杯
レオスが叔母様を呼びに行くといって、部屋から居なくなってから、どれくらい経っただろうか。ほんの少しだけの時間でも心細く感じてしまう。ほんのさっき会ったばかりだというのに。
でも今度は、永遠にひとりぼっちになってしまうのではないかという恐怖感は不思議となかった。実のところ頭の整理のために独りにさせてくれて助かったくらいだ。
頭の中に紫色の靄がかかったように、何も考える事ができないまま、手の中の自分の髪を見つめる。
引っ張ってみても痛いので、本当に出来のよい夢だと、思うことにした。そう暗示をかけないと何かが壊れてしまいそうで──これは自己防衛のために。決して現実逃避をしているわけではない。多分。
ここに来て、人々と会うたびに少しずつ、夢か現かその境界線が揺らいでしまっているような感覚がする。夢が現実を侵食するなんて話は、聞いたことがない。あり得ない。そう、これは夢。昨日読んだ物語──。そう自己暗示をかける。
( もしかして、なんて考えるのも怖い。だって、夢の番人さんて人がいるくらいだし、夢のはず……。え、でも、私がエレーヌという名前で、双子の弟がいるというのはどうして納得できているのだろう……? )
「 エレーヌ、エレーヌという名前は『オルフェリアの希望』にでてきた主人公のお姉さんの名前のはずなのに……。彼女は双子の弟がいて、それにさっきの子の特徴だって── 」
口に出して、頭を整理しようとする。私は、小さい頃から感受性豊かで、夢もよくみるから、今は物語に夢がつられてしまっているだけ。
無意識のうちに、本で読んだ言葉や登場人物が夢に影響を与えている。潜在意識とかそんな言葉があったはず。大丈夫。これはただの夢。
──どうも違和感がある。
再び、自分の置かれた状況と自分の居場所がどこなのか考えようとすると、突然頭が痛くなる。器が焼かれているかのように熱い。それでいて、プシュケーは極寒の海の中に漬け込まれているかのように寒い。
「エレーヌ、アーティ叔母様とエディ兄様を連れてきた、よ……!?エレーヌ? 」
「 エレーヌ、どうしたの? そんなに震えて、叔母様!はやくエレーヌを診てください。お願いします 」
「エレーヌ、エレーヌ。落ち着いて、私は君を害さないよ。背中にふれるね。まずは私の声に合わせて息をすって──、はいて──」
二人の新しい声がした。過呼吸の状態で視界はぼやけているが、そのうちの初対面と思われる、優しそうな女性が私の背中を撫でてくれる。その撫でてくれている手からは、人のぬくもりとあたたかさを感じだ。自然と安心感が湧いてくる。だいぶ息もしやすくなってきた。
「エディとレオスは少し外に出ていてくれるかな? 心配なのはわかるけど……ほら、泣かないで……。また、呼びにいくから、ね 」
少年二人をその場から退出させ、女性はどこからか出してきたのかわからない、小さな杯をそっと私に差し出してきた。私の警戒心を解くように一定の距離を保ちつつ、尚且つ視線は自分は味方だと訴えかけている。
「 エレーヌ、私は貴方の叔母のアーティ。貴方の主治医をしているの。これはお薬。飲めるだけでいいから、飲んでみて。杯の中身は、果実を絞って甘く煮詰めたものよ 」
差し出された杯を両手で受け取る。金色の杯のなかで、とろりとした薔薇色の液体が私を誘うように揺れている。夢の中で何かを飲むことは今までになかったけれど、不思議と魅惑的に感じた。
美味しそうと思い、疑いもせず操られているかのように杯に口をつけて、言われた通り飲み干した。甘ったるいのかと思っていたけれど、酸味が効いていてすっきりとして飲みやすい。
「 きれいに飲めたわね。うん、震えもおさまってきた。 ≪混乱≫ を起こさなくてよかった。……あのね、エレーヌ、貴方は今、器とプシュケーが不安定なの。頭の中がごちゃごちゃしているのよ。でもね、だんだんよくなっていくから心配はいらないわ。それに、もしも、怖いことがあったら怖いって言っていいのよ 」
私が飲み干したところをみて、安堵した表情をみせる彼女は、左右の色が異なる眼をしていた。
先ほどの、割れるような頭痛も、訳がわからない熱さと寒さも和らいでいる。今は熱が下がってきた時のほわほわとした感覚に似ている。むしろ心地よいくらいだ。
彼女──アーティ叔母様。どこかで見たことがある気がする。そんなこを考えていると不思議なことに、私が中身を飲み干した杯はいつの間にかなくなっていた。それに驚きもせず、さも当然とした佇まいをした目の前彼女は、いまだに状況を飲み込めない私に微笑むと、外にいる二人を部屋のなかへ呼び寄せた。
「 エレーヌ、これから貴方の家族や住んでいる場所とかの身の回りのことを一度お話ししようと思うの。頭の中を整理しましょうね。そうしたら、器とプシュケーの安定にも繋がるわ。記憶を少しでも呼び覚ます準備をしましょう。……ここにいる、貴方の二人の兄弟と一緒にね 」
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