第三章 運河でスイスイ 11

 再び芝生の上に戻って来たティフォは、身体を丸めると目を閉じた。

 まるで小石が入った靴で歩くように、チクチクとする心を落ち着かせるために。

 が、いつまで経っても眠気が襲っては来てくれず、垂らした耳にバザーの喧騒が響いてくる。

 それは単なる雑音ではない。

 耳を澄ませば、その声が誰のものか一人一人をティフォは聞き分けることができる。

 ――……ゴンサロ、そうよ。お酒じゃなくて食器を買ってあげたらマルガは喜ぶわよ。ふふふ、リオンは孫が沢山いるからその分、玩具代が大変ね。セルヒは堅実ね、農作業の道具や裁縫道具を買い込むなんて。でも、たまにはライザに服でも買ってあげてもいいじゃない?

 大好きな人達が皆、嬉しそうで、チクチクとしたものが完全に消えたわけではないものの心が軽くなる。

 ――第一印象は、おっぱいを~とか叫んでいたからヤバい奴に身体を取られてしまったと焦ったけど……ケイは凄いヤツだった。そうよね、別にこのままでも――ううん、この方がいいのかもしれない。ケイにあたしの身体を託して、それをこうやって支える形で……。

 ティフォはそうやって心を苛むチクチクとしたものを吐き出してしまおうとした。

 と、その時、突然、頭を撫でられた。

 無礼である。

 いくら現在は猫の身体といえど、断りなしに頭を撫でられるのは好きではない。

 しかし、それを咎める気は起きなかった。

 何故なら、その撫でる手がとっても優しくて、そして、その手が歯の欠けた櫛で梳かれるように普通の人とはちょっと違かったから。

 ――……ベルン……。

 目を開けると、思った通り見覚えのある顔があった。

 彼は自分の隣に座り込んで、頭を撫でてくれていた。

 しかし、いつもは元気な顔が今日は少し寂し気で、撫でる手も力なかった。

「……ニャーーン」

『……どうしたの?』

 今の身体では直接そう言うことができない。

 だから、できる限り気遣うように鳴いた。

 それが伝わってくれたのだろうか。

 ベルンがポツリポツリと話し出す。

「……姫様がなあ、孫への玩具を選んでくださったんじゃ」

買ったばかりの木で出来た精巧な犬の人形をティフォの前に置く。

「じゃがな、わしは実はもうすでに犬の人形を姫様から頂いておるのじゃよ」

 彼はそういうと、もう一方の手で懐から、ところどころ彫られた跡のある流木のようなものを取り出した。

 犬の人形と言われても、確かに四足に見えなくもない枝の部分があり、顔らしきものが彫られているものの、それを犬の人形と見ることは難しかった。

 ベルンと、そしてそれを贈ったティフォ以外には。

 ――……懐かしい……まだ持っててくれたんだ……

 しかし、それを素直に喜べないのは、それが全く役に立たなかったからだ。

 犬の人形は単なる玩具や置物ではない。安産祈願の御守りなのだ。

「わしがこんな手になってしまった時にじゃな。その怪我のせいで戦場でいつもみたいに稼げなくてのう、そのせいで息子の嫁に栄養のあるものを食わせることが出来んかった。そのせいかのう、初めての孫は流れてしまったのじゃ。洗礼も受けさせてやれんかった」

 ティフォを撫でる手がよりいっそう優しくなる。

 まるで、その孫の分まで撫でるように。

「そしたらのう、姫様が『今度は絶対、大丈夫だから!』と言ってこれを下さったんじゃ」

 ティフォは思わず俯く。

 その今度の結末も彼女は知っている。

「しばらくしたら、また子を宿してくれたんじゃが、それも流れてしまってのう。その後は、二度も流れてしまったせいか、なかなか子を宿さなくてのう……じゃがまた、息子の嫁が子を孕んでくれたんじゃ。わしゃあ、嬉しくて、嬉しくてのう」

 撫でてくれていたその手が震える。

「そして今度は無事、生まれてくれたんじゃ。洗礼も受けさすことが出来たんじゃ。これも姫様がこの御守りを下さったおかげじゃ」

 ――それは……ベルンがその手で一生懸命頑張っていたからじゃない……。

 思わずその優しい手の中から逃げ出したくなるほどの息苦しさをティファは覚える。

 あの頃は何も知らないバカな子供だったから、ケイが彼に薦めた犬の人形と比べ物にならないような下手くそなものでも人にプレゼントすることができた。

 そして知った時には、自分は何もできない人間になっていた。後ろで人任せにして何もしない人間になっていた。

「じゃがのう、姫様はそのことを覚えてはいないご様子じゃった……わしは最近、姫様に優しくされて少々、浮かれておったようじゃ……」

 ――そんなことないわよ……ちゃんと覚えているわ……。

 ティフォはその思いを込めて、不細工な犬の人形へと手を伸ばす。

 しかし――。

「ああ……こらこら、これで爪とぎをしてはいかんのじゃ。これは、姫様から頂いた我が家の家宝なんじゃから」

 やはり、この猫の身体ではその想いを伝えることはできなかった。

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