太郎を可愛いと思う気持ちは何ら変わってないわ」


 ぽんぽんと優しい手つきで、今度は俺の頭頂部に手を置いてくる。


「だけど、この歳で頭なでなではゲームの中でなら……いいけどさ」


 口ごもる俺に、姉は断固とした口調で言い返してくる。



「姉の意向に下が逆らう事は許さないわ」


 うん。この強引さは、何も変わってない。



 気持ちがあれば、変わらないモノもあるんだ。

 ベランダで姉にハグされる恥ずかしさに耐えつつ、俺はぼんやりとそんな事を思った。



「明日は太郎の新しい服を買いに行くぞ。もちろん女子物だ」


 ん……?


「まさか、太郎。一応は兄であるお前が、妹であるミシェルの服を借り続け、その身に着続けるなんていうヘンタイ行為を、当然のように行うつもりではないだろうな?」


「えぇぇ!?」


「対応すべき箇所には、迅速に行動を起こす必要性があるわ」


 ニッコリと笑う姉。



「えぇぇええぇ!?」



 茜に薄闇のヴェールが降りた群青色の空には、気の早い星々が瞬き始めている。俺の発した動揺の声は、そんな静かな夕闇空の中へと吸い込まれていったのだ。



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