第5話

 遠くでパトカーの音がする。時刻は午前九時少し前、街はにわかに動き出す。どこから現れたのかというほどの人が駅や会社、学校へ向かい溢れ出す。その中を足取り軽やかに鼻歌を歌いながらこげ茶色のコートを来た黒髪の男、宋夜雨が歩いていく。肩にはこの時期には珍しくクーラーボックスをかけていた。

 ふと甘い匂いに足を止め、ショーウィンドウを覗く。ここはケーキやドーナツなどが並んでいる老舗のお菓子屋だ。それに微笑むと夜雨は店のドアを開けた。

 店の名はモニカ、昔からある馴染みの店だ。

「いらっしゃいませ」

 店の店員の若い子が商品を並べながら夜雨に気づき言う。中の工房では数人のパティシエがケーキを作っていた。ここモニカは家族で経営している昔ながらの小さい店だ。ただ地元では有名人気店でもある。クッキーだけは店の名でもあるモニカという今じゃすっかりおばぁさんになった店主が作っていた。

「チョコチップクッキーを五枚」

 量り売りをしてくれるので欲しい分だけ買える。それもそのはずここのクッキーは生きているので日持ちはしないが、普通の店よりも安くてうまい。

 五ポンドを払い、クッキーを受け取るとクーラーボックスを肩にかけ直し、グレンの経営しているセントソルテホスピタルへと入っていった。

 エントランスではもう予約の患者が待合室に座っていた。夜雨は彼らを横目で見ながら五階へとエレベーターで上がる。医局を我が物顔で歩いていき、ドクターたちの部屋をノックもしないで勢いよく開けた。

 いきなりの見知らぬ訪問者にパソコンの影から顔を出したドクターたちは目を白黒させた。夜雨は部屋を隅から隅まで眺め、ある一つのパソコンの液晶モニターに飾られているSF映画に出てくる車のミニカーがを見つけ、その席へと闊歩していく。周りのドクターたちは黙ってその光景を見ていた。そして、その席の男と目が合う。

「……」

「……」

 ジッと見つめてくる栗色の目は何かに気づいたようにだんだんと輝き出した。

「夜! なんでここに……!」

 指を指し勢いよく立ち上がったせいでイスが大きな音を立てて転がった。

「久しぶりだな、棗」

 ニッと人の悪そうな笑みを向けた夜雨に途端周りがざわめき出す。

「フォスターの知り合いか?」

「先生のお友達?」

「誰! 誰!」

 いつの間にか部屋の外までも人で賑わいギャラリーが出来ていた。夜雨はヤバそうな顔をしている棗に代わり、ニッコリと微笑むとギャラリーに向けて自己紹介を始めた。

「香港から来た宋夜雨だ。こいつ、棗とは同期で幼なじみだ。まだ赴任してくたばかりなので当分は裏方の仕事をすることになると思う。なんかある時はこいつに言ってくれ」

 そこで一度夜雨は言葉をくぎると、無駄にイケメンの棗と肩を組む。

「以後、よろしく!」

 ギャラリーから小さな悲鳴が上がったが夜雨は笑顔を貼り付けたまま、唖然としている棗を見た。口を金魚のようにパクパクとさせている棗は途切れ途切れに夜雨に震える指を指し言った。

「え? なんやねん……は?」

 棗(なつめ)・フォスター。昔、大阪に数か月住んでいたせいで微妙に関西弁が混じる。そのせいもあり親しい人間からはエセ関西弁と言われることもしばしばだ。その欠点すら異性からは無駄にイケメンのため流されてしまう。

 理解の追いつかない棗を夜雨は見つめ、周囲に見せつけるようにニッコリと至近距離で微笑んだ。ギャラリーの黄色い悲鳴と扉をノックする音が重なった。二人が振り返ると、そこには引きつった顔のグレンがいた。

「宋、棗」

 名を呼ぶと指だけでこっちへ来いと合図する。夜雨はパッと棗に組んでいた腕を離し、来た時と同じ軽やかな足取りでグレンの後を追った。対して棗は頭を抱えるように部屋を出てゆき、ギャラリーがついてこないように扉を閉めた。

 三人でエレベーターに乗り込む。途端、先ほどの曇りのない笑顔を夜雨は剥ぎ捨てるように真顔に戻った。

「お前のその営業用貼り付けスマイル久々に見たわ」

 はじめに口火を切ったのは棗だった。

「結構、大変なんだぞ? この顔」

 再度ニコリと棗曰く営業用貼り付けスマイルをした。

「うわぁ……」

 周りの人間は騙せても彼を知る人間ならば悪寒が走るのだろう。

「騙すには、懐っこい方が懐に入りやすい」

 さっきのギャラリーたちが聞いたら卒倒しそうな事を悪気もなく言い張る夜雨に棗は再びため息をついた。

 最上階にある院長室に入るとグレンに、好きなように座ってくれと、言われ、夜雨は座り心地の良さそうなソファを一瞥し、ボフッと音を立てて座った。

「相変わらずいい暮らししてるなぁ」

 背もたれに頬を擦りよせ子供のように喜ぶ夜雨を見た棗は、昔と何にも変わらないと、言うのか成長のない姿に呆れて首を左右に振ると、コーヒーを入れるため給湯室へと入って行った。

「住処の方はどうだ?」

 ギッと立派なイスに腰をかけたグレンが夜雨に言う。

「腹立たしいことにあってるよ。これでオックスフォードやケンジントンだったら香港に帰ってた」

 ロンドンは階級社会だ。それで住む場所も地区も変わってくる。グレンの選んだアーチウェイは労働者階級が主に住む場所だった。

「お前だって金銭的にはそっちだろう?」

 そういうグレンもオックスフォードに住んでいるいわば上流階級の人間だ。知らん顔でコーヒーを運んでいる棗だって同じである。ただし彼は下級にほど近いホワイトチャペルに住んでいる。

「ありがとう」

 棗がコーヒーを机に置くのを見てグレンは礼を言った。

「まぁいいや。これ早くしまえよ」

 夜雨は立ち上がりグレンの机の上にさっきまで持っていたクーラーボックスを置いた。グレンがそのフタを開け中を覗く。中に入っていたのは多すぎるほどの氷と保冷剤を入れ、過保護なほど丁寧に密封された臓器だった。夜雨は棗からコーヒーを受け取り、それを一口飲む。彼のコーヒーはとにかくうまい。

「相変わらずうまいな」

 少し驚きながらコーヒーカップを覗いた夜雨に棗は、

「せやろ」

 と、嬉しそうに言い、自分もコーヒーを飲む。グレンがクーラーボックスの中を観察するように見つめていたのに気づいた夜雨が思い出したかのように言った。

「肝臓は使えなかったが、あとは支障ない。まだ捌きたてだ」

 グレンは満足そうに微笑むとクーラーボックスのフタを閉め部屋の隅に置いてある冷凍庫へと向かった。

「これはな、私が十年以上費やして作った臓器用過冷却冷蔵庫だよ。ここに入れることで五日は鮮度を保てる。これで適合する患者探しも長く取れるというわけだ。さっそくうちの病院にいる患者を当たってみよう」

 ここセントソルテホスピタルはロンドン一の臓器移植成功率の高い病院だ。それでいて最低限の金額で移植が可能なため、金持ちから一般庶民まで幅広い患者がいる。

 普通の病院なら確保の難しい臓器をなぜ定期的にしかも最低金額で確保できるのか? もちろんips細胞の研究にも勤しんでいるが、その理由は夜雨らにある。彼らの表向きの顔は医者だが、夜は違う。夜は警察から逃れた犯罪者を追い、彼らから臓器を拝借する殺し屋だった。

 どの国でも患者は提供ドナーの名は教えてもらえないという決まりがある。その決まりのおかげでどんな許せない悪人からの提供(と、いうことにしておこう)でも患者たちには救世主となる。そうやってこの病院は上に登りつめた。

「しかし、どうして心臓はいつも取ってこないんだ……おかげで心臓内科のみこの病院はトップを取れない」

 グレンはがっかりした顔で夜雨に詰め寄る。

「それは他の奴に頼め。俺は心臓は取らない主義なんだ」

「主義ってなんやねん」

 呆れたようにつっこんだ棗に夜雨は知らんというようにソッポを向いた。

「まぁ、いい。例のアタッシュケースに入っていたのはお前への報酬だ。受け取ってくれ」

 やはりあの中には金が入っていたのだ。多く見積もっても億はある。

「ありがたい……が、ちと、多過ぎやしないか?」

 羽振りが良すぎる。今も鼻歌を歌っているグレンを見て、さてはなにか良いことでもあったのか? まぁ、自分には関係のないことだというように、夜雨はまたコーヒーをくっと飲んだ。

「ああ、そうだ。宋、お前は今日中にアルバートに会いに行けよ。でないとここに乗り込んでくるぞ?」

 うっ。と、コーヒーを喉につまられた夜雨はものすごく嫌そうな顔をした。

「そうだぞ。あの人ああ見えて心配性やから一度は顔見せなあかんって」

 アルバートは夜雨と棗の義父だ。乗り込んで来た事を想像した夜雨は、

「そりゃあかんなぁ……」

 たまに移る棗の関西弁で返した。

「あとなぁ、一つお前に文句を言いたい。どうして本名なんや? こっちではお前の名前は覚えにくい。イングリッシュネームくらい用意してなかったんか?」

 イングリッシュネームとは愛称やあだ名のことで、主にアジア系の人が海外で使う名前のこと。英語圏の人たちにアジア圏の発音は難しかったり、そもそも存在しない発音も多くある。そのための名だ。

「ないな。あるとしたら……ダークレイン?」

 間髪入れずに棗は突っ込んだ。

「それは通り名やろ!」

 その名は表でも意外と有名だったりする。そんなことが外部に漏れたりしたら大変なことになる。

「細かいことはこの際いいじゃないか、それより、宋。ついでだ。アルバートのうちに行く前に仕事しろ」

「は?」

 夜雨の返事を聞かないままグレンは続けた。

「お前は棗の補佐をやってくれ。ちょうどいい午後は外来がある。棗もこの際だ、今後のためにも宋を教育してやれ! 二人共、頼んだぞ!」

「ちょっ……」やら「待て」やら、夜雨と棗が途中で口を挟んでもグレンは聞く耳を持たなかった。つまり、拒否権はない。

 二人して顔を見合わすが、グレンのニッコリとした笑顔に夜雨と棗は愛想笑いを返し黙って院長室を出た。


「来るなら来るって先に連絡くれてもよかったやないか」

 医局に戻るとドクターたちはほとんど仕事や昼休憩で、も抜けの空だった。棗の隣の席に夜雨は座り、椅子をクルクル回した。

「おい夜、聞いてる……」

「ほれ」

 棗が全て言い終わらないうちに顔の前に甘い香りが漂った。差し出されたのはクッキーだった。

「なんだ、これ?」

 差し出されたクッキーを受け取り眺める。いたって普通のクッキーだ。

「モニカさんちのクッキーだ! 今日のはチョコチップ。喜べ、一枚恵んでやる」

 そう言い口に入れもぐもぐと幸せそうに食べ始めた。

「もしかして、昼それだけってか?」

 健康に悪いと言うように棗は顔をしかめた。

「ふぉうだけど」

 パソコンを開き、棗の患者のカルテを見始めた。こいつは本気でコレしか食べなさそうだとため息をついた。昔から夜雨は甘党だ。反面、棗の大好物の辛いものが大の苦手だった。棗が頭をガジガジと掻き、夜雨の首根っこを掴んだ。

「こい、棗様が奢っちゃる」

「えーー辛いのはやだ」

 文句を言っては来たが暴れないのでそのまま引きずって食堂へ連れて行く。途中周りの視線が痛かったが致し方ない。

 夜雨にはローストビーフとチーズのサンドイッチを自分にはミートパイを並べた。もちろん、辛い料理は韓国でもないのでそう簡単にはメニューには並ばない。しぶしぶ夜雨は、いただきます。と、言い食べ始めた。

 皆が集まる食堂で今日赴任したばかりの夜雨は目立つ。おまけにイギリスでは珍しい黒髪というオプション付きだ。棗はそれとなくこれからの外来の話をしだした。

「俺は基本は外科だが、小児科に行ったり別の科を見たりもする。なんでもできた方がいいだろ?」

 それに同意し、夜雨がコクリとうなずき、紅茶を一口飲み、「あちっ!」と、言いながら話を続けた。

「で、今日は大物はいるのか?」

 小さな火傷で口をハフハフさせつつも、備え付けのポテトをフォークでつつき上目遣いで夜雨は棗を伺った。

「それらしきものはある。予約は後の方だが……子供でおまけに眼科だ」

 ピリッとした空気が漂ったのに気付いた夜雨は、のんびりしているように見えても、こいつもこちら側の人間だと言う事を自覚する。さしたポテトを口に放り込み飲み込むと、いやらしく笑った。

「そう煽るなよ」


 巡回捜査中、アンジェラとスミルは警視庁に呼び出された。

「なんでしょうね、呼び出しなんて……」

 聞き込みしていたところ、今朝殺された男は名をパイントと言い、イーストエンドにある事務所に出入りしているという。アンジェラとスミルはそこへ向かおうとしたときに呼び出しがかかった。

「嫌な予感しかしないな」

 スミルがポツリとつぶやき、車を駐車場に止めた。スミルの嫌な予感は案の定当たった。

「え? 捜査終了ってどう言うことですか? 身元が分かったんですよ?」

 今朝の会議室に再び集めさせられた刑事たちは口を揃えて反論した。ただ、スミルだけが口をへの字に結びそれを聞いていた。

「やっぱり……」

 上層部に誰かが今回のことをチクったのだ。これが本当に十二年前の犯人たちの犯行だとしたら、上の連中は忘れてはいないはずだ。完全に目を瞑ると言う事だ。この存在しない人物達による存在しないはずの人間殺しに……

 目撃者がいる以上、午後のニュースでは事故死として発表されるはずだ。これも十二年前と同じだ。

「くそっ!」

 スミルは吐き捨てるように愚痴った。アンジェラは悔しそうなスミルにチクリと胸が痛んだ。

「おい、新人。帰っていいぞ」

「え?」

 新聞を見つめたままアンジェラにスミルはそう言った。

「もう今日はやる仕事がない。寝てないんだろう? よかったじゃないか」

 たしかにやれる事といえば身の回りの掃除くらいだ。アンジェラはありがたく帰ることにした。警視庁を出ると外はまだ明るく、人通りも多い。いつもだったら日はとうに落ちていて。

「そうだ、病院行かないと」

 予約はしていないが、生憎今日は時間がありすぎる。あわよくば待合室で居眠りでもしよう。アンジェラはそんなことを考え、かかりつけの病院セントソルテホスピタルへと歩き出した。


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