第五章 7

 空から舞い降りてきた白い欠片。

 ティフォはそれにそっと手を伸ばす。掌で受け止めたそれは簡単に溶けて手に巻いた包帯に染みをつくった。

「今年の雪の訪れはちょっと早いわね」

 それが彼女を不安にさせる。

 さすがのケイも天気までは操ることはできない。

 想定通りならば、雪が降れば帝国軍は撤退する。

 が、それは一時凌ぎにしかならないのは自分の頭でもわかった。

 作戦を練り上げたケイ、住民を避難させたキルケーやグレゴーリ、砦や罠、避難先の建物を造ってくれたギルドの人達、協力してくれた町の人々、なによりこのために時間を稼いでくれた親衛隊の面々を思えば、この作戦はなんとしても成功させたかった。

「頼んだわよ……ベルン」

 ティフォは手を重ね、祈るように胸元に寄せる。

「ひめさま、なにしてるのー?」

 振り返ると、子供達が不思議そうに見ていた。

「ん……何でもないわ」

 そう言うと、ティフォは子供達の頭を撫でる。すると、ほかほかとした湯気を感じた。

「温泉、楽しかった?」

「うん、ひめさまがみつけてくれたおんせんたのしかったー」

 現在、ティフォがいるのは、温泉の近くだった。

 子供達の言葉通り、ひめさま――その時はケイが見つけたあの温泉地だ。

 そこには木造の三角屋根の仮設住宅が立ち並び、王都からの住民の避難先になっている。

「ちゃんと小まめに手を洗っている? トイレを流す川もちゃんと別の支流にしている? 寒いからといって家の換気をサボっちゃダメよ? あ、それに掃除もね」

 ケイの言葉をティフォは思い出す。

『病気の主な原因は瘴気ではなく、細菌とウィルスという目に見えない小さな生物なんだ』

 その対策として、衛生環境の重要性をケイは説明してくれた。

 そして、今、彼女が子供達に話したようなことを徹底することを教えてくれた。

「うん。おんせんもまいにちはいる」

 ケイはステンベルクに温泉文化を根付かせることに成功したようだ。

「……そういえばケ――ステラはどこかしら?」

「おんせんにいたよ。ステラね、にんげんみたいなの。あしをのばしておんせんにきもちよさそうにつかってた」

 その子供達の言葉に、ティフォは思わず吹いてしまう。

 ――温泉を探すくらい、ケイは温泉が好きだったものね。

 そして、そのくつろいでいる様子を想像して、ティフォもまた、心を落ち着ける。

 信じよう皆を。そして、ベルンを。

「姫様ーー!」

 馬を飛ばしてジェイドが駆け寄ってくる。

 そして、ティフォの前で下馬すると敬礼し、報告を伝える。

「作戦は成功です。街道の封鎖に成功し、見事、帝国軍を王都に閉じ込めることに成功しました」

 しかし、ジェイドに笑顔はなかった。

 ――……ベルン……みんな……ありがとう。

 ティフォはその実直な騎士の表情から悟る。

「あれ? ひめさま、ないているの?」

「ひめさま! ないちゃダメなの!」

 突然、泣きだした彼女に戸惑う子供達。

「……そうね。泣いている場合じゃないわよね」

 ティフォはそう言うと、赤い目をしながら子供達に笑って見せた。


 ※


 弁当を数える余裕は既になかった。

むしろ、数えたとしても絶望しか生まなかっただろう。

 何故なら、生き残った者の人数は、助け合う仲間達の人数ではなく、少しでも温かい場所を奪い合う同胞達の人数へと変化しつつあったからだ。

 掲げられていた旗、家を解体して掻き集めた木材、自分達の武器の木の部分、弁当を入れていた背嚢、そして、死んだ仲間達から剥ぎ取った軍服……。

 燃やせるものは何でも燃やした。

 しかし、四千人以上の兵士達が暖をとるには到底、足りなかった。

 隙間だらけの城の隙間を塞いで本陣とし、収容できない兵士達は周辺の民家に割り振ったのはいつのことだったか。

 そこでいつ来るのかわからぬ春を待ちながら、暖をとる。

 冬のステンベルクの気候は厳しいと聞いていたが、想像以上だった。

 一度、雪が降り始めれば、何日も降り続けた。時には嵐となり、容赦なく吹雪が襲った。

 厚手の軍服の上からでも寒さは容赦なく襲ってきた。

 肌に感じていた冷たさは、やがて痛みへと変わり、いつしかその箇所は黒く塗り潰されて何も感じなくなった。

 それをどうすることもできなく、ただただ部屋の中で膝を抱えて座り座り込んで、ひしめき合いながら、暖炉を囲んで必死に耐えていた。

 やがて暖炉から遠い者から、そのまま眠りから目を覚まさなくなっていった。

 その日は、珍しく雲一つなく晴れた日だった。

 そのため、彼らに城の雪降ろしと城下町での薪の調達が命じられた。もちろん、その調達方法は民家の解体である。

 ただただ時間を、そして吹雪が過ぎ去るのを城の中で凍えながら待つしかない毎日の中にふと訪れた安らぎの時間。

外に出て太陽の下での久しぶりの仕事に、帝国軍は久々に活力を取り戻す。

 が、しかし、暗く寒い時間がいささか長過ぎた。

「なあ、この川を下っていけば、国に帰れるんでねぇか?」

 雪降ろしで溜まった雪を、鎧の胸当てをスコップ代わりにして、城の横の川に投げ捨てている時だった。

 一人の兵士が呟く。

「確かに帝国領のどこかへには通じているだろうが……」

 同僚の兵士がそう応じる。

 正確な地理は分からないものの、方向から考えるに、それはほぼ間違いはないだろう。

「そうか、川に沿って歩いて行けば帰れるんだな」

「……お前、何を言って……無理に決まっているだろ」

 同僚の兵士の背筋にぞっとしたものが走る。

 彼の口調は本気そのものだった。

「いんや、オラは帰るだ。オラはもう騙されねぇぞ。兵隊は楽チンだ、戦は勇ましくて恰好良い……全部、嘘っぱちだったじゃねぇか! ステンベルクの奴ら、おかしいんだ。槍で何回も叩いても、何度も刺しても死なねんだ。すぐに起き上がって、オラのことを追いかけてくるだ。くわえてこの雪、雪、雪だ……オラはもう騙されねぇ……騙されねぇぞ!」

 そう言うと、スコップ代わりの胸当てを手放し、フラフラと川を目指して歩いて行く。

「お、おい、待て!」

 それを止めようと、同僚の兵士は手を伸ばす。

 そして、彼の肩を掴んだ途端、自分の指に激痛が走った。

「……ッ!」

 あまりに痛みに悲鳴さえ出なかった。

 見ると、黒く変色していた指が千切れていた。

「母ちゃんに謝るだ。一生懸命に謝れば、勝手に村から飛び出したことも母ちゃんは許してくれるだ。これからは心を入れ替えて、ちゃんと毎日、畑を耕すだ……母ちゃん……母ちゃん……母ちゃん……」

 その間にも、彼はブツブツと呟きながら川に近づいていく。

 そして、止まることなくそのまま川へと落ちていった。

 今の帝国軍に彼を笑う者などいなかった。

 この状況で狂わぬ者こそ、すでに狂っているのではないか?

 口に出しては言わないものの、そんな思いが皆にはあったからだ。


 ※


 その日は、珍しく雲一つなく晴れた日だった。

『人間には日光に当たることで作られる栄養があるから、晴れた日は特に子供達に日光を浴びさせるんだ』

 元々、冬場のステンベルクに晴れ間は少なく、また、家も冷気を防ぐために窓も少ない。また、寒さと雪のために必然的に屋内での遊ぶことが多くなってしまう。

 それら天候と環境から来る病気をケイは危惧して、彼女にそう言っていた。

 無論、子供達が病気になるかもしれないことを放置することはできず、ティフォは子供達を外へと連れ出すと、一緒に遊んでいた。

 元々ガキ大将気質のある彼女には、そういった役割は得意であった。

「うんしょ、うんしょ」

 大人達が雪降ろしと雪掻きで集めた雪。

 それを子供達は彼女と一緒にコロコロと回して丸めて、ドンドン大きくしていく。

「じゃ、それを重ねるわよ」

 そして、それが二つできたところでケイに教わった雪ダルマを作ろうとする。

 が――。

「う~~う~~」

 ついつい大きくし過ぎた。

 ティフォと子供達は必死に持ち上げようとするも、浮かせられない。

「姫様、お任せください……よっこらしょ」

 グレゴーリは子供達に間に割って入ると、丸太のような腕を伸ばす。

 すると、軽々と持ち上げられ、無事、重ねられた。

「「「おおーー!」」」

 子供達から歓声が上がる。

 二つ重ねられた雪玉が完成すると、今度はそれに枝を差し、バケツを被せ、炭で顔を描き、飾り付けていく。

「「「出来たのーー!」」」

 まるでこの避難場所を見守るような大きな雪ダルマが完成する。

「ありがとう、グレゴーリ。じゃ、身体が冷えて来たからお風呂に入りましょう。その後は、今度はお家で遊びましょ」

「「「はーい!」」」

 子供達は元気に返事をすると、ティフォに連れられて、集会所となっている一際大きな建物の中へと入っていく。

「不思議だな……今は避難生活中だというのに、姫様がいるとまるでピクニックにでも来たかのようだ」

 その主君の後ろ姿をグレゴーリは、感慨深そうに眺めていた。


「ひめさま、みてみて!」

 お風呂から上がり、着替えた幼女がクルリと回る。その服にティフォは見覚えがあった。

「あら、可愛いじゃない。あたしの服を仕立て直したのね」

「えへへ、わたしもひめさまみたいにかわいくなれるかな?」

「う~ん。どうだろ? あたしもまだまだ修行中だからなあ……」

「ひめさまでもしゅぎょうちゅうなの?」

「そ。可愛いってね、外見だけじゃダメなのよ。むしろ中身の方が大事なのよ。だから、あたしもまだまだ修行中なの。だから、ミーリー、一緒にもっと可愛くなれるように頑張っていこう」

「うん! これからもいっぱいてをあらうの!」

「……う、うん、手洗いは大事よね」

 謎の結論にティフォは心の中で首を傾げたが、良い習慣なので頷いておいた。


「……うう……宿題いやなの……」

 年長の女の子は、机を前に計算問題を解いていた。

 雪に閉ざされた時間を利用して、キルケーは子供達に読み書きと算数を教えている。

 彼の性格から容易に想像できる通り、授業態度まで指導される厳しいものであり、その上、次の授業までの宿題まで用意さている。

 この冷血宰相が直々に教鞭を取る授業は、保護者達からは好評であったが、子供達からは大変、不評であった。

「そうよね、あたしもキルケーの授業がイヤだったわ」

「姫さまも、良く怒られていたの?」

「そうよ。でもね、それはキルケーの優しさなのよ」

「……あれが、優しさなの?」

「そ。あたしなんて十年もかかっちゃったわ。あの厳しさが実は優しさだったって気づくまでに」

 女の子はちょっと驚いたようにティフォを見る。

 姫様の学業成績まではさすがに知らないが、偉い人だし、綺麗な人だから何となく頭が良いと思っていた。

「でも、ローザはちゃんと机の前にいるから、きっと数年で気づけるわよ」

 そんなことを言われたら、逃げ出すわけにはいかない。

 年長の女の子はあらためて宿題に向かい合った。


「できたあ」

 机の前で男の子が誇らし気に声を上げる。

 王都に新築の家が完成する――といっても、今はまだ紙の上に書かれたその完成予想図だが。

「へえ~立派な家じゃない」

 ティフォはそれを覗き込む。

「でも、いいの? ルークの家は庭が広いんだから、家の方をもっと大きくしちゃえばいいのに」

「姫さまは、わかってねぇな。雪の重みを考えながら家を建てなきゃならなぇんだよ。だから大きすぎると家が雪に潰れちまうから、横に家を広げる時は気をつけなきゃならねぇんだよ」

「なるほど。確かにそうね」

「それに庭が広いのも意味があるんだよ。雪降ろしの雪を捨てるための池をそこに造らなきゃならないしな」

「そっか、城だとそのまま川に雪を捨てちゃうけど、そうはいかないものね」

「それに、その池で川魚を飼って増やして夕飯にするんだ」

「へえ~色々と考えているのね」

「へへ」

 ティフォに褒められて、男の子は嬉しそうに胸を張る。

「完成したら、招待してね。遊びに行くから」

「いや、来なくていいよ。姫さまは」

「え? 何で?」

 男の子はプイとティフォから顔を背けると、口を開く。

「……大きくなったら……俺の方から姫さまを嫁に迎えに行くから」

「ふふふ、生意気言っちゃって」

 ティフォはその風呂上りで少し湿っている男の子の頭をワチャワチャと撫でる。

「でも、まあ、万が一、おばさんになっても独り身だったら、頼むわね」

 そんな二人の背中に無数の視線が送られる。

「「「…………」」」

 ステンベルクの国民の結束に、小さなヒビが入った。


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