第9話 大司教と獣

 ◇◇◇◇

 ルリアへの命名の儀を終えた大司教は、大公家の屋敷をでて馬車で進む。


「忌々しい。次期王でもないスペアの分際で、若造が」


 大司教は、大して年の変わらないルリアの父グラーフへの不満を吐き捨てる。


 たかが第二王子の分際で!

 しかも、王位継承権争いに敗れ、大公の爵位を与えられ、半分臣籍に降りたようなもののくせに!


「……教会を侮りやがって」


 あの第二王子は、教会に対して、中立的な立場だったはずだ。


 それなのに今日のあいつときたらどうだ。

 

 あのようなおぞましい赤目と赤毛の赤子をかばうなど!

 あんな赤子は存在自体が、神に対する冒涜と言っていい。


 だからこそ、親切心で不吉な赤目赤毛の娘を引き取ってやると提案してやったというのに。

 

「それを、あいつは……あろうことか、この俺を睨み付けやがった!」


 このままでは許さぬ。

 唯一神の教会の力を総動員して、あのスペアを陥れてやる。


「教会に逆らったこと。後悔しても遅いぞ。スペアの第二王子風情が――」


 豪奢な馬車の中で大司教が一人で喚いていると、その馬車が急に止まった。

 馬車を引いていた四頭の馬がいなないている。


「どうした! 止まるな! 進め!」


 大司教は御者を怒鳴りつける。


「それが猊下……前に……」

 御者の声が震えている。


「ん? 何だというんだ」


 大司教はのぞき窓から前方を見る。


「な……なんだ? あれは……」


 馬車の前に黒い牛がいた。

 外見はただの牛。だが、大きさが尋常ではない。

 控えめにいって馬の二倍は大きかった。


「よ、避けて進め」

「馬が、……馬が言うことを聞きません!」

「それをなんとかするのが、御者のしご――」


 次の瞬間、馬車に強烈な衝撃が走った。

 車体が物理法則を無視するかのように砕け散る。


 中にいた大司教は悲鳴を上げることもできず、砕け散った車体から投げだされ、無様に転がっていく。

 物理的にはあり得ない動きだ。魔法が使われたのは明白だ。


 だが、混乱する大司教は魔法の存在に思いいたりはしなかった。


「…………一体……なにが……」


 どれくらい気を失っていたのだろう。


 大司教が目を開けると

「ブボオオオオ……」

「ひ、ひいいいい」

 目の前に、小山のように巨大な猪がいた。


 猪の立派な牙の先に馬車の車輪が引っかかっている。

 この猪が、馬車を破壊したらしい。


「く、食われる! ひいい。神よ。神よどうか、お助けください」


 大司教は聖職者らしく神に祈りながら、地面を這って逃げようとする。


「キュー」「ホッホオッ」「ピイイィィー」


 這って逃げる大司教に大量の鳥たちが襲い掛かった。

 法衣を爪で掴み、大司教の身長ぐらいまで持ち上げる。

 そのあたりで法衣は裂けて、大司教は地面に叩きつけられた。


「ぶべ……なぜ、鳥が、ひいい」


 一度では無い。何度も何度も鳥は大司教の法衣を掴んで持ち上げる。

 そのたびに法衣は裂けて、地面に叩きつけられた。


「……神よ、……神よ」


 大司教は生まれて初めて心底から祈った。

 鳥たちに十五回ほど持ち上げられて地面に叩きつけられて、ついに大司教は全裸になった。


 これも物理的にはあり得ないことだ。

 少し持ち上げられた程度では法衣は破れない。


 鳥たちが魔法を使っているのは明白だ。


 だが、怯えて混乱の極みにある大司教は、魔法に思いいたりはしなかった。


 もはや大司教には靴以外、身を隠すものはない。

 何度も地面に叩きつけられたせいで、全身があざになり、顔が腫れ上がる。

 皮膚が破れ、骨が何本も折れていた。


「神よ、神よ……どうかこの哀れな子羊をお助けください」


 大司教には、意味がわからなかった。

 なぜ牛が? 猪が? 鳥たちが?

 動物たちの目的もわからないし、自分がこんな目に遭う理由もわからない。


 血を吐きながら、あり得ない方向に曲がった腕と足で這って這って、全裸でもぞもぞと逃げた大司教は、

「ぃあっ?」

 蹄の付いた巨大な前足にぶつかった。


「ひぅ」


 大司教が見上げると、

「…………」

 そこには黄金色のヤギがいた。


 馬より三倍ぐらい大きな巨大なヤギだ。


 先ほど見たばかりの牛や猪よりも大きい。

 ねじくれた角は人の身長ぐらいあり、あごひげは人の身長の半分ぐらいある。


 ヤギが、ゆっくりと大司教の目をのぞき込むように顔を近づける。


 実はそのヤギは守護獣だった。

 守護獣とは、精霊でありながら、肉の体を持った存在だ。

 もちろん精霊の持つ魔力は守護獣とは比べものにはならないほど強い。

 だが、肉体的な強さがあり、自分の意思で世界に力を及ぼせる分、個体としての戦闘力は守護獣の方が上だった。

 守護獣はルリアに少しだけ似ている存在といってもいいかもしれない。

 違うのは、ルリアは精霊よりも魔力を持った存在であるという点だ。


 ちなみに牛も猪も、そして鳥たちも守護獣だった。


 そんな霊的な存在にじっと目を見つめられ、

「ひぅ」

 恐怖で歯が合わなくなるほど震えながらも、大司教はヤギから顔をそらすことができなかった。


 とっくに目の周りが腫れ上がり、視界は朧気だ。

 だが、不思議とヤギの姿ははっきり見えた。


「…………」


 神々しいまでに立派で巨大なヤギが、じっと無言で大司教の目をのぞき込む。

 そのとき、大司教に天啓が降りた。少なくとも大司教は天啓だと思った。


「………………それが神の思し召しなの……ですね?」


 大司教はヤギを通して神の意思を理解した気がした。



 大司教は三十前後で大司教になるだけの才覚があった。

 それは精霊に対する親和性だ。


 神は存在するが、この世界に全く影響を及ぼさない。


 つまり、この世界における奇跡などの神秘的な現象は、ほぼ全て精霊によるものである。

 それゆえ、皮肉なことに唯一神の教会の上層部には、精霊と親和性が高い者が多かった。


「神のご意志……この、卑しき奴隷めは、理解いたしました」


 守護獣たちは、精霊たちからルリアに暴言を吐いた大司教がいると聞かされて怒り狂っていた。


 だが、守護獣の中でも年を経た個体であったヤギは、大司教を落ち着いて優しく諭したのだ。

『ルリアを虐めるな』『ルリアを守れ』『それがおまえらの仕事であり定めだ』

「……はい。神の言葉……胸に刻みます」


 ルリアとは比べるまでもないが、大司教は精霊との高い親和性を持っている。

 だから、守護獣たるヤギの意思を朧気ながら理解した。


 その意思は言葉のような、はっきりしたものとして伝わっているわけではない。

 朧気な意思のような曖昧なものだ。

 だが、恐怖と混乱の中で下された神の啓示だと信じた大司教は、必死になって読み解いた。


「はい、はい。神のご意志に従い、ルリア様には、手を出しません。命を、命を懸けて」

「…………」

「……罪深き私のような者に、啓示をくださり、ありがとうございます」


 全裸の大司教は、平伏し、ヤギの蹄に口づけをした。


  ◇◇◇◇


 森の中で大けがした大司教が見つかったのは次の日のことだった。

 それから大司教は人が変わったと皆が噂した。

 慈悲深く、民に優しく、思慮深くなったという。

 賄賂を要求することもなくなった。


 精霊は神が使わした御使いみつかいだと主張し始めた。


 そして、密かにルリアを守るために動くようになった。


  ◇◇◇◇

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