第二章 湯煙殺人未遂事件 6

 その日の夜。

 変色しなかった卵を食したディナーは終えて、床についた後。

「……すぅ……すぅ……ううん、リーラはいつまでも姉さまと一緒にいたいのです。ですから、姉さまのパンツにリーラはなりたいのです」

 見つけた源泉の近くに設営したテントの中で、俺は密かに目を開ける。

 そして、隣でユングとフロイトが共同研究しそうな夢を見ているメイドの少女の眠りを確かめる。

 うん。ティフォもいつまでも一緒にいたいと願っていると思うけど、別にそんな小さな布にならなくてもいいんじゃないかな?

 それはともかく――。

 ……よし、ぐっすりだ。

 その小さな身体での山登りはきつかったのか、深く眠りに落ちている。

 俺は慎重に、ライナスの毛布を抱くがごとく、自分の身体に巻き付いているメイドの少女の手を解く。

 そして、静かにゆっくりと這いずるように、テントから出る。

 さ、寒い。

 昼間着ていたものと同じ重装備の恰好のままだが、昼間とは比べ物にならないほどの夜の山の冷気に襲われる。

 が、それもしばらくの我慢だ。

 俺は月明かりの下、足元に気をつけながら川に近づくと、屈みこんでそっと水面に手を沈める。

 ……うん。丁度良い温度だ。

 昼間、目を付けていたスポット。

 川が湾曲し、緩やかな流れとなっている岸辺の近く。そこはちょうど源泉から湧き出ているお湯と川の水とが混じり合い、良い湯加減となっている。

 温泉を見れば、俺の日本人の心の遺伝子に刻まれたお風呂への本能が呼び覚まされる。

 それを存分に満たすために、俺は急いで服を脱ぎ、風で飛ばされぬように念のために畳んだ衣服の上に大きめの石を乗せると、その天然のお風呂の中にその身を沈めた。

「ふふ、ふふふーん♪」

 久しぶりのお湯を全身に浸かる感触に、自然と鼻歌が出てしまう。

 普段は一週間に一度くらいの頻度で桶にはったお湯で身体を拭くことぐらいしかこの世界に来てからできなかったから尚更であった。

 無論、王族の権力を行使して毎日、お風呂に入ることは可能だろう。

 しかしそれは、俺の日本人の心の遺伝子に刻まれた卑屈なまでの謙虚な心が躊躇わせる。

 そんなわけで、『湯水のように』の慣用表現通りに心置きなく湯水を使える今の状況は、わざわざ深夜にテントを抜け出した価値のある至福の瞬間であった。

「ふふ~ん♪」

 鼻歌を奏でながら、お湯の中で寝転んでその浮力を利用してプカプカと身体を浮かせる。

 背中のポカポカとした湯加減と胸に当たるヒンヤリとした冷気との差が妙に心地良い。

 お湯に浸された髪が乱れ、まるでタンポポの花のように広がる。

 マナー違反ではあるが、今はそれを咎める者はいない。

 その――ハズだった。

 そんな風に身体を浮かべて揺蕩っていると、コンと頭に何かが当たった。

 岩にしては柔らかい。土にしては固い。

 何だろうと思って、その姿勢のまま視線を上へと移す。

「……あ、あのお……その……姫様、こんばんは」

 そこには大変、申し訳なさそうなジェイドの顔があった。

「ふん!? ふーーふん!? ふふふん!?」

 俺は、乱れた鼻歌を最後の汽笛としながら、湯の底へと沈没していく。

「ひ、姫様!」

 が、ジェイドに必死にサルベージされ、何とか溺れることは免れた。

「姫様、だ、だ、だ、大丈夫……でしょうか?」

 ……大丈夫ではなかった。

 救助された――後ろから抱き上げられたことによって、自然と二人の距離が零になっていった。

 産まれたままの今の自分の姿。それを隠すのはイチジクの葉よりも心許ない、夜の帳と湯煙だけ。

 やけに澄んだ耳から聞こえてくるのは、ドクンドクンという胸の高鳴り。

 ……お、女の子って、こんなにドキドキするものなのか!?

 俺は彼の腕の中で動くことが出来ず、自分でもわかるほど顔を真っ赤に染めたまま固まってしまう。

「ひ、ひ、ひ、姫様。じ、自分は……先、出ますので」

 ジェイドは慌てて俺から手を離すと、湯の中から出て行こうとする。

 が、しかし――。

「外は寒いですから……しばらく、このまま一緒に温まっていきましょう。ほら、こうして背中同士ならば見えませんし」

 俺は後ろ手で、ジェイドの手を掴み、引き止めてしまった。

 彼の足が止まり、ゆっくりと再び温泉の中に戻ったのが、背中越しに感じられた。

 ……お、お、お、俺は何故、ジェイドを引き止めた!?

 咄嗟に出た自分の行動に俺は混乱していた。

夜目が効かず、偶然、温泉で全裸で鉢合わせてしまった事故。

 それを互いに何もなかったかのように処理するなら、ジェイドの申し出はありがたいことだった。

 ……なのに、俺は引き止めてしまった。

 その矛盾を生んだもの。

 それを俺は今、知りたいと思い始めている。

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