第22話
数日後、ロンドン警視庁エントランスには物々しく、それでいてピリピリとした空気が漂っていた。数々のお偉いさんと混じって場違いなのがスミルだ。
まだ職員は登庁していない時刻、人目を避けて欠伸を噛み殺す。今から何が起こるのか知らないスミルは、朝も早くからアポなしで叩き起こしてくれた上司、ヘンリー・アノンを剣呑な目で見つめることしか出来なかった。五十代中頃のヘンリーは柔道参段、最近は現場にあまり出ないせいもあり、大きく出たお腹で制服が窮屈そうだった。
「来たぞ、シャキッとしろ」
エントランスに滑り込んで来たのは一台の高級車だった。黒塗りの車は皆に見せびらかすように煌めいていた。
運転手が降りて来て後ろの扉を開ける。そこから降りてきたのは、アンジェラより少し上くらいの男だった。誰かを思い出させる憎たらしい黒髪と人懐こそうな目には若干の生意気さが見て取れる。
(誰だ?)
訝しむスミルを前に皆深々と頭を一斉に下げるものだから、慌てて周りと同化するように頭を下げた。
「お待ちしておりました。ルーサム様」
どこかのボンボン丸出しの男に大の大人がこぞっておべっかを使い始めた。
「どういうことですか? これは」
隣に立っている笑顔の張り付いたヘンリーにスミルは少々語尾を荒くひっそりと耳打ちした。
「仕方ないだろ? 彼の父が法務大臣なんだよ。それが今回、経験値を上げさせるためだとかで、わざわざ中国から呼び寄せたんだと。なんでも射撃の腕は中国警視庁一! だとか」
「そんなの、あちらで上げさせればよいでしょう!」
経験値ならロンドンに来なくともどこでも上げることはできる。それに、そうそうに銃など撃つことなどない。どれだけ中国というところは治安が悪いのか? スミルは隠れて頭を抱えた。
「どうせ、手もとに置いときたいとかいう理由だろうよ?」
納得が行くはずもない、見るに見かねたスミルは、この後に及び逃げようとしたところ、ヘンリーの思いもよらない一言にその場に立ちすくんだ。
「申し遅れました。ルーサム様、スミル・サクールです。しばらくの間のルーサム様の召使いといいますか? 分からないことがありましたらどうぞ何なりと」
ヘンリーに言われたルーサムはニコリと微笑み右手を差し出して来た。スミルがしばし悩んだ後、その手を取った。
「来月から君たちの上司になります、無明(むみょう)・ルーサムです。存分に楽しませてくださいよ?」
上司? 楽しませる? スミルはヘンリーに勢いよく振り返る。しかしヘンリーは首を左右に振るだけだった。
改めてまだ握られたままの手からルーサムに目を移す。その表情は、にこやかに微笑んではいるものの、なんの感情も読見とれなかった。ぞっとするような何かがその中に孕んでいる。
中国系イギリス人にて有力者、あげくに七光り。だが、この計り知れない胸騒ぎはどう説明していいのか? スミルの直感は関わってはならないと警笛を鳴らしている。
「よろしく」
その一言で周りから拍手が上がった。スミルはこの少々異常な事態に息を呑んだ。
(コレは逃げられない)
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