第四章 帝国の暴風が吹き荒れそうなの 8
夜道も猫の目ならスイスイと歩けた。
しかし、目の前には固く閉じられた門。周囲を見渡しても爪を引っかけて登れそうなところはなかった。
(開けて! 開けてよ! みんなで国に帰るんだから! 帰るんならみんな一緒なんだから! みんなのことを家族が待ってるんだから!)
ティフォは門をパタパタと叩きながら、念話で必死に叫ぶ。
しかし、その声が届くはずもなく、開く気配はない。
そんな風、門の前でまごまごしていると、急にヒョイと身体が浮いた。
「本当に砦の前にいるとは……さすが姫様だ」
顔を上げると、良く知る顔。
ティフォはジェイドにガッチリと抱えあげられる。
(ジェイド降ろして! このままじゃ、みんなが!)
ジタバタと暴れて、その腕の中からティフォは逃れようとする。
と、その時――。
「そこにいるのは誰じゃ!」
松明の灯を向けられると共に、門の上から声が響く。
「親衛隊の方々、ご苦労様であります。キルケー宰相が息子、ジェイドです」
彼が老兵の門番に敬礼を返す。
「おお、確かにジェイド殿ではないか。しかし、何故ここにおる? 姫様の護衛をなされていたはずだが……」
「その姫様から大事な任務を賜りました。逃げ出した猫を連れてくるように、と」
彼はそう言うと、猫を高く掲げる。
「ははは、それは大事な任務だな」
「はい。すっかり姫様の猫の世話係です」
「ポートイルマに来る時の遅刻の理由も猫のためだったらしいしな……ふむ、姫様の猫か」
門番が思案顔となる。
「……すまぬが、ジェイド殿。その猫の世話係を譲ってくれぬか? 親衛隊には姫様への狂信者がいて、困っていてな」
※
「すまんな、ステラちゃん。少しばかり、ジジイ達の昔話に付き合ってくれ」
門番はジェイドに代わりの見張りを頼むと、黒猫を抱えて砦の中――先ほどケイが兵を集めた場所へと進む。
すると、そこは酒盛りの真っ最中だった。
焚火を囲んで、車座になって酒と保存食を具材にしたスープを温めながら、リズムの外れた下手な歌を大声で合唱していた。
「「「エーデルワイスの~花が咲く頃にゃ~♪ 娘っ子の――おや?」」」
しかし、その歌が止む。
門番が近づいてきたことに気づいたからだ。
「どうしたのじゃ? 交代の時間はまだのはずじゃぞ?」
「大変な問題が起きた」
そう言うと門番は座り込み、彼もまたその輪の中に加わる。
「大変な問題じゃと……?」
「これだ」
そう言うと、門番は連れてきた猫を見せた。
「これは……ステラちゃんではないか」
首元のネームプレートを、仲間の兵士が老眼の目を必死に細めながら、そこに刻まれた名前を読む。
「さすが姫様の猫じゃ……我らを心配して来てくれたのじゃ……」
ベルンが感激したように言う。
「猫畜生にそんな感情があるか。きっと食い物目当てで戻って来てしまったのじゃろ。全く迷惑な猫じゃ」
ブツクサと言いつつも、白い髭を蓄えた兵士が鍋の中から猫の分を取り分け、ティフォの前に置く。
「ガロア! 貴様! 畜生とは何じゃ! 姫様が大切にされている猫じゃ! 姫様が我らに心を砕く姿を猫が見習っていてもおかしくないじゃろ!」
ベルンが怒り、その白い髭を蓄えた兵士を怒鳴りつける。
「そうじゃのう、確かに姫様は我らに優しくしてくださった……出稼ぎ先で乞食兵士なんて言われていた我らを」
門番が猫を撫でながら、しみじみと言う。
その手つきは優しいものだったが、思わず猫は身体を固くしながら、耳をペタンと畳みながら俯いた。
「ははは、野良犬とも言われたぞ」
「わしは物乞い兵隊じゃったな」
「ハイエナとか言われたな、何でも死肉を喰らう動物らしいぞ。見たことないからさっぱり、分からんが……」
瘡蓋を剥がすような思い出話に一瞬、皆、黙り込み、パチッという薪が爆ぜる音だけが響いた。
「……じゃが、それは全部、事実じゃった。自分が生き残るため、家族の食い扶持を稼ぐため、お国のため……そう言い訳しながら、人様の家を焼き、家財道具を奪い、食糧を盗み、田畑を荒し、そして――誰かの父や息子、夫の命をわしらは殺めてきた」
「それに、たくさんの友の亡骸を打ち捨て、故郷に帰してやることもできんかった」
「友の亡骸どころか、そなたは右腕を、ベルンは指も持ち帰ることもできんかったしのう」
小さな傷の瘡蓋を剥がすことで、大きな傷の痛みを誤魔化す。
「戦場にいるときは、いつもステンベルクに帰りたいと思っておった……じゃが、ふと、我に返った時、帰るのがとても怖かった……そんな行いをしてきた自分が帰っていいのかと」
「わしも同じじゃ。他国の兵士達に何と罵られようが平気じゃった。じゃが、妻や子、それに亡骸を持ち帰ってやれんかった友の遺族達に、自分が知らんだけで陰口を叩かれているのではないかといつもビクビクしておった」
「実際、戦争で悪いことを覚えてきたんだろう、と言われたことがあったわ。わしは何も言い返すことができんかった。事実、その悪いことを覚えることで、わしらは戦場で生き延びてきたからなあ。故郷にいても、時折、戦場にいた方が気が楽なのではないか、そう思うことさえあった」
「……じゃが、我らには姫様がいた」
その門番の言葉に、膝の上にいる猫の耳が揺れる。
「わしらが出稼ぎ先で何をしているかは知っておられるはずなのに……毎回、何も知らないような無垢な笑顔で出迎えてくれてのう。わしらには聖女様に思えた」
ベルンは笑顔で大きく頷く。
「そうじゃ。その笑顔は、わしらの全ての罪を許してくれる……そんな聖女様に見えたものじゃ」
一見、耳触りの良い言葉。
が、しかし、猫は俯く。
「……ふん。どうだか。本当に姫様は何も知らん阿呆じゃったのではないか?」
ガロアが鼻毛を抜きながら言う。
その言葉通りだった。ステンベルクでは皆が知っているその事実を自分はずっと知らなかった。
ただ何も知らずに、みんなと会えることを、そしてお土産を当然のように待っていただけだった。
「ガロア! なんじゃと!? もう一度、言うてみよ!」
その侮辱するような言葉に、ベルンは怒る。
「姫様は聡明な方じゃ! 実際、見事、姫様のお力でポートイルマを手に入れたではないか!」
「それは反乱が起きたからじゃろ。戦いはグレゴーリ将軍の指揮、政治はキルケー宰相の入れ知恵ではないのか?」
「姫様と共に戦場に立てる。あの時、その喜びを皆で味わったではないか! それをそなたは忘れてしまったのか!」
「まあまあ、落ち着けベルン」
それを門番の老兵が宥めながら、続けて言う。
「もしかしたら、確かに姫様は何も知らんかったかもしれん……じゃが、この歳までわしらが生き残れたのは他ならぬ姫様のおかげじゃ」
俯いている猫の耳が恐る恐る広がる。
「姫様がお国で待っている……そう思うだけで、わしらは戦場で頑張ることができたんじゃ」
「幼い時から姫様は可愛くてのう、喜んでくれる姿が嬉しくて、それを楽しみに戦場を駆け抜けたものじゃった……気が付けば、女房よりも姫様に多く服を買ってしまったわ」
「姫様は不思議な人じゃ。この人の前では、良い人であらねば、手本になる大人でなければならない、恥をかかせてはならないと思わせる人じゃ……まあ、戦場においてそれは守ることはできんかったがのう」
「何を言うか。日常でも守れんかったから、わしらは親衛隊に任命されたんじゃろ。グレゴーリ様の言葉でピンとこなかったんか?」
「「「ははは~!」」」
男達が声を揃えて大笑いした。
「では、親衛隊の汚名返上のために、何としてもこの砦を死守せねばならんのう」
「そうじゃ、そうじゃ。我らの姫様への恩返しじゃ!」
ベルンが大きく頷く。
「ふむ。しかし、それには問題がある」
門番の老兵はそう言うと、胡坐の上に置いた猫をもう一度、抱え上げてみんなに見せた。
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