第三章 運河でスイスイ 3
「……!」
思わずジェイドの背筋がピンと伸びた。
それというのも廊下の向こうから歩いてくる父の姿が見えたからだ。
時刻は昼時。
城の者達から時計代わりにされている父のキルケーの一日のスケジュールをジェイドは知っている。
午前中の政務を終えて、城の中で与えられている宰相の私室でこれから息子の嫁――ジェイドから見ると兄嫁と一緒に昼食を取る予定だろう。
すれ違う直前、ジェイドは敬礼をする。
城の中では、父と子ではなく宰相と兵士。そう教えられている。
それを寂しいと思う一方、公私の区別を厳格にする父の事を彼は誇りに思っている。ただ最近は、息子の嫁という例外が出来たが。
今日もいつも通り敬礼する息子の横を無言でスタスタと去っていく――そう思っていた。
が、何とその足が止まった。
「……ジェイド、私が何と呼ばれているか知っているか?」
もちろん、知っている。
そして、それがどちらかといえば、好ましい意味ではないことも。
「……冷血宰相と」
しかし、父が阿る言葉や美辞麗句、何より嘘を嫌うのをジェイドは良く知っている。
だから、素直に答える。
「良いあだ名だな。そのお蔭で我が家には滅多に賄賂が届かなくなった」
キルケーは息子の言葉に頷く。
「それに、誰が最初にそう言い出したのかは知らんが、良く私を見ているではないか。雪深く冷たい地の宰相が、これもまた冷たく血の通わない様子で淡々と法と慣習に則って政務を進めていく……小国のステンベルクが生き残るにはそれしかないと思っていた」
ジェイドは敬礼を崩すタイミングを失ったまま、不思議そうに父を見つめる。
父がそんな風に語り出すのは初めてだった。
しかも、公私を別けなければならない城の中で。
「そんな風に、私は自分の欠点を自覚しているつもりだった。だが、そうではなかったようだ。それを我が君に教わった」
「……姫様……ですか?」
急に背中に冷たい汗をかくのをジェイドは感じた。
後ろめたいことがない訳でない。
迫った後に拒否されて、気まずくてのぼせたふりをしたことは未だに強烈に記憶に残っている。
話の流れからすると、そのことを姫様が父に話したわけではないようだが、最近、彼女に避けられていることもあって、思わず身体が反応してしまう。
「そうか、姫様か……」
昔を思い出すように、キルケーは白い髭を撫でる。
「本来は私も姫様と呼ぶべきなのだろうな。だが、自覚を持ってもらうために我が君と呼び続けたことが良かったようだ」
冷血宰相は教え子が旅立っていくのを見守るような、優しくもどこか寂しげな表情を浮かべる。
「国王陛下の血を引く姫様は確かに大器であった。そして私は、自分の才を活かせぬ雪深い小国の宰相ではなく、単なる器の小さな宰相であった」
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