第14話
次の日、アンジェラはフリン不動産にスミルとやってきた。昨日の電話の意味とホリーの母親の件を確かめたかった。
「やんごとなき理由で身の心配がありましてね。もしよろしければ、ボディーガードをしていただきたいと」
そういえば先日ここにいた従業員の男はどこへ行ったのだろう?
「あの……先日いらっしゃった男性の方は? えっと、クォートさん?」
二人分のお茶もガロン本人が出してくれた。クビにでもしたのか? しかしこの店を一人で取り仕切るのは少々不便のはずだ。
「あ、あぁ……ちょっと」
言葉を濁すガロンを不審に思うスミル。この男は何か隠している……それがなにかはわからない。そもそも不動産屋が狙われるような事が普通あるのか?
「で、ボディーガードの件やっていただけますでしょうか?」
警察が一般人を警護するという事はない。が、この男には聞かなくてはならないことが山ほどある。先日の猟奇的な事件、ホリーの母親の件。なにか知っているはずだ。それを聞き出すことが出来れば一気に解決へと進める。
「もちろんです」
貼り付けた笑顔のスミルにアンジェラの顔が引き釣っていたが、ガロンは手を叩くと嬉しそうに立ち上がった。
「そうですか! よろしくお願いします。早速ですがお見舞いに行きたいので病院まで連れてっていただけますかな?」
「お、お見舞い?」
もしかして相手はクォートなのか? だったらどうしてさっき病院だと言わなかったのか? それとも別の人間か?
「私は準備があるので、少し待っていてもらえますか?」
そう言うなり奥の部屋へと入って行ってしまった。
「どう思います?」
「何を考えているかさっぱりだ。しかし犯人とは言い切れない、あいつかなりの曲者だぞ?」
同調するアンジェラは頷き、ガロンが去って行った部屋を見つめた。すると小さな紙袋を持ったガロンが部屋から出てきた。
「用意が出来ました。ではいきましょうか?」
ピシッとしたスーツに着替えたガロンはアンジェラとスミルに裏口から覆面の警察車両の扉を開けてもらい中に乗り込んだ。
「場所はどこですか?」
アンジェラがルームミラー越しにガロンに聞き、息を呑んだ。
「セントソルテホスピタルへ」
セントソルテホスピタルに着くとガロンは、
「一人で行きますのでこれで飲み物でも買ってください」
と、言いスミルに十ポンド紙幣を手渡し、自分は嬉しそうに病院の中に入って行った。
「誰に会うんでしょう? あの陽気さ、この間会った部下ではないのが丸わかりです」
アンジェラはシートベルトを外して車から降りるとガロンが消えた病院を睨みつけた。ここにはホリー親子が入院しているはずだ。
「ここ、あの人が傷つけた親子が入院しているんです」
「は! バカか? 自分が手にかけた人間の見舞いに行く奴がどこにいる」
ですよね……と、つぶやきアンジェラは病院を睨みつける。
「でも、やっぱり気になるんで私行って来ても良いですか?」
「ダメだ」
ぶーーと頬を膨らませて恨めしそうに地団駄を踏んだ。スミルは犬に躾でもするかのように指で運転席を示した。
「ねぇスミルさん」
これ以上くだらない話をしたく無いスミルはこれ見よがしに不機嫌に言う。
「なんだ」
そんなスミルにアンジェラは怯まずにいつもの調子で話を続けた。
「ダークレインってご存じですか?」
「あ?」
もらった十ポンド紙幣を見つめていたスミルはアンジェラの突拍子のないセリフに思わず間抜けな声を上げた。
「ダークレイン……この前ガロンが話してたんです。その人と誰かが繋がっているとか。誰なんでしょう?」
病院にはひっきりなしに患者が出入りをしている。建物を見上げるとカーテンがそよいでいたり、閉め切られていたりと様々だ。この窓の一つ一つに入院している人がいる。ガロンはどの部屋に入ったのだろう?
「ちょっとスミルさん? 聞いてますか?」
なにも言わずに黙って考え込むスミルの表情は固かった。眉間に皺を寄せて一点を見つめていた。その様子を見たアンジェラは先程ガロンから貰った十ポンドを思い出し、
「コーヒーでも買ってきますか?」
と、気を利かせたつもりで聞いた。
スミルは十ポンド紙幣をヒラヒラとさせるとそれを睨みつけすごく嫌そうな顔をして懐からタバコを取り出した。
「使うか、バカ。もう大人しく座ってろ」
「あ、この車禁煙です」
ふふ~~んと、鼻歌でも歌いそうな後輩にスミルは黙ってタバコをしまうと無言でさっきの十ポンド紙幣を手渡した。
「コーヒー買ってきます」
そう言いアンジェラは近くのコーヒーショップに走りだした。去って行くアンジェラの姿を見ながらスミルはため息をつく。
「まだ、知る必要はない」
アンジェラたちと離れたガロンは総合受付でなんなく病室の番号を聞くと堂々と入口から中へ入って行く。もちろんここにはクォートは入院していない。多分もうこの世にはいないと確信している。では誰か? そんなものは決まっている。
賑やかなエントランスからエレベーターに乗り、三階へ行きナースステーションを横切り迷わず受付で教えてもらった病室へと向かう。人はあまり歩いていないせいもあり、自分の靴音が大きく響いた。
扉の前で靴を揃え立ち止まった。病室には人がいる気配はあるが名前が記入されていない。ここだと直感したガロンは引き扉を左に引いた。
突然の出来事に驚きベッドに顔をふせていた少女が顔をあげると大きな目が揺らいだ。ガロンはその絶望の滲んだ目を見た途端、笑いが止まらなかった。
「見つけた、ホリー・ドレーク」
バタンと閉まる扉の後にガチャっという鍵のかかる音。閉じ込められたと認識した時、ホリーはイスから立ち上がり窓際へと逃げた。
「見えるようになったのか……でも母の方は使い物にならないようだな?」
ゆっくりと近づいてくるガロンは横目でナンを眺めた。
「みんなお前のせいだぞ?」
ホリーの前に立ちはだかり見下すように言った。
「お前のせいで母親はこんなふうになった。お前の医療費を払うためだ、なのに今度は自分だ。かわいそうにな、もう助からないかもしれない。金もない奴を医者が助けるわけないだろう?」
ガロンはしゃがみホリーと同じ目線になり、顔を持ち自分の方へと向かせた。いつのまにかホリーの目から大粒に涙が流れていた。言われなくてもわかっている。しかしまだ小さいホリーにはどうしたらいいのかわからなかった。
「でも、私なら助けることが出来る」
ふいに優しい声になり、ホリーの頬を撫でる。目の前にいるあんなに恐ろしかった男が今は救世主のように見えた。
「他がどうなろうとも母の幸せを願うか?」
コクリと頷くホリーにガロンは立ち上がると言った。
「金ならなんとかしよう。君が働いてくれるなら。いや、手を貸してくれるのなら」
自分がこの人に手を貸せば母は助かるかもしれない。この人がお金を出してくれるかもしれない。
「本当……?」
消えそうな震える声でホリーは言った。
「ああ。君が手を貸してくれるならいくらでも」
甘い甘い響きだ。嘘かもしれない、でも本当に貸してくれるのなら……
「やります」
涙でぐしょぐしょになった顔を腕でぐいっと拭い、ホリーはゆっくり立ち上がるとガロンをまっすぐに見上げた。
「やらせてください……」
頭を下げると上から笑いが漏れたのがわかった。
「では、交渉成立」
そう言うや否や、ガロンは懐から契約書を取り出し持って来た紙袋と一緒にホリーに手渡した。親指で印を押し満足そうに見つめた。
「さぁ、一芝居うってもらいますよ?」
ニンマリと笑うそれは悪魔のように見えた。
「そうですか……」
コーヒーをスミルに届けてからトイレに行くと行ってアンジェラは病院の総合案内に向かったが、事件性がない。個人情報だ。そう簡単に教えてはくれない。肩を落として車に戻るとすぐにスミルの怒号が飛んできた。
「遅い! いつまでかかってるんだ!」
怒られているというのにアンジェラは聞き流していた。
「お待たせしました」
するとガロンが戻ってきた。手に持っていた紙袋がない。どうやら本当に見舞いだったのかもしれない。当然のように扉を開けてもらい後部座席に乗り込み足を組んだ。これではまるで召使いだ。
「お元気でしたか? お相手の方は?」
ごちそうさまと、でも言うように持っていた紙コップをガロンに見せたスミルはそれとなく病院内での出来事を探った。
「えぇ、とても」
そんな揺さぶりには動じないとばかりにガロンは笑顔で答えた。こいつはなかなかしっぽを出さない、かわすのもうまい。
「どなたのお見舞いに?」
ふふと、ガロンがおかしそうに笑った。
「誰って従業員ですよ。おかしなことを聞きますね?」
スミルはやっぱりというような目でアンジェラに出せと送った。
「はい」
無言のメッセージを受けとったアンジェラはそのままエンジンをかけ車を発進させた。
おかしい……でもこれ以上はさすがに踏み込めない。
(悔しい……)
知らずアンジェラのハンドルを握る手に力が込められた。
臨時のカンファレンス。棗はそこでナンの今後の治療方針を話し合っていた。あらかじめグレンから娘、ホリーについても目を離さぬよう言われているせいもあり、場はいつにもまして緊張感が漂っていた。ただの病気ではなく、隠蔽されるかもしれない事件をまとっている今回のような事例は、セントソルテ史上初めてのことなのだろう。夜雨としては今に始まったことではないのは分かっていたが、扉の真横で少し遅れて入ったせいもあり、沈黙しカンファレンスを静かに眺めていた。
医師たちの意見交換では、一刻も早く移植をしろという者が大半だったが、彼女たちの経済状況と事件の事の重大さに、このまま状況を見た方がよいという意見も飛んでいた。
「移植の方はレシピエントを探している最中だ。見つかるまでは投薬治療で様子をみる。そのほかに、なにか良い案があったら教えてほしい」
こうやって直に棗のカンファレンスを見るというのも新鮮なものだと夜雨が一番後ろで、場を仕切る悪友に尊敬すら交えてその様子を見ていた。きっと、こんなことを言ったら、もともと調子のいい悪友は喜んでからかってくるに違いない。
ナンの病状はいったん彼らに任すにしても、これからガロンはどう動くのか? ホリーの件で気を抜いたのが仇となった。やれやれ自分も甘くなったものだという自覚はある。
ガロンの狙いは今、すべてここ、セントソルテホスピタルに集結しているのだ。
「夜! どこに行ってたんや?」
「ちょっと野暮用」
カンファレンスを終えた棗が夜雨のもとに小走りで駆け寄ってきた。
「あいつのことだ、そろそろなにか仕出かしてくるはず」
「とりあえず、病室に行こか? なぁに、ここは病院や。警備だってしっかりしとる。今は、治療の方に専念するとしようや」
「本当に、ここが安全なんかねぇ?」
この世の中、安全な場所など早々ない。そう思うのはこんな仕事をしているせいなのか、それとも本当にそうなのか?
ホリー達親子がいる病室のドアを開ける。本当ならば、そこにはベッドに母、ナン。その周辺にホリーがいなければならなかった。
「なに!」
しかし、そこにはベッドで寝ているナンの姿しかなかった。
「ホリー? ホリー!」
ベッドの下やクローゼットを覗く棗に対して夜雨は空いている窓から上下を見た。落ちてもいないし、登った痕跡もない。
「三〇四号室、子供がいなくなった。見かけたやつはいないか?」
すかさずナースコールをする夜雨だが、返ってきたのは驚きの声だった。
「どこにいったんや!」
ランチを済ませた昼下がり、グレンの元に電話が入った。昨夜と同じように私用の携帯が鳴り響く。グレンは携帯を一瞥し、応答するか数秒悩んだのち、しぶしぶ電話に出ることにした。言わずともガロンであろう。今度はなんだ? 催促か? 受け渡し日時か?
「はい」
『お元気です?』
この生簀かない声、やはりガロンだ。
「なんの用ですかな?」
含み笑いが今日も電話の向こうから聞こえてくる。人をバカにするような気を逆立てさせるような口調はワザとなのか?
『相変わらず釣れませんね……しかしあなたも大概脇が甘い。そんなんじゃ守りたいものも守れない。言っておきますが、先に手を出してきたのはそちらですから』
グレンにはガロンの言うことが理解出来なかった。
「なんのこ……」
いい終わらないうちに酷く乱暴に院長室をノックされた。
「院長? 院長!」
声からして婦長だ。グレンの返答を待たずに婦長が扉を開け、電話中なのが分かると慌てて頭を下げた。しかし、その顔は引きつり、彼女としては珍しく落ち着かない。
『早速来ましたね? 院長、私の誘いを断った事、後悔することになりますよ。あぁ、一ついい事をお教えいたします。屋上へ行ってください。私からはそれだけです。では、またお会いできるのを楽しみにしていますよ?』
「お、おい……!」
そう言うとガロンは電話を切った。グレンは顔をしかめるばかりだったが、先程の婦長を思い出し電話をポケットに入れた。
「どうした?」
「大変です、三〇四号室の女の子がいなくなりました! 今フォスター先生と宋先生が探しています」
タイミングが良すぎる。こうなることがわかっていたということか?
「あれだけ見ておけと言われたにも関わらず、申し訳ございません!」
婦長は深々と頭を下げた。どういうことだ? あいつが忍び込んだとでもいうのか? 今ロビー含めエントランス、病棟全て人で溢れている。その中に乗じて入り込むというのは不可能ではない。ではなぜあの子に接触する必要がある? こうもガロンは去り際に言った。屋上へ行けと。
(私を、誘き寄せるためか?)
「婦長、受付に不審な男が来なかったか聞いてくれ。病室だけ聞いてサインをしなかった奴がいるはずだ。私はフォスターたちを連れて屋上へいく」
その頃、夜雨と棗は三〇四病室にいた。散々院内を探したがホリーは見つけられなかった。病室には荒らされた形跡も何もない。では、どこへ行ったのか?
「なんでや? なんでいのうなった?」
ここは面会者絶となっている。さらに定期的に看護師が見回りにくる。出て行くとなるとその隙を狙ったと言うことになる。
ふとゴミ箱に何か入っているのが目についた。ゴミの回収は遅くても午前中に済まされる。昼の食事は病院から出るし、ここに面会者はいないはず。疑問に思った夜雨はゴミ箱からそれを取り出すと普通の紙袋だった。
「誰かここに来たのか?」
「は?」
呟かれた言葉に棗が止まったのと扉が開かれたのは同時だった。
「ガロンだ。あいつがここに来た」
「なんだって!」
グレンは小脇に持っていたノートパソコンを開くと監視カメラの映像を再生させた。総合受付にいるガロンらしき人物が写っていた。
「あ、紙袋」
さっきここで見つけた紙袋も持っている。それから数度頷きエレベーター方面に歩いて行った。また別のカメラ画像では三階に登ってきたガロンの姿があった。
「本当にここに来たっちゅうことか?」
そして最後の映像は病院から去って行くところだ。先程まで待っていた紙袋が無くなっている。
「さっきこいつから電話があってな」
「なんやと!」
すぐに反論を返してくる棗と違い夜雨は睨みつけた。一瞬だが、グレンが居心地の悪そうな顔をした。
「屋上へ行けだと。とりあえず行くが、お前たちはどうする?」
肩をすくました夜雨の顔は笑っていた。隣に立つ棗の目は怪しくギラついている。
「行くに決まってるだろ?」
愚問だとばかりに三人は屋上へ向かった。
洗濯物がはためく屋上は少し肌寒く強い風が吹いていた。ここには患者もそう簡単には入ることができない。周りを見回してみるが今は誰もいない。
「本当に屋上に来いって言われたんか?」
それこそウソなんじゃないかと、グレンを疑わしく睨みつけた。誘いだすにしろ屋上で何をすると言うのか。まさかどこかでライフルを構えられているのか? 確かに周りには程よく高い建物はあるが残念、この世には腕利きのスナイパーなど存在しない。諦めかけた時、すすり泣く声が聞こえて来た。
「誰だ」
給水タンクの後ろから少女が顔を出した。
「ホリー? どないしたん?」
ホリーは夜雨と棗、グレンを見た瞬間、大粒の涙を流していた。
「お嬢ちゃん? どうしたんだい?」
グレンの言葉にさらに嗚咽をあげ泣き始めるホリーに夜雨が緊張感を持ちながらもおどけて言う。
「あんたの顔が怖いからじゃないのか?」
ググッとグレンの顔が引き攣るのが横顔からでも分かる。人の気配はホリー以外しない。ガロンはホリーの居場所を教えたと言うことになるが、何のためにこんなところに呼び寄せた? 紙袋の中身はなんだったんだ?
知らずゴクリと喉が鳴る。嫌な予感しかしない。気温からしても厚着だ。まさか……
「おい、なんでそんなに着込んでる?」
ホリーはビクリと肩を震わせた。フルフルと首を左右に振って答えようとしない。その様子はなにかと戦っているようにも見えた。
「げて……」
小さい声だった。ちゃんと聞き取れずにいた三人は次の瞬間、息を飲む。着込んでいたコートをホリーが脱いだ。
「逃げて……!」
コートの下には大量の爆弾がホリーの小さな身体に巻きつけられていた。
「これを押せば、全部飛んでっちゃうの……!」
紙袋の中身はコレだったのだ。
「なんでそんな物騒なもん付けてる?」
涙を拭い、鼻をすすりながらホリーが答えた。
「そこのおじさんが、来た時に……このスイッチを押せば……うっ……ママを助けてくれるって! お、お金、全部……出してくれるって……!」
もちろんこれがなんなのかホリーも知っている。それを押せば自分がどうなるかも。
「そ、そんなん俺たちがどうにかする! だから、はよそんなもん捨てな!」
グレンを狙ったガロンはホリーも同時に消そうということらしい。
「誰も、助けてくれないって。お金ないから……私のせいで、ママが倒れた……私がいなければ……病気にならなかったかも……だから、だから!」
ぐっとスイッチを持つ手に力が入る。棗が走り出そうとした時。
「動かないで!」
ホリーの声に足を止めた棗は悔しそうに顔を歪めた。たしかにそうだ、病院だって金が払えない人間を治療することはできない。医療費を自分たちが出してやることも、彼女らの借金を返してやることもできない。
ホリーは呼吸が荒くなり、両手でスイッチに握りしめた。二本の親指がスイッチを押そうとしている。
「だから、せめて……ママだけでも……」
「バカか?」
スイッチを押そうとしていた手が止まった。
「え?」
両手をポケットに突っ込み今まで黙っていた夜雨が強風でなびく髪を首を振って、うっとうしそうに払うとホリーを見下ろした。
「バカかって言ってんの」
夜雨はお構いなしに歩きだした。
「こ、来ないで……! 来ないでってば!」
スイッチを前に突き出し威嚇するが夜雨はそんなものを気にするそぶりなど見せずにホリーの元に近づく。
「押せば? あいつとお前がすっ飛んでも俺は構わない」
その言葉がグサリと刺さったのがグレンだった。胸を押さえ泣きそうな顔をしている。
「あいかわらず辛辣やの……」
隣に立つと棗はそっとグレンの肩を叩いた。もちろんここにいる棗や自分だってひとたまりもない。押された瞬間、一緒に吹っ飛ぶだろう。しかしそんなものはまるでどうでもいいとばかりに夜雨はホリーの前まで行き歩みを止めた。
「でもな、お前の母親はそうじゃないだろ? 少なくともあそこのエセイケメンもそうだ。誰かを頼るな。金がねぇなら何年かかってもいいから返しに来い。利子はつけない」
あまりの言葉にホリーは夜雨を見上げ口をパクパクとさせることしか出来なかった。
「今お前の母親は生きようと頑張ってる。目が覚めた時、お前がいなかったらどうする? お前は母親を一人にするつもりか?」
言い返すことが出来ないホリーは俯く。そうだ二人だけの家族だ。自分がいなくなると言うことはそういうことだ。
「たとえ金が払えなくても俺が助ける。生きる可能性があるなら俺らは助ける事を選ぶ。死のうなんて卑怯なことはしない」
抑揚のない声がホリーに突き刺さる。大きく見開かれた目が夜雨を見上げた。助けると言った? この人はどんなに貧乏でも、金がなくても。
「お前はどうしたい? 吹っ飛びたいのか、それとも生きたいのか……どっちを選ぶ?」
涙が溢れた。どうしても止めることが出来なかった。スイッチが手から滑り落ち、ホリーはまるで全身の力が抜けたようにその場に座り込んだ。
「生きたい……私、生きたい……!」
地面にホリーの涙の雨が降る。夜雨はため息まじりにしゃがみこむとホリーの身体に巻きついている爆弾を乱暴に取り外して放り投げた。
「助けて……ママを……私たちを、助けて……!」
ホリーは夜雨の白衣をギュッと握り、そのまま顔を埋めた。宋と言うIDカードが目の前で揺れる。
「了ぉ解」
ゆっくり近づいて来た棗が鼻をすすりながらまだ夜雨から離れないホリーの頭を撫でた。
「俺らがなんとかする」
ゆっくりと顔を上げ濡れた目で棗を見つめたホリーは嬉しそうに頷いた。
「ソウ、先生?」
いきなり名前を呼ばれた夜雨は自分のIDカードとホリーを交互に見た。漢字の下にローマ字読みでsouと書かれていた。
「いや、先生では、なくて……」
医師免許はあるのだから先生なのだが、ここではまだ医者ではなくて。でもいずれは手術することになるし……夜雨は頭を掻きつつも自分の複雑な立場にいよいよ首を傾げ始めた。
「いいよ、どっちでも。ありがとう、先生って優しいんだね」
「は?」
頭を掻いていた手が止まる。ホリーは棗とグレンに連れられ屋上を後にしようとしていた。去り際に呆けた夜雨に振り返り、ニコッと笑った。その顔にもう涙はなかった。
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