第二章 湯煙殺人未遂事件 7

 未だに動悸が止まらない胸。

 それを宥めるように手を当て、平静を装いながら俺は口を開く。

「……ジェ、ジェイドはどうしてここに? こんな夜更けに、温泉にいるなんて……びっくりしました」

「自、自分の方こそ……び、び、びっくりしました。突然、姫様が服を脱ぎ始めて」

 そ、そんな、ところから見られていたのか。

 身体をお借りしている身の上としては、決して言えない秘密が出来てしまった。

「も、もう……声をかけてくださればよかったのに」

「す、すいません」

 こういう時、女は強い。

 突然、目の前で脱ぎ出したとしても、相手の方が悪い雰囲気に出来る。

 それを利用したようでジェイドには申し訳ないが、俺は少し冷静さを取り戻す。

 そりゃあ、まあ……自分が裸で温泉に入っている時に、いきなり目の前で女の子が脱ぎ出したら制止しにくいわな。

 マンガとかアニメだと、そのシチュエーションで主人公がラッキーとか思っていたりするが、現実ではそれどころではない。社会的に抹殺されかねない危機である。

「自分は昼間、汗をかいてしまったので……」

 結果的に覗き見になったことには触れられたくないのか、ジェイドは話を元へ――こんな夜更けに温泉に入っている理由へと戻す。

「そうなのですか。実もわたくしもです」

 俺は一際、明るく言う。

「いえ……姫様と違って、自分は汗っかきで汗臭いもので」

「あら? そうなんですか。ふふ、それも同じですね。実はわたくしもなんですよ」

 それは自分にも思い当たることだった。

 といっても、今のこの身体ではなく、前の身体の話だ。

 俺もまた汗っかきで、シャツに塩を吹かせていたものだ。

 まあ、俺のは運動からではなく、厚い脂肪からくる保温性のためだけど。

 原因は違えど、イケメンでも同じ悩みを抱いていたことに親近感が湧く。

「汗臭くたって、良いではありませんか。それはジェイドが頑張ってくれた証なのですから。わたくしは全然、気にしませんよ」

 それに臭いといっても、工業廃水とまで言われた俺の汗臭さとは違うだろうし。

 俺は、自分のその言葉を証明するかのように、大きな背中に自分の背中をちょっとだけ重ねた。

 するとジェイドの背中が強張ったのがわかった。

 彼の緊張が伝わってくる。

 俺もまた全然、冷静ではなくて、そんなことをした自分の大胆さに驚きつつも、しばらくそうやって背中を重ね、互いの息遣いだけを感じ合う。

 心地良い沈黙があるということを俺は初めて知った。

「……姫様」

 どれくらい経っただろうか、突然、ジェイドが口を開く。

 いつもの『姫様』とは違う口調。

 何かしら決意を秘めたような、そんな重い想いが込められている感じである。

「……一つ、聞いても良いでしょうか?」

 それが重要な質問であることは想像に難くない。

 自然と俺の背筋がピンと伸びる。

「なんでしょうか?」

「……姫様の御心をお聞かせください」

「わたくしの心……?」

「そうです。姫様は蘭皇子のことをどう思っているのでしょうか?」

 ジェイドは一旦、深呼吸を挟み、頭の中を――言葉を整理する。

「……私見ですが、リーラが皇子の容姿について批判した時、姫様は単なる婚約者が批判された以上の反応をしたように見えました」

 よ、よく見ているな。

 ジェイドは、いつもティフォのことを――今は俺のことを見ているから当然か。

 俺がそんな風に考えている間にも、ジェイドは急いているように言葉を続ける。

「……そして、姫様と皇子の間には何か大きな秘密があるように見えました」

 俺の鼓動が大きく跳ねる。

 そして、先ほどの胸が弾むようなドキドキとは違う、胸が締め付けられるようなドクドクという音を奏でる。

 ……まさか俺の正体が……姫様の身体にいるのが俺だとバレたのか?

 いや、バレないにしても、何か手がかりを――違和感に繋がるものを感じたのか?       

 もしかして、俺の身体基準で汗っかきと話したのが不味かったのか?

 俺の本当の身体が実はあんな醜い身体だと知られる。

 そしたらもう二度とジェイドは、今までのように優しくは接してくれない。

それは……とてつもなく嫌だ。

「……姫様、お聞かせください。その胸に隠し持っているお心は何なのですか?」

 改めてジェイドがそう言う。

 その質問の答えを聞くまではこの場から離れない、離さない固い意志を感じさせる口調で。

 落ち着け……落ち着け……落ち着け……落ち着け……落ち着け……。

 落ち着け……落ち着け……落ち着け……落ち着け……落ち着け……。

 体内に響く心臓の音を木魚にして念仏のように唱える。

 ともかく今はこの場を何とか凌ぐことを考えないと……。

「……ジェイド、聞いて下さい。わたくしのこの胸の中にあるのは――」

 自分の胸に手を当て、ガラス細工のように脆く繊細で、初雪のような儚く弱々しい自分の姿を意識し、彼にその雰囲気を感じ取らせながら俺は言葉を続ける。

「――ただ、あなたを慕う、誠実な心があるだけです」

 安禄山の言葉をパクってアレンジした台詞。自己演出も完璧である。

 よ、よし! ここまでピュアな乙女の感じを出せば、ジェイドも追及し辛いハズだ。

 俺は恐る恐る背後の気配を伺う。

 すると、ビクッとその大きな背中が震えた。

「……姫様……」

 そして、温泉よりも熱い熱情を秘めた声でジェイドがそう言う。

 ……あ、ミスった。

 理性よりも本能で自分の失敗を悟ったような感じだった。

 確かに秘密を誤魔化すことには成功した。しかし、その手段が不味かった。

 これが乙女ゲーの攻略ルートだとすれば、言葉の選択は正解だったと思う。

 ただ、これは乙女ゲーではなく現実であり、さらにティフォに身体を借りている身の上で、ジェイドの好感度を上げつつ、かといって、一線を越えてはならないという、無駄に引き伸ばされたラブコメみたいな状況を維持していかなければならない条件下では、そのバランス感覚を欠いていた。

「……姫様……」

 もう一度、ジェイドがそう呼ぶ。

 そして、その声と共に温泉の水面が大きく乱れた。

 見なくともわかった。

 ジェイドが振り向いたのだ。

 お互いに背中同士でいるという言葉を破って。

 彼がどういう状態なのか――何を求めているかは、容易に想像がついた。

「……ジ、ジェイド、いけません。わたくしのこの身体は結婚するまでは神に捧げているものなのです」

 まだまだ神権政治が色濃く残っているこの異世界で、この言い訳はかなり有効なハズだ。

 王権神授説が成り立っている世界なので、貞操観念への宗教の影響もまた強い。

 実際、姫騎士にも通用したしな。

 しかし、浴場で欲情してしまっている彼には、その高ぶりを洗い流すのは無理なようだった。

「何がいけないというのです。自分の……この自分の気持ちを神が否定するというのなら、逆に自分が神を否定します」

 サクッと神をサクリファイスするジェイド。

 お前、一神教なんだから、もっと神様を大事にしろよ!

 童貞を捨てるために、そんな大事なもの棄てちゃダメだろ!

「むしろ、今すぐにでもそうしたいくらいです。そうすれば、神の下から姫様を取り返すことができるのですから」

 俺は思わず息を飲む。

 こ、これか……これなのか!? 俺が生前に足りなかったものは!?

 この神をも畏れぬ強引さ。

 それがなかったから、生前、俺は童貞を捨てることができなかったのか!?

 俺は神どころか警察さえ恐れていたというのに。

 そ、そうだ。過去の俺がやったとしても事案が発生になるだけだぞ。

 生前の俺にもっとも足りなかったこと。

 言い換えれば、強引さが許される条件。

 それは――。


 顔と言動。


 容姿だけでないところに、自分自身の成長を俺は感じた。

 そして、そんな残酷な事実を思い出して、少し冷静になる。

 が、止まらない現実は迫ってくる。

「……姫様……」

 最後に止めを刺すように、ジェイドがそう呼ぶ。

 そして、湯の中で手を絡められて、強引に振り向かされる。

 月明かりの薄暗い中でも、ジェイドがはっきりと自分を見ているのがわかった。

 ……いや、違う。

 ジェイドは見ているのは俺ではない。

 俺の今の身体――ティフォの姿だ。

 美少女ゲームでヒロインの女の子が本当に見つめているのは、その物語の主人公であって、画面の向こうで『俺の嫁!』と言っているプレイヤーではないように。

 ジェイドは俺へと手を伸ばすと、そっと前髪を手で捲り上げて覗き込む。

 本当の俺でない顔を。

「……よかった……ずっと、気にしていました。後悔していました。貴女に傷跡を残してしまったのではないかと」

 俺の知らない二人の時間。

 ジェイドとティフォの思い出。

 ……あ? あれ……? どうしたんだ、俺……?

 上手くそれに合わせて対応しなければ、正体がバレるかもしれないというのに、今は一時凌ぎの言葉さえ出てこなかった。

 あれほど高鳴っていた鼓動が、今は静まりかえっている。

 胸に、切ない痛みを伴って。

 自分が本物のティフォだったのならば、決して起こらない痛み。

 それは紛れもない俺自身のもの。トキメキとは正反対のもの。

 ……俺はその痛みで、やっと矛盾を成り立たせているものの正体知った。

 ああ……俺は鈍感系の主人公とは違うと思っていたのに、自分のこととなるとさっぱりだったのか……。

 と、その時――。

「ね、姉さまーー!!」

 山に幼さを残す少女の声が木霊した。

 ……ま、まずい。

 この夜は二人の秘密にしなければならない気がした。

 ティフォに対して、俺は話すつもりはないし、ジェイドも口止めすれば守ってくれるだろう。

 だが、リーラはこのことを事ある毎にチクチクと針のように刺してくるだろう。

 俺は思わず――。

「ひ、ひめさ――グホォ!」

 目の前のジェイドの後頭部を掴むと、そのまま湯の中に沈める。証拠隠滅である。

 そして、聞き耳を立てる。

「うみゃ、うみゃ……姉さまがパンツになってはダメなのです!」

 どうやら未だに夢の中のようだ。

 俺はホッと胸を撫で下ろすと同時に、リーラが羨ましくなる。

 好きな人と一緒にいられる夢の続きを真っ直ぐ過ぎるくらいに素直(婉曲表現)に見れることが。

 ふと、手にポツポツと泡が当たる感触に俺は気づく。

 ……ん……炭酸泉?

 いや、そうではなかった。

 目を俺の手元に移すと、そこには湯煙殺人未遂事件が発生していた。

「ジェ、ジェイド!」

 俺は慌てて、彼を温泉の中から引き揚げた。

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