第三章 運河でスイスイ 10

 俺は衝撃を受けていた。

 この異世界に来て数カ月経って、さすがに驚くことは少なくなっていたところに来た思わぬ一撃だった。

 姫様という身分もあり、今まで小売での買い物をしたことがなかったから、今頃になってその事実に吃驚した。

「姉さま、値札って何ですか?」

「…………」

 リーラが自然に首を傾げながら言った言葉に、思わず俺は絶句する。

 ね、値札を知らないだと!?

 いや、鉄砲とか蒸気機関とかの基礎技術の集積があった上での発明品を知らないというのは想定内であったが、まさかそんなものを知らないとは思わなかった。

 そ、そうか……この世界では、まだまだ物々交換が一般的であるし、物の値段は相手を見て決めるのが当たり前なのか……。

 俺達の世界でも未だに一部の地域では残っている商慣習がここでは、普通なのである。

「ええとね……元から値段を決めて、その価格を札に書いて商品に付けておくの。そうすれば買い物をする時に価格交渉をしなくてすむでしょ?」

 俺は、値札という概念がない相手にそれをどう説明すればいいのか悩みながら言う。

 0から1にする作業がもっとも難しいのだ。

「でも、姉さま。それでは売る側が高く売れなくて損ですし、買う側も安く買えなくて損することになるですよ?」

 その逆のパターンもあるのだが、損失回避の法則でやはりそちらの方が記憶に残っているらしい。

「しかも姉さま。みんな同じ値段で売るなんて、きっといっぱい損してしまうのです」

 そう、俺はプレゼントを全部、同じ値段の金貨一枚で売るつもりであった。

 俺達の世界の100均から得た発想である。

 といっても流通している帝国金貨一枚は元いた世界だと約十万円と百均とは違い庶民向けではないのだが。

「リーラ、確かにわたくし達は損をするかもしれません。でもね、その損をした分でわたくし達は時間を買ったと考えるの。わたくし達には正しく評価する鑑定学も、交渉術も学ぶ時間がないのですから。それに沢山、ご招待したのだから、そうやって工夫をしてお会計も素早くしないとならないでしょ?」

「はあ……時間を買うですか?」

 いまいち腑に落ちないという表情でリーラが言う。

「そう、時間が余れば、リーラともこうして一緒にいられるでしょ?」

「はい! なのです」

 値札の合理性に関しては半信半疑といったところだが、俺との時間が増えるということで納得してくたようである。

 と、その時――。

(待って、ケイ!)

 そんな念話と共に黒猫が凄い勢いで部屋に飛び込んできた。

(ど、ど、ど、どうしたんだ? ティフォ)

 いや、その必死な様子をみれば、あれしかないよな?

 あの温泉での夜の事――泥棒猫未遂で終わったにしろ、ついにバレてしまったかと俺は身体を固くする。

 しかも、その緊張は感情の機微が隠せない念話でティフォにも伝わっているハズで、自白してしまっているようなものだ。

(い、いやな? やる前のことだし――)

(――だからこそよ。バザーというのをやる前なんでしょ?)

 しかし、そんな俺の動揺など今のティフォにとってはどうでも良いようで、勢いのままに話を続ける。

(お願いがあるの! 今すぐに招待状を書いて! それに銀貨一枚ほどの玩具や食器、反物や子供服、婦人服、持って帰れる食べ物も並べてあげて!)

(……へ?)

 思わず変な声が出た。

 ティフォがここまで必死になるものが別のことだと気が付いて。

(突然で大変なのはわかってる! でも、絶対にしたいの!)

(わ、わかった)

 その別のことが具体的に何なのかは良く分からなかったが、俺はとりあえず頷く。

「リーラ。ジ、ジェイドを呼んでちょうだい。調達してもらいたいものがあるの」

 そして、平静を装いながらそう言った。


 ※


(ケイ、テーブルクロスをもっと右に、あたしが反対側から引っ張るから)

(え? 大丈夫なのか?)

(それくらいなら、今のあたしでもできるわよ)

 急遽、バザー会場の片隅に俺達で新たに作った陳列台。

 そこに陳列するのはティフォの指定を元に、急遽、ジェイドが仕入れてきた生活雑貨を中心とした品々。煌びやかな宝石やドレスが並ぶ中では異質な品揃えだ。

 値段も安い。他の商品は金貨一枚なのに比べて、この台に並ぶのは帝国銀貨一枚――元いた世界だと3000円ほどのお値段。

 当然、その値段差は反映され、周囲の高級品が並ぶ中では見劣りする品々だ。

 案の定、他のテーブルの上が瞬く間に空になっていく大盛況の昼を過ぎ、そして人が疎らになった夕方になっても、その台の上だけは多くが売れ残っている。

「姫様、大盛況でしたね。我がドホーレ商会から姫様へ送ったプレゼントの品々も朝のうちに全て売り切ることができてよかったです」

 以前、宴で俺を口説こうとしていた御曹司が早くに完売したことを強調しながら言う。

「はい、皆さまのおかげで寄付金が大分、集まりました」

 俺は、大変、嬉しそうな顔を作りながら言葉を続ける。

「あらためてプレゼントをありがとうございました。わたくしに似合いそうな品々なのですが、国許の恵まれない子供達を思うと……」

「いえいえ、お気になさらずに。そんなお優しい姫様のお手伝いができたかと思うと私も光栄です」

「そういって頂けると助かりま――あら?」

 空になった商品台の向こう――行政府の入り口。

 そこから、こちらを伺ういくつも人影が見えた。

(ケ、ケイ! 連れてきてあげて!)

 彼らにも招待状を送ったにも関わらず、なかなか顔を見せてくれず中庭の周囲の芝生をグルグルと何度も周回していたティフォがそう念話を送りながら、走り出す。

「……失礼します。わたくしの宝石達が来たので。ただ普通の宝石と違い、戦場で磨かれてきたのでこういう場では遠慮してしまうんです」

 俺も一礼すると、ティフォの後を追う。

 そして、その彼らの前に来るとピンと背筋を伸ばした敬礼で出迎えられる。

「……ひ、姫様、そ、その……本日はこ、光栄であります」

「そもそも、その前に姫様の誕生日の祝いの言葉をいうべきじゃ」

「いや、来る時間が遅くなってしまったことを詫びるのが先じゃ」

 早速、その胸に縫い付けられた親衛隊の証が効いているようである。

 しかし、今はそれは余計なものだ。

「お待ちしていました。さあ……」

 そして、その人影の先頭にいたベルンの激しく磨かれたために指が欠損した手を取るとバザーの会場に向けて歩き出す。

 その後ろにゾロゾロと親衛隊の兵士達が続いていく。

 そして、彼らを案内する。朝、ティフォと一緒に造った商品台の前に。

「本日はわたくしの誕生日会に集まっていただいてありがとうございます。バザーを開催しておりますので、どうぞお買い物をお楽しみください。ここにある商品は皆、銀貨一枚になります」

 並べられた玩具や食器、反物や子供服、婦人服、食べ物、それに加え、ジェイドが気を利かせて買ってきた生活雑貨を中心とした品々、それらを見て兵士達は目を輝かせる。

「……あ、ありがとうございます、姫様」

「……姫様、大変、嬉しゅうございます」

 そして、感極まった声で兵士達にそう言われる。

「そ、そうですか。喜んでもらえて、わたくしも嬉しいです」

 想像以上の反応で、ちょっと俺は戸惑う。

 俺は、ティフォに言われたままに行動しただけだ。

 ティフォの彼らを思う気持ちは本物だから、多分、彼らにとって良いことなのだろうぐらいに思っていた。

 実際、俺は陳列を手伝ったものの、何故そんなラインナップなのか分からなかった。

 が、すぐに意味を悟る。

「では姫様、早速、孫へのお土産を買わせていただきますじゃ」

 ベルンが目を細めながらに商品台の玩具を眺める。

 そうか……。これらの品々はステンベルクに帰国する時の、子や孫、妻達へのお土産なのか……。

 そう思うと代金を取るのが、何だか申し訳なく思えてくる。

(……ティフォ。これを彼らへのプレゼントにすることはできないかな? お金を取るのではなく)

 俺は、隣で尻尾を立てて小刻みに揺らしているティフォに念話で聞く。

(……それはダメよ、ケイ。そのお金はみんなが命を懸けて稼いだお金なの。そのお金で買ったプレゼントだから意味があるの。安全な場所にいただけの、あたし達がポイとプレゼントとしても……それは……ううん、違うわ。ケイは頑張ってたわね)

 ティフォはそう言うと、耳をペタンと垂らしながら、どっかに行ってしまった。

 猫が構って欲しくない、一人になりたい時の仕草。

 久しぶりに元気な姿を見れたと思ったのに、また彼女らしくない姿になってしまった。

 しかし、彼女の言いたかったことは何となくわかった気がした。

 正当な代価を貰わないというのは、それは一見、良い事に見えて、歪な関係を作る行為である。

「ベルン、この犬の人形などどうでしょう? 」

でも、まあ、選ぶお手伝いをするくらいならいいだろう。

俺は木で出来た犬の人形を彼に差し出す。

「……姫様、犬の人形ですか」

 ベルンがパアッと顔を輝かせる。

「はい。これならばお孫さんへの初めてのプレゼントにピッタリです。お孫さんの良いお友達になれると思いますよ」

俺もまた、笑顔を作りながら言う。

しかし――。

「……。……初めてのプレゼント……ですか」

 その皺くちゃの顔に浮かんでいた笑顔が萎む。

 俺に気を遣って、露骨ではないものの、がっかりしたような表情となる。

 ……あ、あれ?

 美しい美少女になって以来、笑顔で話かけてそんなリアクションをされたのは初めてだったので俺は戸惑う。

 最初は好感触だっただけに特に。

 ……猫派だったのかな?

「ありがとうございます……いただきますのじゃ」

 ベルンは不器用な笑顔でそう言うと、頭を下げた。

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