第8話

 セントソルテホスピタルのあるフィッツロビアからアルバートの屋敷があるライまでの道のりは車で二時間半。夜雨は一人で行くはずだった……が、なぜか今は助手席にスクロが乗っていた。

(どうして……)

 車内にはエンジン音だけが響いていて、隣に座るスクロは足をブラブラとさせ外を眺めていた。なんでも、棗の「一人で行かせるわけにはいかない」の、鶴の一声で彼と行くことになってしまったのだ。棗にはまだ患者がいるため定時近くまでは病院を離れるわけにもいかなく、こういう事態になったのだった。もちろん、仕事が終わればすぐに彼も後から来るだろう。なにせ車をこちらに預けたのだ、電車なら一時間半ほどでライに着くことができる。

「僕も久々にアルさんに会えるなんて、楽しみです」

 と、嬉しそうに車に乗る前に買ったオレンジジュースを飲んでいた。夜雨は隣をチラリと伺いながらも意外に法定速度を守り運転した。

「あの……宋さん」

「あ?」

 信号が赤になり夜雨はブレーキを踏んだ。隣に座るスクロはオレンジジュースを握り俯いていた。

「棗さんいつもと違うんです」

 夜雨はハンドルから手を離し大分ぬるくなったレモンティーを飲んだ。

「違うって?」

 それをカップホルダーに戻した時、信号が青になる。夜雨は再びアクセルを踏みスピードを上げた。

「なんていうのか……焦ってる? というのか……教えてください。なにが棗さんをそうさせるのか」

 なるほど、だから彼はついてきたのだ。普通、出会ったばかりの人間の車に乗ろうとは思わない。いくら信頼している友人の頼みでも。しかも、自分は殺し屋だ。それに先程のすがるような目……彼は止めてほしいのだ、棗の暴走を。

「棗はクォーターでな、母親が日本とイギリスのハーフで父親が日本人。その父親が事業に失敗して暴力振るうようになっちまって、こっちに戻ってきた。だから、なんとかしてやりたいんだと思う。この世界でたった二人だけで生き抜かなくてはならないあの二人に。自分がそうだったから」

 人一倍苦労は知っている。きっと棗は、世の中辛いだけじゃないのだと思わせてやりたいのだろう。だったら、手を貸さないわけにもいかない。

「夜雨さんってさ」

「あぁ?」

 いきなり名前で呼ばれた夜雨は驚き隣に座る年下の少年を二度見した。

「ほらほら、脇見運転しないで」

「言われなくともしてねぇよ!」

 妙に力を入れてハンドルを握る夜雨にクスクスと笑うスクロは面白いおもちゃでも見つけたように楽しそうに言った。

「優しいって言われません?」

 再び信号が赤になる。キキッと音を立てて車は止まった。それからものすごく嫌そうな顔をして夜雨がスクロに言った。

「なぁにいってんだぁ、お前?」

 思いの外、自分に近いな。そんなことを思いスクロは車の中で至極ご機嫌だった。車はライの街に入っていく。ライは絵本のような中世の街並みが続く小さな街だ。

「アルんち行く前にちょっと寄っていいか?」

「え? 恋人に会いに行くとか?」

 ニシシといやらしく笑うスクロに夜雨はハンドルを握り前を向いたまま、付き合ってられんとでもいうように言った。

「バーーカ。そんなもんいるか」

 ウインカーを出し、街で一軒しかない花屋へ入る。

「いいか、大人しくここにいろよ」

 そうスクロに釘を刺すと、夜雨は一人車を降り花屋に入っていった。ブーと、膨れたスクロは車の中から夜雨を目で追いかける。しばらくすると、カサブランカの花束をトランクに入れ夜雨は運転席に戻ってきた。

「やっぱり、恋人に会いに行くんでしょ?」

「だぁかぁら、違うっての」

 シートベルトをつけながら、なおも食いついてくるスクロに夜雨はものすごく嫌そうな顔をしていた。ニヤニヤとした顔がやけに感に触る。

「本当にぃ?」

 うりうりとつついてくるスクロは数時間前に出会ったばかりだという事を忘れさせる程なついてくる。

「本当だ。第一、俺は人を愛さない」

 つついてくる手を軽く払いそう言うと、車を発進させた。

「え?」

 どういう事だ? と、いう言葉をスクロは飲み込んだ。運転を再開した夜雨からとても聞けそうな雰囲気ではなかった。


「夜雨ーー!」

 アルバートの屋敷に着き扉を開けた途端、夜雨は走ってきた細身のスーツの男に抱きしめられた。この家の主人、アルバート・クレイトンである。ブルネットのフアフアな髪が鼻をくすぐる。

「よく来たね! 十年くらいぶり? 会いたかったよおぉぉ!」

 グリグリと頬と頬をくっつけられ、夜雨はされるがままになっていた。

「だぁ! もうやめんか!」

 一通り撫でまわされクシャクシャになった夜雨はついにアルバートを引き離した。

「スクロくんも久しぶり」

 両手をわきわきとさせ、ジリジリと近づこうとするアルバートにスクロは一歩下がると丁寧に頭を下げた。

「お久しぶりです。アルさん」

 そう言い、頭を上げた時アルバートはスクロを抱きしめた。

「お帰り」

 ニコリと微笑んだアルバートは次に夜雨を見た。

「お帰り、夜雨」

「……ただいま」

 ブスっとし顔を背けるも素直に答えた夜雨を見てスクロも、「ただいま戻りました!」と、嬉しそうに答えた。

 リビングに夜雨とスクロを座らせたアルバートはキッチンに立ち紅茶を作り始めた。

「スクロくんはね、五年くらい前かな? 棗が連れてきたんだ。もう働き者でね、感謝してるんだよ」

 ポットとカップを持ってきたアルバートは二人の前に座った。大きな暖炉と家族の写真、たくさんの本棚に囲まれるように職務机が置いてある。この大きな屋敷にアルバートは今は一人で住んでいた。医師免許こそ剥奪されているが彼も立派な医者兼殺し屋だ。

「僕も棗さんとアルさんに助けられました。その恩返しのようなものです。と、言っても感謝しても仕切れないほどですが」

 にゃーーと、黒猫がスクロの隣にトンと、音を立て座った。

「キドニー」

 ゴロゴロと喉を鳴らして丸くなった黒猫の名だ。

「相変わらず、ネーミングセンスねぇのな」

 トポトポと紅茶を注ぐアルバートに夜雨がげんなりしながら言う。キドニーとは腎臓のことだ。とても猫につける名前ではない。

「腎臓は大事だよ? とくに猫は歳を取ると多くは腎臓病を患ってしまう。キドニーには長生きしてほしい。それに初めてあった時、大豆を食べてたから。それで」

 へへっと、誇らしげに笑うアルバートから二人は紅茶を受け取った。キドニービーンズ、赤インゲン豆。腎臓は形状の比喩でそう訳されることがある。

なるほどな。と、夜雨はスクロの膝で丸くなるキドニーの頭を撫でた。

「ところで、香港では大活躍だったようだね」

 紅茶にフーフーと息を吹きかけるのをやめて夜雨が答えた。

「おかげさまで」

 手に持てるだけの荷物を持ち、逃げるようにロンドンを出て、母国の香港に戻ったのが十二年前。それから、コンクリート剥き出しの廃墟の片隅で訳ありの組員の治療を始めたのが事の始まりだ。

始めは闇医者紛いだった。それがある時、腕を買われて何でも屋の手伝いを始めた。そこでついたあだ名がダークレインだ。やがてその名は海を越え、ここロンドンまでも届くようになった。そのせいでアルバートらに居場所がバレたのは言うまでもない。

「ダークレイン。その名の通りだね」

 コクリと喉に紅茶が通るが途端、「あっち!」と、悲鳴が上がる。対してスクロは美味しそうに紅茶を飲み干していく。

 夜雨にダークレインという通名が付いたのは彼が仕事をする時、決まって音のない雨が降るから。名誉のため言っておくが、断じて雨男ではない。

「もう十二年もたつんだね……本当今回の件もグレンの奴よく考えたものだね。これでダークレインは今ロンドンにいると、見せしめのパフォーマンスに成功したんだから」

 実際、夜雨がロンドンを去ってからも、このような事件は水面化で起こっていた。ただし、表には一切出回っていない。それは葬儀屋と結託して身元不明者として手厚く葬っていたからだった。なにせ皆、犯罪に手を染めた無国籍者。人には言えないようなヤバイ仕事をしていた輩もいる。そのような人間が居なくなって誰に言うことができるか? 次は自分に降りかかってくるかもしれない、そう思う者が大半だ。こうやって少しでも犯罪等が減れば良いとアルバートは思っていた。

 しかし目に見えない、裁かれない人間がたくさんいる。それらの人間の被害者だって多い。その事実を警察は愚か周りの人間さえ知らずにいる。時には見て見ぬフリをする。家に帰れば中の出来事は密室だ。誰が誰に何をされてもわからない。

 そこで病院が考えたのは仕切りを低くすること。そうやって虐待やDVで苦しんでいる人も訪れやすくなる。しかも秘密裏で片付けてくれるというおまけ付きだ。

 そうやって良い噂も悪い噂も広めていく。それはだんだんと広まっていき、弱い人々には光を照らし、強いものには恐怖を埋えつけていく。ある意味、彼がストッパーとなれば良いと考えている。

「皆、忘れてしまっているんだ。生きている以上、死とは隣り合わせだと言うことに」

 そこへ屋敷の前に車が止まる音がして少しして棗がやってきた。

「悪い、終わった」

 アルバートは棗を見るなりすぐに抱きついた。

「棗ーー! よく来たね!」

 毎度のことなので夜雨は見て見ぬフリをし、紅茶を飲み干しカップを置いた。その間にも棗の断末魔が聞こえた。やっと解放された棗はさっきの夜雨同様にボロボロになっていた。夜雨はソファから立ち上がり座れと指で示す。

「ちょっと野暮用」

 クッキーを口に放り込んで、うまいと、一言呟き部屋を後にした。

「夜雨さん、どこ行くんでしょう? ここにくる前に花束買ってましたけど」

 棗にカップを渡し、スクロのカップにおかわりを注ぎながらアルバートは言った。

「きっとエマちゃんのとこだろうね」

 エマと聞いたスクロは顔をしかめブツブツとぼやいた。

「やっぱり恋人じゃん! 人を愛さないとか言っちゃってさ!」

 夜雨はきっぱりと恋人ではないと否定したが、やはり女性の名前が出てきた。男が女に花束を渡す理由なんて他に何がある?

「あいつにとってエマは兄妹みたいなもんや」

 一度クッキーを見つめた棗はそう言い口に放り込んだ。

「棗さんもお知り合いなんですか?」

 でしたらここに連れてくればよかったのに。と、続けたスクロにアルバートは苦笑して言った。

「エマちゃんはね、町外れの墓地にいるの」

 墓地という言葉にスクロは弾かれたように棗とアルバートを交互に見た。

「もう十二年になるよ。エマちゃんはね、殺されたんだ」


 闇から生まれた人間は闇の仕事しかすることはできない。もちろん、はなから真っ当な道など望んではいない。いつしか闇は自身に巣食うようになる。深く深く、身に染み込んでいくように。

 夜雨はエマの墓の前に先ほど買った花束を置いた。

 助けられなかった。あの時、もっと早く行っていれば……今でも後悔している。後悔しても仕切れないくらい……


「約、そ……くよ? 夜雨……」


 頬に冷たい風が吹き抜けていき、夜雨の夜と同じ色の髪を揺らした。

「……っ」

 一体どこから間違っていたのか? どこで情報が漏れたのか? なんであの時一人で行かせたのか? どうしてエマは殺されたのか……

 十二年経っても犯人は誰がわからない。ただわかっていることは間に合わなかったという事実だけ。

 バカらしくなったのだ。闇に紛れ人を救う、悪い事をして裁かれないで生きている汚い者から、まだ何もしらない、なにも染まっていない人間の命を救う。合法ではないにしろ人助けだ。

 だが、本当に大事なものは結局、何一つ守ることはできなかった。目を瞑ると思い出すのは悪いことばかりだ。

 エマの葬儀が片付いた後、夜雨は逃げるようにロンドンを出た。元より闇の人間、今更表の仕事ができるはずもなかった。香港へ戻っても以前やっていた闇医者を再び始めるしかなかった。

 結局、自分はこの仕事以外できないのだと気づいた。人を助けては殺す、これが自分の仕事だ。

 夜雨とて始めはエマを殺した犯人を見つけ出してやろうと思っていた。あの現場を目にしていたからこそ分かるが、おかしいほどなんの痕跡が残っていなかった。指紋も足跡もなにもかも。手がかりは一切ない上に、どこの誰だかもわからない。エマに限って恨まれるような事をするはずがない。

 八方塞がりだった。ならば約束を守るしかなかった。エマが最後に望んだ、ずっと人を助けろという約束を。

 墓地から出ると棗の車が止まっていて、助手席の窓を開けた。

「干渉に浸っているところ悪いけどそろそろ仕事だぞ」

 車のドアを開けシートベルトをし、夜雨は窓を閉めた。少し頬をふくますとそっぽを向いてボヤいた。

「別に浸ってねぇよ」

 棗は小さく苦笑するとエンジンをかけ車を走らせた。

「で、これからどうやってガロンとクォートをおびき出す?」

 日が落ち、夜が始まったばかりの流れていく景色を眺めた。まばらな家に灯るライト。そこにはたしかに人が住んでいる。ただし、そこに住んでいるのが善人か悪人かはわからないが。

「とにかく、もう一台車借りるか?」

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