冬の魔術師と草原竜の秘宝【完結】
冬野ゆな
第1話 最果て迷宮の日常
どこまでも続く雪の世界。
しんと静まりかえった、常冬の世界。
そこは、最果てと呼ばれていた。
生き物の気配さえ感じられなかった。雪を振り払うように、うなだれた木々から積もった雪が落ちていくだけ。
いまは穏やかな沈黙に満ちた世界にただひとつ、灯りのついた屋敷が建っていた。
最果ての館、最果ての迷宮、迷宮館――館はそう呼ばれていた。なにしろそこは世界の歪みが寄り集まり、次元の裂け目となったものが、見知らぬ廊下や扉となって、異世界と繋がるのだから。まさに迷宮の名を冠するに相応しい、奇妙な館だった。
そこには、少女が二人と、男が一人住んでいる。
外の永遠の雪の世界と同じように、静かに――。
……館の中はまったく静かではなかった。
「おい、誰だ! 『扉』を開けっぱなしにしやがったのは!」
男は、怒声とともにカフェ室のドアを開け放った。
その手には真っ白でふわふわとした子羊が一匹抱えられていた。足下にも子羊たちが、のんびりと男から伸びた濃紺色のマントを引っ張っている。
館の廊下は羊たちで埋まっていた。めぇめぇと声をあげて、外の寒さから逃れるようにぬくぬくと集まっている。真っ白な羊、頭に草をつけたままぼうっと突っ立ってる羊、その草を食べようとしている羊、そして子羊につられて、濃紺色のマントを食べようとする羊。
「だあああっ、マントを食うなっ、羊ども! は、な、せ!」
喚きながらマントを引っ張る。
その下の黒灰色のスリーピーススーツも、いまや羊の毛だらけになろうとしていた。灰色で、一房だけ黒い色をした長髪は、後ろで一つにまとめられている。年の頃は二十代中頃。金色の瞳に整った顔立ちをしているものの、いまは完全に表情が崩れてしまっている。
子羊の一匹がよたよたとカフェ室の中に入っていくと、中にいた少女は笑顔で迎え入れた。
「まあまあ、可愛い羊さん。どこから来たの?」
柔らかな声で子羊の背中を撫でる。めぇ、めえ、と高く幼い声がした。
「ほら、落ち着いてウィル君。駄目よ、大きな声を出したりしたら。羊さんたちが怯えちゃう」
信じられないものを見るような目で、ウィルと呼ばれた男は彼女を見返した。
さっきから執拗にマントを食もうとしてくる羊のどこが怯えているというのか。舐められている、のほうが正しい。
「この惨状を見てよくそんな脳天気な事が言えるな、シラユキ!」
一方、シラユキと呼ばれた少女は、子羊を撫でて落ち着かせるようにころころと笑った。
ウェーブのかかった銀の長い髪で、一房だけ青い色をしている。その髪と同じ青い目をしていて、年の頃は十三、四歳くらいだ。青色のエプロンドレスに、紅茶のバッジを付けている。
この館のカフェ室を担当している、双子の青い方だった。
「おーいっ! ゆっきー! ウィルー!」
廊下のほうから、これまた脳天気な声が聞こえてきた。
ウィルはがばっと廊下をのぞき込む。めぇめぇと廊下にひしめきあう羊たちの間を縫って、ひときわ大きな羊の上にまたがっている少女が笑顔で手を振っていた。
「なあ見ろよ、こいつすげーでかいぞ! オレも乗れるサイズ!」
「お前か、カナリアァァ!」
カナリアと呼ばれた少女は、ストレートのこれまた銀色の髪を後ろでポニーテールにしていた少女だった。頭の両側の二房だけ、赤い色をしている。目もその部分と同じ赤い瞳だ。年は十三、四歳くらいで、朱色のツナギの作業服を着ていた。
館のメンテナンスを担当している自称メカニック、双子の赤い方だった。
印象も性格もがらりと違う二人は、双子といっても区別できないほうが不思議だ。
「すごーい、おっきな羊さん! どっから連れてきたの?」
シラユキも目を輝かせて、巨大な羊に両手をあげる。
「さてはお前だな、扉を開けっぱなしにしたのは!?」
「あっはっは! 悪い、悪い! 廊下の調査してたら、こいつらの出てくる扉にぶち当たってさあ! 一匹くらいなら毛刈ってもわかんねぇんじゃないかって」
羊には館の中に入ってきた羊を追いかけるように、いっぴき、またいっぴきと入ってきたのだった。こうして廊下に羊が溢れたというわけだ。
「でもカナちゃん。これ以上おっきな子が入ってくると、館が壊れちゃう」
「ごめんごめん! ちょっとこいつだけ毛刈っていいかな?」
「せめて閉めろ!!」
撤収撤収、とばかりにウィルは羊たちを追い立てる。
シラユキも少しだけ名残惜しそうに子羊を見送っていた。
これが最果ての館、最果ての迷宮の日常だった。
世界の歪み、世界のほころび――そんなものが一点に交わり、見知らぬ扉や廊下となって繋がる次元の狭間。いわば異世界への扉が、出来ては消えていく場所。
そんなところでは、こうしてときおり、異世界の生物たちが迷い込んでは帰っていくのが日常茶飯事だった。
すべての羊を扉の向こうに押しやってしまうと、ウィルはようやくカフェ室まで戻ってきた。ぶつくさとぼやきながら、引っ張られてボロボロになったマントを直す。
「いやー、楽しかったな!」
「どこがだ!」
廊下はもとより、もみくちゃにされてスーツもマントも毛だらけだ。
「二人ともおかえり~。ウィル君はいつものコーヒーよね。カナちゃんはどうする?」
「オレはサイダー!」
二人がそれぞれカウンター席に腰掛ける間に、シラユキはカウンターの中でドリンクを作り始めた。
「まったく……、そもそもこの館の主はお前らだろうが。戸締まりくらいしっかりしろ!」
そう、この最果ての迷宮館の主は目の前の少女達なのだ。
ウィルは、この館に後からやってきた居候に過ぎない。館と少しずれて繋がった異世界の扉から、どういうわけか外の雪原へ放り出されるという仕打ちを受けた。幸か不幸か凍死寸前で二人に助けられたものの、不安定な扉を通ったおかげで自分の名前ごと記憶を無くし、本来の世界への帰り道もわからなくなってしまった。要は世界規模の迷子なのである。
「っていわれても、オレたちは住んでるだけだしなあ」
「そうねえ」
「そういうのを館の主っていうんだが……」
「ウィルの方が館の主っぽいんじゃないか? 不幸の魔術師だし」
「不幸じゃない。冬の魔術師だ!」
冬の魔術師。それが彼のもうひとつの名だ。
自分の名前さえも忘れていたものの、持ち物や衣服から魔術師ではないかと推測されたのだ。だがただの魔術師では面白くないと、冬の名を選んだ。氷や雪よりも、それが一番耳障りが良かったからだ。だがそもそもこの世界に放り出された事といい、こうして何かに巻き込まれる事といい。ほとんど冬ではなく不幸と揶揄される方が多い。
とはいえ、そのせいもあるのだろうか。はじめて館に訪れる客人は、たいていウィルの事を館の主だと勘違いする。はじめてでなくともそう認識する者は多かった。
だがウィルにとっては、館の主とは目の前の双子の少女だ。その主が扉の戸締まりに無頓着なのだから胃も痛くなる。
そんなウィルの前に、ミルクと砂糖のたっぷり入れられた温かなコーヒーが置かれた。ウィルはカップを手にすると、少しだけ飲んで気分を落ち着ける。
「ところで、カナちゃんはどうして廊下の調査をしてたの? また危険そうな所と繋がってた?」
続けてカナリア用のサイダーを出すと、かろんと氷のかちあう音がした。カナリアはさっそく、コップにささったストローからずぞぞーっと音を立てて飲む。
「そうそう。実はさ、廊下の先からずっと汽車みてぇな音がしてるんだよ」
「汽車みたいな音って?」
「しゅーっ、ごごごごご、たたんととーん、みたいな音」
それらしい音程をつけて言うが、二人はいまいちぴんとこなかった。
「擬音で言われても全然わからん」
ウィルは呆れたようにカップをソーサーに戻した。
「でも、ずっとしてる、っていうのは少し気になるかもね」
「そうだろ!?」
ぱっ、と笑顔になるカナリア。
この場合の「気になる」は好奇心に火を付けられた意味での気になる、だ。
「廊下の方はどことも繋がってないからさ、どっかの扉からだなって思って探ってたんだ」
異世界への扉は、こちらから開けなくても自然と消えてしまう。
世界の歪みは、小さな傷のようなもの。互いの世界で修正する力が加われば、自然と治って消えていくものだ。
だがあまりに歪みが大きすぎて長時間繋がっていると、誰かが間違ってこちらに入ってきてしまう事がある。間違って入ってくるぐらいならいいが、巨大な生物や動く植物に扉が破壊され、館そのものが壊されると少し面倒な事になる。下手をすると歪み同士が重なりあって、世界を隔てているものが一斉に壊れてしまう。
そんな事態を防ぐためにも、向こう側に何かあるのかは調査したほうが都合がいい。
「その途中であの羊がいっぱいいるとこに繋がったんだ」
「それは閉めろ」
そこはもう一度釘を刺しておいた。
それから、ふむ、と少し考えて続ける。
「どちらにせよ、一度調査は必要だな。俺の世界への帰り道に繋がっている可能性もあるし」
シラユキが頷いた。
「なら、決まりね」
「よっしゃ!」
カナリアがぱんっと拳を叩いた。
「私はいつも通りナビとしてここに居るから、ウィル君はカナちゃんの保護者よろしくねえ」
「俺は保護者ではないんだが……」
あきれかえったような声で言うのが精一杯だった。
暴れ馬の手綱を任されても困る。
その横で、カナリアが勢いよく立ち上がった。
「よーし。なら善は急げだ!」
胸を張ってドアを指さすカナリアを見つめながら、ウィルはため息をついたのだった。
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