本当に打つ手がないのか検証してみる 1
暗闇の国道一号線を車はひた走る。
時刻は深夜の3時。さすがに車通りもほとんどなく、ヘッドライトに照らされたアスファルトだけが漆黒の海のようにうねっていた。
無機質な表示灯に僅かに浮かび上がる青い瞳は今も感情を一切感じさせないが、僅かに疲労に曇っていた。
いや、それは疲労ではなく焦燥だったのだろう。
しばしば車内の時計に視線を移しながら、落ち着かない様子でステアリングを握っていた。
「もうすぐ、予定の時刻ね……」
動きのない景色の中にあっても、彼女の瞳はせわしなく時計とスピードメーターに吸い寄せられる。
間もなく検証が始まる。
仮説が確かであれば、それは彼女にとっての最後通告に等しい。
そして残念ながら、その仮説はおそらく間違いない。
そうなってしまえば、目下最大の心配事は彼女にどれくらいの時間が残されているか、だ。
10年後かもしれない。最悪の場合は数分後かもしれない。
どちらにせよ、結論はもう間もなく出るだろう。
女性は腕時計に目を落とす。秒針は車内時計にはついていない。
予定の時刻までのカウントダウンを始める。
「5……4……3……2……1……」
やってはいけない事とは分かっていたが、その瞬間だけは目を瞑ってしまう。
彼女のメンタルは頑強そのものだが、それでも死の恐怖には勝てなかった。
「……ゼロ……」
すぐさま目を開け、深々と嘆息する。こうして息をできていること自体が、最悪の事態を免れたことを意味していた。
幸運と呼ぶべきか不運と呼ぶべきかは悩ましかったが、とにかく生きていられることに感謝した。
そして、すぐさま携帯電話に着信が来る。
手早くハンズフリーで受けると、スピーカーから珠江の声が聞こえてきた。
彼女の声にも覇気がない。ここ連日の疲労もあるだろうが、報告の内容を聞いてそうではないことはすぐに知れた。
「先輩……残念なお知らせです……」
機械で再生された珠江のたおやかな声は、今は緊張でカラカラに乾いていた。
「とにかく、法定速度ギリギリで飛ばしてください。それで、時間は稼げるはずです」
「分かったわ……それじゃあ、約束の場所で落ち合いましょ」
通話を切り、アクセルを強く踏み込む。
こんな時こそ冷静でなければならない。事故を起こしたりすれば、取り返しがつかない。
軽く深呼吸をして鼓動を落ち着ける。
ナビを確認して、鈴は短く呟いた。
「本当に……嫌な仮説だけはバッチリ的中するのよね……」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
午前3時10分。時速8.8km。時速32.1km。
とても無機質な三つの数字。
それが、珠江が告げた実験結果。それと同時に、鈴に言い渡された最後通告でもあった。
わずかな街灯に照らされた道の駅。
ベンチに腰掛けてその事実を告げる珠江の顔はどこまでも青白い。
彼女自身、これがどれほど深刻な事実であるかを十分に把握していた。
ただし、その深刻さとは別に緊急性についての判断は、報告を受けた鈴に委ねられた。
二つある仮説のうち、一つ目はシンプルな結果だ。吟味する必要はない。
珠江の隣に座る鈴は、姿勢を正したまま淡々と告げる。
「その時刻は、あたしが呪いのビデオを見終わった時刻ね。つまり、”十和子”はきっかり24時間ごとにあたしを追跡する速度を上昇させていたということになるわ」
「どうして、今日になって急に速くなったんでしょう……」
珠江の問いに、鈴は手元のレポート用紙にいくつかの数字を書き連ねた。
1日目:未測定
2日目:未測定
3日目:時速5.2km
4日目:未測定
5日目:時速8.8km
6日目:時速32.1km
7日目:???
7日目をグルグルと赤ペンで囲った後、鈴はベンチに目一杯体重を預ける。
細くてしなやかな金色の髪が、背中に流れ落ちていく。
何度も羨ましく思ってきたその美しい髪を見つめ、珠江は自らを奮起させるように明るい声でこう言った。
「でも、これで打ち止めかもしれませんし!逆に明日にはゆっくりになっていることだってあり得ますよね?」
珠江が自分を励まそうとしてくれていることは、さすがの鈴でも理解できた。
しかし、実験事実と、そこから導かれる新たな仮説には感情の入り込む余地はない。
「残念ながら、可能性は低いでしょうね。”十和子”の速度をグラフにしてみればわかるわ」
ペンで描いたグラフは、単純な直線ではない。最初は床を這うような線が、後半になって急な上り坂に変化している。
「いわゆる指数関数的な形状ね。数式は不明だけど、間違いないわ」
「指数関数って、なんでしたっけ?」
珠江の問いに、鈴は丁寧に数式を書いて説明する。どんな時でも、彼女は質問者に対しては誠実だった。
「y=x^2。この場合、ある数を二回かけることを意味するわ。2の2乗なら4。3の2乗なら9、といった具合にね」
「それって、後半はとんでもない数字になりませんか?10の2乗は、もう100ですよ」
「いい質問ね。一定の割合で増え続けるものを線形増加というわ。車で走った時間と距離の関係に似てるわね。一方で、増加の割合まで変化するものを指数関数的な増加というわ。直感には反するでしょうけど、銀行の金利がそうよ。闇金なんかに借金しちゃうと、嫌でも実感できるでしょうけどね……」
昔の嫌な記憶でも掘り起こしたのか、鈴の表情に影が落ちる。
「おそらく、今から24時間後。”十和子”の移動速度は自動車の限界を超えてくるでしょうね……」
「それじゃ、新幹線や飛行機はどうです?」
鈴はかぶりを振った。
「まず、飛行機は密閉空間よ。キャビンの中に直接転移してこられた時点で逃げ場はないわ。新幹線は、可能かもしれないけど……確証はないわね。停車中にどれだけ追いつかれるかが問題よ」
幸いにも、”十和子”の速度が上がるにつれて鈴との最大距離も開くことが分かっていた。
法則はこちらもシンプル。1時間で追いつける距離。
車を止める直前まで、”十和子”は約30km後方に置き去りにされている。
それでも、どう足掻いても1時間。それまでに移動を開始しなければならなかった。
「結局、その翌日には追い付かれるでしょうね。指数関数的な増加は、それほどどうしようもない現象なのよ」
「……そんな……」
「とりあえず、今まで”十和子”についてわかっていることを整理してみましょう」
今日までの実験結果を並べてみる。
・呪われた対象者と、一部の霊感のある人間にしか見えない
・触れることで対象者自身の表面結合を促進し、圧死させる
・触れられた時点で運動機能が消失する
・対象者をどこまでも追いかける
・対象者に1時間以内で追いつける距離以上は離れない
・どこに隠れても、絶対に居場所を突き止める(ニュートリノのような透過性の極めて高い検知手段を持っている)
・対象者までの最短距離を常に移動する
・対象者が密閉空間に隠れると、その空間の中に直接ワープしてくる
・追いかける速度は指数関数的に増加する
「改めて列挙してみると、隙が全く見当たらないわね……。人を確実に殺すためのシステムだわ……」
まるで他人事のように冷静に説明を続ける鈴。血の気を完全になくした珠江の方が呪われているのではないかと思えるほどだった。
うつむく鈴。彼女とて恐怖は感じる。避けられない死が、もう目前にまで迫っている。
右手首にまかれた包帯をさする。珠江は見逃さなかった。傷口に触れる指先が、かすかに震えていることに。
「先輩……」
「つまり……」
うつむいたまま、ぼそりとつぶやく。相変わらず、平坦な声のトーンからは感情を読み取ることができない。
それでもわかることもある。指と同様に、声まで震えていたからだ。
「先輩……」
なんと声をかけていいかわからずに、同じ言葉だけを繰り返す。
鈴が顔を上げる。
「つまり……あと一日、死に物狂いで実験するしかないってことよ!」
暗闇の中にあっても、絶望的な状況にあっても、彼女の瞳が曇ることはない。
珠江は知っていた。どんな時でも、鈴は諦めない。最後の瞬間まで、粘り強く道を探し続けるのだ。
鈴は武者震いを隠そうともせず、早速複雑な数式をいくつも書き始めた。
「今わかっていないことは二つ。一つ目は”十和子”があたしとの最短距離をどのようにして導き出しているのか。スパコンの部屋は密閉空間ではなかったのに、アレはあたしの目の前に転移してきたわ。きっと、視覚情報以外の『何か』で距離を推測しているのよ。これが見つかれば、まだ打つ手が見つかるかもしれない」
紙に書き続けているのは、”十和子”の速度に関する数式だった。
ヒントはたった3つの数字だけ。ここから、何らかの法則性を見出そうとしていた。
「二つ目は、速度の増加法則。少なくとも、24時間後にどれだけの速度を保っていなくちゃいけないかは、把握しておくべきよね。うまくいけば、もう一日実験の猶予ができるんですから!」
嬉々として数式を躍らせる鈴。
そんな鈴を見据え、珠江が意を決したように口を開く。
「三つ目、”十和子”がどうして人を呪うようになったのか……検証します」
「珠江?」
「”十和子”のすぐ近くで、彼女の声を聴き続けていたら分かったことがあります。彼女は何者かに海に沈められて殺されたんです。その時の恨みが呪いとなって、生きてる人間を無差別に襲うようになったに違いありません」
言いながらスマホで写真を見せる。そこには、二人だけに見える”十和子”の姿が映し出されていた。
ズタボロになった白い衣装を指さす。
「わかりにくいですけど、これは海女の服です。きっと、彼女は仕事場である海で殺されたんです。微妙な訛りからおおよその地域まで分かります。そこに、彼女の呪いを解く手がかりがあるかもしれません」
手にしたリボンで髪を結いあげる。
珠江が覚悟を決めた証だった。
そんな彼女に、鈴はいつものように冷静に問いかける。
「もう一度確認するわよ?その実験の目標は?」
「”十和子”が殺された場所を突き止め、供養して成仏してもらいます」
「”十和子”が殺されたという根拠は?」
「ありません」
「では、供養すれば呪いが解けるという根拠は?」
「ありません」
鈴の眼を、真正面から見つめ返す。
その瞳には、いまにも涙が溢れだそうとしていた。
それを確認すると、鈴は短く嘆息して問いを続ける。
「そもそも、”十和子”と呼ばれる人物が実在していたという根拠は?」
「ありま……せ……ん」
ついにこらえきれなくなったのか、背中を丸めて顔を手で覆う。
分かっていたことだ。穴だらけで確たる根拠もない推論ばかり。
改めて口に出してみて、そのどうしようもなさを痛感させられた。
そんな珠江に、鈴は最後の問いかけをした。
「では、この実験の目的は?」
珠江は涙でぐしゃぐしゃになった顔で、必死に鈴の顔を見続けた。
どんなにみじめで情けなくてもいい。伝えるべきことは絶対に伝えたい。
珠江は、心の底からの願いを吐き出す。
「先輩と……またおいしいお酒を飲むためです……!」
理屈も何もあったものでは無い。ただの感情論だ。
こんな提案が到底受け入れられるわけがない。それでも、珠江は自分が思ったまま、感じたままに伝えた。
考えたくもないが、今日が最後の日になるかもしれないのだから。
「珠江……」
涙がこぼれるのを拭おうともしない珠江。鈴は、そんな彼女を見て表情を変えた。
顔の力がほんの少しだけ抜けたような些細な変化であったが、それでも珠江にはわかった。
鈴は今、微笑んでいる。
研究に没頭する中浮かべる狂気の笑みではない。ただ、目の前にあるものを愛おしく思う、そんな優しい笑顔だった。
暗闇の中にあってなお光を失わない、美しい笑顔に見惚れていると、鈴は目いっぱい背伸びをして彼女を抱きしめた。
「珠江……ありがとう……」
「先輩……先輩……!」
「あたしがこの世で最も信頼しているのは、実践から導かれた理論よ。でも、それでも届かない世界に挑むことがあれば、あたしは世界で2番目に信頼しているあなたを頼る」
泣きはらして熱くなった全身に、鈴の涼やかな温かさが心地よい。
そして、鈴からの言葉。信頼。
それらは珠江に無限の力を与えてくれる。恐れる必要はない。きっと、何とかしてみせる。
涙をぬぐいながら、照れくさそうに笑う。
「世界で2番目っていうけど……先輩、友達少ないですもんね?」
「その通り。だから、こんなあたしにも付き合ってくれることを、感謝してる」
鈴は照れもせずに本音を言う。彼女の言葉には、いつも嘘がない。
世紀の天災科学者からの絶大な信頼を、誇らしく思う。
暗闇の中、二人の女性は最後の実験に向けて決意を新たにした。
夜明けは近い。最後の24時間が幕を開ける。
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