第五章 6
「……おかしいね。偵察隊が戻って来ない」
足を止めることなく弁当を入れ替える兵士達の隊列を眺めながら、カニスはそう呟いた。
と、その時――。
鈍色の空から、ヒラヒラと何かが舞い降りてくる。
掌でそっと受け止めると、それは無垢な白さを失って、溶けて滴となった。
「……冬将軍が来られたか」
その儚さ、無情さに、カニスはそっと溜息を吐いた。
タイムリミットだ。
自分でも驚くほどのショックを受けていた。息を吐き出した胸が、そのまま空っぽになってしまったかのように痛んだ。
「元帥閣下、弁当の残りから数えると、現在、我が軍の兵数は四千六百二十二です」
弁当を配り終えたことを報告に来た部下の言葉に、カニスは頷く。
「……ご苦労様。ありがとう」
四千強の人数。砦の攻略に手こずったものの、十分だった。現有兵力としては。
「……兵士達の足を止めさせて、一時休憩を。偵察隊の帰還を待って、このまま転進して、ポートイルマに入るよ。暴風の名は転進にも発揮されるところを見せてやらないとね」
報告に来た部下に今度はそう伝え、そのまま全軍に通達しようとする。
と、その時――。
「……げ、元帥閣下!」
別の伝令が慌てて駆け寄ってくる。
「我が軍の前方に、悠の国の旗を持った男が!」
「悠の国の旗を持った男? その龍の爪は何本かな?」
「四本だそうです」
爪が四本の龍は皇族のみが使える旗だ。
とてつもなく嫌な予感がした。
カニスは一気に馬を走らすと、自らそれが見える軍の前方にまで移動する。
そして、目撃した。
馬上で四つ爪の龍の旗を掲げた凛とした優男を。
「あ、あの男は……!」
その男にカニスは見覚えがあった。
「蘭皇子じゃないか!」
悠の国の第一皇子。そして、我が姫君のもう一人の婚約者――いや、シャルロット姫亡き後の唯一の婚約者。
外交の場において何度か目撃したことがあった。
向こうは意識したことなどなかったかもしれないが、カニスはその顔を忘れたことなどなかった。
その美丈夫と言われる皇子の端正な顔が、帝国軍元帥に向けられる。
そして――。
そのカニスが失った若く張りのある美貌を歪ませて、勝ち誇ったように笑った。
まるで、帝国元帥の使命である国境の守りを放棄してまでこの地に駆けつけたカニスの秘めたる想いを見透かして、さらにそれを嘲笑うかのように。
先ほどまでぽっかりと空いていた胸の中に、怒りが満ちていくのをカニスは感じた。
そして、気づけば帝国紳士らしからぬ口調で、全軍に命令を下していた。
「転進は中止だ。このままステンベルク王都ジュレムに進軍する!」
珍しくカニス旗下の師団の兵士達がざわめき始める。
急な命令変更もそうだが、今、視界の中でチラチラと舞う雪が冬の訪れであることを彼らは知っている。
「諸君の不安はもっともである。だが、考えて欲しい」
そんな動揺を見せた帝国軍に対してカニスは一喝する。
「王都まで行かせた偵察部隊が未だに戻ってはこない。それは彼らが打ち取られたということであり、王都に悠の軍が既にいることの証左である。そして、目の前の男はそれを率いてきた蘭皇子である……では、ここで諸君に聞きたい。王都にいる悠の軍はどうやって冬を越すつもりだろうか?」
兵士が静まりかえる。
他ならぬ帝国随一の将である元帥閣下の確信を持った口調に、兵士達は落ち着きを取り戻す。
「その答えは明確だ。王都にはそれだけの食糧や燃料が蓄えられているということだ。もちろん、王都は堅牢さ、そして悠の国の援軍とによって、それらを守っていることだろう。しかし、帝国軍の勇姿たる諸君がその名誉にかけて義務を果たしたのならば、かの城に大鷲の旗を立て、そこにある物資を得ることができるものと私は確信している」
それに呼応するように兵士達は叫ぶと、再び帝国の暴風の名に恥じぬ進軍速度でもって、蘭皇子の姿を――その先にあるステンベルク王都ジュレムを目指して突き進んでいく。
それに対して、蘭皇子は馬を翻すと、逃げるように去っていく。
「さあ、ボク達も行くよ」
周囲の軽騎兵達にそう言うと、その後ろ姿を睨みつけながら、カニスもまた馬で駆け出した。
※
「ここが……我が姫君が住む都――王都ジュレム」
街道の先に現れた小さな城を見て、カニスは馬を走らせながら呟いた。
これから自分が攻め落とさなければならない城だというのに、胸が高鳴るのを彼は感じた。
ついにここまで来た、という万感の想いに満たされる。
が、しかし、その感慨に浸るのはまだ早い。
これから自分達は、今はエーデルワイスの旗に交じって悠の国の旗が並ぶそれを攻め落とさなければならないのだ。
蘭皇子が城下町に入っていったたのが見えた。そして、そのまま馬で駆けていきその先にある城門の中へと消えていく。
「よし! このまま我が軍も突入するよ!」
いつもならば、周囲に陣を構築してジワジワと城を攻め上げるところだ。
しかし、鈍色の空から絶間なく白いものが舞い落ち、さらに婚約者を迎えるために城門が開け放たれているとあれば、罠があろうとそのまま突っ込む覚悟だった。
また、罠があったとしてもそれを素早く掻い潜る自信がカニスにあった。
帝国の暴風の異名は伊達ではない。
街道を駆け上がった勢いのままに、帝国軍は城下町に雪崩れこむ。
が、しかし――。
ステンベルク軍は、帝国軍を一兵たりとも逃がすつもりはないようだった。
突然、地響きのような音が周囲の山々に木霊した。
それ共に周囲の山々の山肌が崩れ始め、そこから大量の土砂が降り注ぎ、その山間や谷間にある街道を塞いでいく。
見知らぬ地で――それも敵地で、退路が絶たれたことに、思わず帝国兵の足が止まり、遠くで舞っている土埃を茫然と眺める。
そして、今更ながら王城の目の前まで来たというのに、敵の抵抗がないどころか、自分達以外の姿を一人も見ていないことに彼らは気が付いた。
「だ、大丈夫だ。問題ない。蘭皇子をすぐに探すんだ! この状態でどうやって、彼はどうやって本国に帰るというのだ? 確かに街道は塞がれたかもしれない。しかし、悠の国へ帰るための道を彼は知っているはずだ」
カニスの言葉に、兵士達は少し冷静さを取り戻す。
確かにそうだった。自分達以外の姿を一人も見ていないわけではなかった。
蘭皇子がいた。
帝国軍は城内に、城下町に、そして周辺へと散ると、地の利がない中で必死にその姿を探す。
今は彼が悠の国の皇子であることが希望だった。
同盟国の貴人をステンベルクが見捨てたり、囮に使ったりするわけがない。
彼のためのこの状況からの脱出路がどこかにあるはずだ。
が、その姿を見つけることはできなかった。
そして、その王都の探索は、同時に自分達の現状を理解せざるを得なくする行為でもあった。
城にも町には人っ子一人おらず、王都全体が空き家だった。
龍の旗だけがあるのみで、悠の国の軍隊などおらず、当然、その軍隊や市民達が冬を越すための食糧や燃料などもなかった。
雪が舞う中、カニス元帥旗下の帝国軍の第二師団は、ステンベルク王国王都ジュレムに取り残された。
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