第18話

 扉を一度強く叩きアンジェラはその場で座り込んだ。

「誰か気づいてよぉ」

 ここはフリン不動産の地下。仄かな電気だけつけられ通気口などは一切ない。

 山ほど積んであるダンボールに背をもたれ夜雨はアグラをかいていた。

「あなたも、なんでそんなに落ち着いてられるんですか……なんで私なんか庇ったんですか?」

 逃げていればこんなことにはならなかったのにと、アンジェラは夜雨を少しムッと膨れて見つめた。

「立て続けに質問すんなっての。まぁ、こうなっちまったんだから仕方ないだろ? かわりに助け、呼んどいてくれ」

 そう言いつつ上着を脱ぎ壊れた防弾チョッキを脱いだ。止まりかけのべったりとした血が下に着ていた服を汚していた。

「本当に大丈夫ですか?」

 さっきまでフラフラしていたのに、憎まれ口を止めない夜雨のもとにアンジェラは、まるで手負の獣でも診るように恐る恐る近づいた。

 自分の着ていた服を破り止血をしようとしていた夜雨は手を止めてそんなアンジェラに気付きふと見上げた。

「見ない方がいい」

 馬鹿にされたと思ったのかアンジェラは先程よりもさらにムッとした顔をして隣に座り込んだ。

「大丈夫です!」

 かりにも警察官だ、血くらい見慣れてるし怖くもない。真剣な目に夜雨は意地悪く笑うと傷口から手を離して見せた。途端、アンジェラはビクリと飛び上がり身を引いた。

「ほらみろ。これでもかすり傷だ。まぁ、コレ着て無かったら死んでたな」

 ケタケタと笑いグッと力を込めて傷口を押すとほんの一瞬、顔を歪めた。

 確かに見た目ほどひどいものではなかった。血もそこまで流れてはいないのでショックに陥ることもなさそうだ。鮮やかなその手筋にアンジェラは少し見とれてしまったが、すぐに首を横に振り、惚けた自分を追い払った。問題はそこでは無い。

「なんで助けてくれたんですか?」

 見ず知らずの人間を助ける必要など彼にはないはずだ。だけど彼はそうしなかった。アンジェラはジッと夜雨を観察した。妙な事に嫌にうるさく心臓が鳴っている。口を開けば出てきてしまいそうだ。そんなアンジェラをわかるはずもなく、夜雨はうーん……と、少し考えるように目を天井に泳がせた後、のんびりと言った。

「強いて言えば、気の迷い? お前こそどうしてあんな奴かばう必要あったんだ? いくら警察だからってあいつの正体知ってんのか?」

 応急処置を手早く終わらせた夜雨はさっきまで着ていたべったりと血のついた上着を両手で持って見つめた後、諦めたようにそれを放り、タイトな薄手のインナーのみの姿になった。

 正座をしたまま俯いていたアンジェラが消えそうな声で言った。

「私だってかなりまずい人だってことは知ってますよ。何か隠してるのも、人を暴行しているということも……でもボディーガードを依頼されてしまったし。引き下がる事が出来なかったんです」

 そこは引き下がれよ……と、言う呆れ声が聞こえてさらに居心地が悪くなる。

「あいつ何人か人殺してるぞ」

 調べればいくらでも出てくるはずだ。でもその証拠が出てくるとは限らない。

「なんとなく想像はしています。証拠が出れば逮捕します。殺しは見逃すことはできません……絶対に」

 はぁ……と、夜雨は大きくため息をついた。多くの人間が学校で習う模範解答のようなセリフだ。

 殺されても殺してはいけない。裁きは法に任せる。だが、法がまともに機能していないのにどうやったら裁きを受けるのか? 現に法を掻い潜り逃げ延びているではないか。

 首を垂れた夜雨の瞳がふいに冷たく光る。アンジェラはその凍てつく黒に背筋を震わせた。

 表にはふれない場所で密かに行われている強行の全てを彼らは知らない。いや、もしかすると知っていても目を瞑っているだけかもしれない。影でドレーク家族のように苦しんでいる人間はたくさんいるのだ。暴力でねじ伏せられた場所に人権なんてものはそこには存在しない。やがて追い詰められて自ら身を投げる。彼らはそれでもそれが正しいと本当に思うのだろうか? 追い詰めた人間の罪はなんだ? それとも追い詰められた人間が悪いとでも言うのか?

「証拠が出なければどうする? 闇に葬られるだけだろ」

「それは……」

 アンジェラは言葉を続けることが出来なかった。証拠が出なければいくら状況証拠がそろっていても文字通り迷宮入りになる。それに気づいてしまったのだ、ホリーたちの件のように事件になっていないものもあるということに。

「それでも……それでも私は探したいです。真実が知りたい。助けたい人たちがいるんです。その人たちが苦しんでいるなら、手を貸したい……!」

 脳裏に焼きついたように離れない光景がアンジェラにはある。まだ手術する前に見た光景だ。寒い部屋に白いシーツを顔までかけられピクリとも動かずに横たわる母の姿。犯人は未だに見つかっていない。

「救いたい、もう誰にも悲しんでほしくないんです。だから真実を見つけるのを諦めたくないんです」

 キュッと両手を握るアンジェラを夜雨は目を細めて見つめた。何かを抱えた目。それを知ろうとも知りたいとも思わない。その時、微かだが外から音が聞こえてきた。

「俺は刑事じゃないからな、誰が悪いかなんて関係ない。ただ言えるのは、殺される方にも理由があるっつーことだけだ」

 そういうと夜雨はゆっくりと立ち上がる。長躯の細身に無駄な脂肪は無く程よくついた筋肉が薄く見える。モデルのような立ち姿にアンジェラは息を飲んだ。

「あんたの言う真実がどこにあるのかそんなもんは分からんが、目に見えるだけが真実じゃない。真実は手の届かない奥の奥に隠れてて出てこない時だってある。下手すりゃぁ二度と拝めない事だってある」

 日の光にも当たらずに大切に箱の中にしまわれてるかもしれない。はたまた、真っ黒い嘘に包まれて、すぐ手の届くところにあるのに気づいていないのかもしれない。

「それを見極めろ」

 迫る足音に夜雨はアンジェラを振り返り見た。

「本当の悪は表には出てこない。善人という分厚い皮をかぶってる。お前にその皮が見破れるか?」

ほのかな灯の下、真っ直ぐな目がアンジェラを捉えた。遠くからでもわかる黒い夜のような目だった。それでいて愁いの籠った静かな目。まるで夜空を映す凪いだ海だ。

 でもどこか見覚えのあるものだった。どこでだっただろう? 

 ふと脳裏に浮かんだのはあの日の出来事。月のない夜、シトシトと雨の音が聞こえた胸の苦しみから逃げようとしていた自分を静かに覗いていたあの目と重なる。

 あの時のアンジェラはまだ幼く目は霞んでいてはっきりと見えなかったが、その男は白い服を着ていて真っ赤に目を腫らしていた。

 今でも鮮明に思い出せる。抑揚のない声、熱い感情を隠しているのに、それでいて落ち着く不思議な声。それなのに自分を見る視線はとても儚げで、今前に立っているこの男と同じように底を知れない深い闇は不気味なほどキレイだった。だが、なぜだろう?

なんで、なんでそんなに……


“悲しそうなの?”


「あ……」

 アンジェラが口を開いた時、夜雨は地下室の扉にいやらしい笑みを向けた。

「離れた方がいいぞ?」

 そう言うや否や地下室のドアがものすごい音を立てて吹き飛んだ。

「ゲホゲホ……!」

 おもいっきり埃を吸い込んでしまったアンジェラが咳き込んでいると何人かの靴音が響いた。ハッとし、アンジェラが顔を上げるとそこには見慣れた男が立っていた。

「スミルさん!」

「バカが!」

 アンジェラを見るなりゲンコツで頭を叩いた。

「いった……! ひどいじゃないですか!」

 警察官二人の言い争いを放置して棗は夜雨のもとへと駆け寄った。

「無事か?」

「なんとかなぁ」

 相変わらずの間延びした声に少し安心した棗は胸を撫で下ろした。

「地下室なんて反則やん。お前の血の後追ってここまで来たん。ドア開けるのに二階に残ってた爆弾拝借したわ」

 耳がキーンとするとばかりに頭を小さく振る。

「じゃぁ、さっきのって……」

 アンジェラに支えられた時、よくフラついたように歩いていたのは、出血が酷いからではなくてガロンから隠れるように道標を残していたのだ。

(ちょっと私のあの緊張を返してよ)

 あれも演技だと知りアンジェラは複雑な表情になった。人生であんなに異性と密接したことがなかったアンジェラは恥ずかしさとどこか残念な気持ちを隠すように顔を覆った。

「それは悪かった。で、あいつはどこに向かった?」

「ちょっと待ち」

 耳のインカムを指差し電源を入れると、スクロの声が聞こえてきた。

『こんばんわ、今セントソルテに向かってるところです。この分だと後十五分ほどで着きますよ? 早くしてください』

 最後にちゃっかり催促までしてくる。

「この間潜入した時、箱に発信機入れといたんや。撃たれ損はせえへん」

 と、棗は胸を張る。

「了ぉ解。さすがイケメンはやることが違うな」

 予期せず褒められた棗は照れながらヒソヒソと夜雨にそれでいて恥ずかしそうに言う。

「もっと褒めてくれても、いいんやで?」

 モジモジと上目遣いで催促したところを夜雨にベシッと顔面を叩かれた。

「調子に乗るな。行くぞ」

 まだ文句を言いたげにツノ口をしている棗と夜雨が部屋を出ようとするのをアンジェラが呼び止めた。

「待ってください!」

 いきなりのことにその場にいた三人はアンジェラを見た。

「私に出来ること、何かありませんか?」

 隣でタバコを吹かし始めたスミルが言った。

「安心しろ、検問は張ってある」

「でも! でも……」

 ギュッと握る手と硬く結んだ口。それに反して意思の揺るがない目。

「……」

「行くぞ」

 棗に肩を叩かれても夜雨は微動だにしなかった。何かを訴えるような目だ。それがいつだかの青い目と重なる。自分とは違う澄んだ空のような青は夜雨の何物にも染まらない闇夜のような漆黒と混ざり合う。やがてゆっくりと夜雨が口を開いた。

「そこら中に出動出来る消防車を全て配置しておけ。気休めにはなるはずだ」

 夜雨の言葉に途端、アンジェラの目が輝く。

「後、出来れば無線を切り替えろ。奴に筒抜けになる」

「ハイ!」

 丁寧に敬礼までし姿勢を正した。誰に向かって敬礼をしたのか彼女は理解していないだろう。それが今署内を騒がしている殺し屋だと知るのはまだ少し先の話だ。

 上へ駆け上がって行く二人を見送ったアンジェラは、

「スミルさん私達もやりましょう!」

 と、意気込んで眩しいほどの笑顔を見せる。スミルは、お前なぁ……と言葉を濁したがその先を続けることはしなかった。

「まったく……煽られてんじゃねぇよ」

 ボソリとつぶやいた言葉は地下室の埃に塗れて消えた。


 あちらこちらに検問が張られているが、ガロンにとっては取るに足らないものだった。裏道という逃げ道は全て把握している。ガロンは勝利を確証した。少し邪魔者は入ったが順調に進んでいる。

 しばらく車を走らせているとスマホが震えた。ガロンは車を止めることもせずにその電話に出た。相手は非通知の人物、ホロウだ。

「ハイ」

 機械音と肉声の混じった相変わらず慎重なものだった。

『しくじりましたね』

 ギクリとガロンが目を見開いた。今の状況はダークレインに爆弾を運んでいるのが知られたくらいだ。ホロウからすればとんだ失敗だ。コツコツという指でテーブルを叩く音が電話の向こうから聞こえてくる。相手はイラだっているのが手にとるようにして分かる。

『あなた昼間も派手な動きをしてくれましたね? おかげで私は後ろに気をつけなくてはならなくなりました』

 自分はなにをしたというのか? 思い出したのがグレンたちの暗殺を失敗したことだ。だがそれは自分が単独で動いたことで、彼が知りうることではない。

『私は巻き添えを喰らうのはゴメンなんですけど』

 ため息を漏らすホロウにガロンは慌てて弁解しようと試みたが、電話口の男はそれをさせなかった。

『あなたも充分楽しんだでしょう? 今じゃここら辺のボスはあなたです。ただし、頭に無謀がつきますが。満足でしょう?』

 ふふふと笑いを称えるホロウにカァと顔が熱くなる。

『奈落でも地獄でも落ちるならどうぞお一人で』

 ガチャリとホロウは電話を切った。

「ま、待ってくれ……!」

 見捨てられたのだ、唯一の権力者から。

「くっそ……!」

 その時、ガロンは初めて違和感に気づいた。さっきから妙にブレーキが軽い。たしかにずっと一本道だがアクセルも踏んでいないにも関わらず心なしかスピードが上がってきている。

「まさか……」

 ガロンの首筋に冷や汗が伝っていった。

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