第五章 3
元帥の弁当と呼ばれるものがある。
帝国軍元帥カニスは軽騎兵を先行させると、物資集積所を造らせる。
そこには軍靴や武器といった支給品も並ぶが、中でも特徴的なのは文字通り山のように積み上げた背嚢だ。
その中に入っているのは三日分の食糧。
兵士達は今、自分達が背負っている古い背嚢をそれと交換することによって、食糧を補給する。行動限界日数を更新していく。
無論、その間、行軍速度を緩めることはない。兵士達は歩きながら次々と交換していく。
師団規模の人数を加速させることは難しい。それ故、減速する機会を極力少なくする。
これがカニス元帥率いる師団の行軍、進軍速度を支えている原則である。
そして、この補給方式は、その食糧の入った背嚢から元帥の弁当と呼ばれている。
この方式を運用するには大量の物資と人員が必要な上に、それに伴う多くの無駄が出ることに目を瞑らなければならない。
いわば速さのための浪費であり、それが許されるのは、ザルツドレア帝国の国力と、そこから必要なだけ供出させることができるカニスの指揮権があってのことである。
そして、それは食糧補給だけではなく、現有兵力の把握にも使われている。
「元帥閣下、弁当の残りから数えると、ちょうど現在の我が軍の兵数は四千八百六十一となります」
帷幕の中でカニスは、黒の騎士からの報告に頷く。
予め用意していた人数分の背嚢のうちで、兵士達が受け取り終えた後に残された背嚢の数。
それは用意しておいた弁当を食べそこなった者の数だ。
戦死したか、取りに行けぬほど重傷なのか、はたまた敵前逃亡してしまったのか。
どちらにせよ、もう戦力とは数えられない兵士達である。
そして、そんな兵士達を引いた数が現有兵力となる。
「……ステンベルクに来るまでの強行軍での脱落者は百四十四だった。連れてきた六千の兵の中で一割以下とその時は順調だと喜んでいたんだけどね」
カニスは帷幕の隙間から、自国の兵士達が蟻のように群がっている砦を見つめる。
街道を塞ぐように造られたその砦のおかげで、その順調だった進軍の足も止まり、いたずらに時間が過ぎ、兵士達の死傷者も増えている。
おかげで強行軍での脱落者も追いついてきたのだが、喜べない状況だ。
「川で完全に包囲できないこの場所を選択し、さらに短期間にこれだけの砦を築く……我が姫君は築城の才があおりのようだね」
カニスは愚痴を軽口で叩く。
といっても、彼自身その言葉を信じてはいない。
恐らくはグレゴーリかキルケーの進言を取り入れたものとカニスは考えていた。
「やれやれ、これでは雪が降る前に砦を落とせそうにないね」
それが敵の狙いなのだろう。
雪という百万の軍でも敵わない存在がくれば、ただちに撤退しなければならない。
別にそれだけならばいい。
我が姫君を妻にする機会を待つのに、七年も待った。そこに雪解けを待つ時間が加わってもささいなことだ。
それに国力差というのは生産力の差でもあるから、時間をかければかけるだけ、ステンベルクと帝国の格差は広がっていく。
それを元に春までに攻略軍を編成し直せばよいだけだ。
時間をかけるのは速さを重視する自分の信条に反するが、戦略の粗雑を誤魔化すための拙速になっては意味がない。
ただ、懸念があるとすれば、悠の国の動きだ。
今、率いているこの軍を動かした国境もそうだが、もっとも気になるのは、ステンベルク救援のために援軍を出すことである。
我が姫君のもう一人の婚約者がいる悠の国。
その対価として何を求めるのかは、容易に想像がついた。
ちょうど砦を眺めていると、降り注ぐ石に前線の兵士達の足が止まったところだった。
思わずカニスは爪を噛む。帝国紳士らしからぬ行為。
足止めが続き、焦りがないわけではない。
と、その時――。
「閣下ーー!」
伝令が帷幕の中に入ってくる。
「何かな?」
噛み切った爪をそっと吐き出し、手で隠しながらカニスは問いかける。
「投降者です。ついに帝国軍に降伏したいというものが現れました」
「それはそれは……川に阻まれていたとはいえ、ボクの包囲網はそこまで甘くなかったはずなんだけどなあ。良く抜け出せたものだ」
「いえ、砦からではありません。ステンベルク王都ジュレムからです」
「……それはまことか?」
その報告に黒の騎士は、その仮面を伝令に向けた。
※
「お願いしますのじゃ! 孫が生まれたばかりなのですじゃ! どうかわしの家族の命だけは助けて欲しいのですじゃ!」
目の前には地面に額を擦り付けながら土下座する老人。
そのベルンと名乗った男を椅子に座ったままでカニスは見下ろす。
この禿げた頭をすぐに叩き斬ってやりたい。
そんな衝動にカニスは襲われる。
それは自分でも不思議な感情だった。
今でこそ戦場にいる方が長くなったが、カニスもかつては宮中にいた。
眩いほど豪華な宮廷の裏で、常に繰り広げられている陰謀や、裏切り、人身御供といった様々なことを幼少期より見てきた。
家族を持つ身だから、臣下達を食わせるため、やらなければ自分がやられるから……暗い処世術のための言い訳は、それはそれで正論であるし、人間はそういうものだという諦念を身に付け、清濁を飲み込む度量は身に付けたつもりだった。
しかし、この男の裏切り――我が姫君への裏切りは別のようだった。
怒りを伴う嫌悪感、侮蔑、失望といった感情が次々と浮かんでくる。
この裏切りは、自分に有利なものにも関わらず。
「……ベルン殿、顔を上げてください。話を伺いましょう。何故、あなたは降伏されるのです? ご家族のためにしても、まだ勝敗は決まってはいないではありませんか?」
それらの感情を隠し、紳士然たる態度を崩さぬまま、カニスは問いかける。
「帝国の暴風と恐れられるカニス元帥閣下が来られたなら、もう勝敗は決まったようなものですじゃ」
「……それは光栄だね」
自分の名前を呼ばれるのがこれほど不快だと感じたことはなかった。
隠しきれず、頬がやや引き攣った。
「それにこのままステンベルクに残ったとしても、わしはダメなんですじゃ」
そう言うと、ベルンは自分の右手を見せる。
「わしは負傷兵なんですじゃ」
確かに、その手には真ん中の三本の指がなkった。
「このままステンベルクに残っても碌に稼ぐことはできないのですじゃ。しかも、この手のせいで、今まで散々バカにされてきたのですじゃ。あいつら指だけでなく頭も足りないとバカにしおって……」
「それは大変でしたね」
にこやかに微笑みつつ、カニスは思案する。
そのカニスの様子に安心したのか――手土産を渡す良い機会だと思ったのか、投降してきた男が口を開く。
「カニス元帥閣下、お役に立ちたいのですじゃ。わしを砦の前まで連れて行ってもらえませぬか?」
「……何をなさるつもりでしょうか?」
こういった人間が何をするつもりなのか、大体、予想はつく。
冷めた心持ちでカニスは聞き返す。
「わしが、砦の者達に投降を呼びかけますじゃ。砦が降伏しなくとも、砦の中にはわしと同じ思いを持っている者達もおるはずですじゃ。その彼らで、砦は内部から切り崩せますじゃ」
カニスが予想していた通り、裏切り者同士で徒党を組むつもりらしい。
「姫様は逃げる時間を稼ぐために見捨てたのですじゃ。だから、あの砦の中にはそんな食糧は貯えられていないのですじゃ。攻撃を凌ぎ続けたとしても、飢え死にするしかないのですじゃ。そんな絶対に死ぬ任務を厳命した姫様に反感を持つものがきっといるはずなのですじゃ」
「それは貴重な情報ですね」
そう言いつつも、それはカニスの推測通りの敵の戦略だった。
だから、目新しい情報――というよりは、確認作業に近い。
しかし、こうやって投降者が出た、そして姫に対して反感を持つものが砦にいることは予想外だった。
いや、冷静に考えれば、その可能性を考えない方がおかしいだろう。
小国に大国の精鋭部隊が押し寄せたのだ。離反者が出ることは珍しいことではない。
カニス自身、多少の自覚はあった。
我が姫君のことを想うと、同時に少年の頃に夢見たような高潔な世界を思い描いてしまうことを。
今まさに、自分は血塗られた手で彼女を求めている最中だというのに。
「……わかりました。頼みましょう」
失敗したとしても数時間遅れるだけだ。
カニスは反省も込めて、そう決断を下した。
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