第3話
12月22日、午後11時15分。
福岡県北九州市・
繭子はターミナルビルの待機所から、自分を渋谷へと運んでくれる真白な客船を眺めていた。
船は丸一日掛けて神奈川県の横須賀フェリーターミナルまで行く。
既に三時間かけて、電車で北九州市まで来た繭子達。しかし高揚感のせいか疲れは全く感じなかった。
出発間近のアナウンスに立ち上がる二人。
寒空の中、船に乗り込もうと連絡通路を歩いていると、遥か上空の暗闇の中に東京方面へと飛んでいく飛行機が見えた。
「……ねえ、晴ちゃん。なんでフェリーにしたの?」
黒リュックを背負った晴樹が振り返る。
晴樹も上空を見つめ、赤く点滅しながら去り行く便利な乗り物を見送った。
「……楽しい時間は、たくさんあった方がいいと思って」
「楽しい時間?」
「そう。俺たちは丸一日以上も時間を掛けてアイドルに会いに行く。それは一日中「好き」を考えていられる時間って事になるじゃん? それって、最高じゃね?」
「……!! その通りだわ!」
深く納得した繭子に晴樹は微笑んだ。
乗船し、その日は遅い時刻だったためすぐに眠りについた二人。
夜が明けて、繭子は窓から空の明るみを確認すると、ダウンコートを羽織り甲板へと向かった。
そこには朝日に朱色に染まる雄大な海が広がっていた。
風の冷たさに鼻がツンとして、思わず涙が出そうになる。
「綺麗な朝……」
日之影では見れなかった風景。
出不精で、旅行もほぼしたことがなかった繭子。
自分にこんな行動力があるとは思わなかった。
――好きって凄い!
心浮かれて『わーるど☆ぱい』の曲の中でも朝にふさわしい爽やかな曲を口ずさんでしまう繭子。
――楽しい。
なんて、楽しいのかしら!
朝日に照らされた繭子の表情は、胸をときめかせるうら若き恋する乙女の様だった。
その後は、晴樹と一緒に海を眺めたり、『わーるど☆ぱい』の曲を聴いたり、船酔いした晴樹を介抱したりしていると、あっという間に船は神奈川県三浦半島までやって来た。
船は予定通り、12月23日の夜21時に横須賀フェリーターミナルへ到着した。その日は横須賀のビジネスホテルに泊まる。
流石に繭子も少し疲れて、翌日は朝十時過ぎまで寝てしまった。
早起きが得意だった繭子。寝坊した自分に驚いた。二人は遅めの朝食を食べると、渋谷まで電車を乗り継いで行く。
繭子は渋谷のハチ公前に辿り着けば、ただただ、口をポカンと開けて周囲を見回す。
そこは日之影と全く別の世界だった。
(ひ、人が、こんなにたくさん!)
こんな騒がしい所、到底一人では来れなかった。
人の波に圧倒され、思わず不安になり晴樹に寄り添ったが、見上げると晴樹では無い見知らぬ中年だった。中年は繭子を不快そうにジロリと睨みつけると歩き出した。
「……え? 晴ちゃん?!」
繭子は辺りを見回す。晴樹が見当たらない。
「晴ちゃん……! 晴ちゃーん!!」
繭子は辺りを晴樹の名を呼んで探し回る。
周囲を探したつもりが、気が付けば自分もどこに居るのか分からなくなっていた。
すでに駅も見えず、繭子は高架下のトンネル付近を
繭子は震える手でガラケーを取り出すと、晴樹に電話する。
晴樹はすぐに出た。よく見れば着信履歴が何件も入っていて、最初の時点で電話をすれば良かったと繭子は今になって気が付いた。それだけ動揺していたのだ。
『繭子さん! どこに居るの?!』
「私もわかんなくて……どこかの高架下に居るんだけど……」
『なんのビルが見える?』
「わ、分かんない」
『交番ある?』
『えっと、無いけれど、コンビニが……」
「あ! いたいた!!」
電話越しでは無い晴樹の声が、背後から聞こえた。そして、ギュッと手を握られた。
「びっくりした! 急に居なくなるんだもん!!」
繭子も驚いた。手を握られる。最後に異性に握ってもらったのはいつだったか。
夫が亡くなるときだったかもしれない。
晴樹はそのまま、繭子の手を握ってアイコン☆カフェまで連れて行ってくれた。
――渋谷で、男の子と手を繋いでライブに行く。
ハラハラドキドキの連続。
ネオンの輝く摩天楼を見上げながら、繭子はにやける頬をミトンの手袋で隠すのが精一杯だった。
◆
アイコン☆カフェ控室。
香住はピンクのミニドレスを着て、更衣室に取り付けられたアナログ時計の秒針をただただ眺めていた。
――今日は解散発表をする日。
しかし、香住はまだ自分の身の振り方が分からないでいた。
歌は好きだ。
でも、歌うだけじゃ生活は出来ない。由紀菜と麻美を失い自分一人で、歌手として続ける自信もない。
だからと言って、歌う以外に何も取柄もない自分が、それ以外の仕事をするのも考えられない。
何の仕事をすれば良いのかも分からない……。
その時、会場にオープニングテーマが流れ始めた。
由紀菜と麻美が香住の前へやって来た。
「最後のステージ。最高のパフォーマンスにしよう!!」
由紀菜が手を差し伸べた。その手に麻美が手をのせる。まだ心に迷いがある香住は戸惑いながらも、今はライブを成功させようと決心し、手を乗せた。
「いくぜ! 『わーるど☆ぱい!』」
スマイルを顔につけた由紀菜と麻美が、ステージへと飛び出した。
香住も今は『プロ』としての笑顔を貼り付けて輝く光の先へ、二人の後を追った。
◆
「どもども~♪」
「こんばんわ~☆」
「『わーるど☆ぱい』でーす!!」
見渡せば会場には50人弱のお客様が居た。
その中に東京が地元の麻美の友人や家族、由紀菜や香住の掛け持ちバイト先の知人達も見える。
それを差っ引いた30人ほどのお客様こそ、本当に『わーるど☆ぱい』を見に来てくれたファンだった。
登場と共に、ファン達は大きな歓声を上げて喜んでくれた。
みんなに笑顔で手を振っていると……香住はこの会場では異質な人物に目が止まる。
最初は麻美の親族かと思った。
しかし彼女の目はずっと香住を追っている。
隣に寄り添う少年が他のファン達に交じって「まみまみー!」と叫ぶ。
ああ、彼は麻美のファンなのか。
――すると、隣の彼女は付き添いなんだろうか?
しかし、彼女はやけに香住ばかり見つめている。
目を輝かせて。
やがて、オープニング曲が流れ始める。
ファン達は音楽に合わせて合いの手を入れながら『わーるど☆ぱい』の曲を一緒に歌ってくれた。
一曲目は『餡かけチェリーパイ』。
すると、香住達や周りのファン達と異なりリズムに上手く乗り切れないながらも、その彼女も歌っているのだ。
合いの手も、周りが叫んだ後に叫ぶからテンポが遅れるものの、一生懸命ついて来ようとしている。
次の曲、更に次の曲とマイナーな曲が続いたが、それでも彼女たどたどしいながらも全部把握している様で、口ずさむのだ。
それからライブは途中で他愛無いトークを挟みながら、十曲歌い終え、最後の一曲となる。
「みんな~! 全力でついて来たー!?」
「久しぶりの曲も歌って、まみまみも懐かしかったよ~!」
「楽しい時間はあっという間だね! 最後の一曲、行くよ! 『天獄と時間』」
前奏が流れ始めると、ファン達が待っていました! とばかりに、此処一番の盛り上がりをみせた。
その彼女も、握りこぶしをブンブンと振って興奮している様子。
前奏のポップな曲調が流れ出す。
それに合わせて、合いの手を入れるファン達。
そして曲調が一変し、プッツリと曲が消えた。
静寂が流れた時だった。
弱々しい場違いの掛け声が響いた。
「カスミン~っ……!」
この会場にいる誰もが、今じゃないだろう?! という所で、彼女が香住へコールしたのだ。
思わず笑いそうになった香住。
必死と噴き出すのを堪え、ダン! とハイヒールブーツを踏み込み顔を上げたとき、自分の頬に皺寄った醜い笑みが張り付いていたのだ。
それは営業用じゃない、心の底から笑った香住の笑顔だった。
――楽しい。
今、この状況が楽しくてしょうがない。
「天獄と時間」が流行った時、もっともっとたくさんの観客の前で歌った。
テレビの歌番組にも出演した。
なのに今が一番楽しい。
たった一人のファンに応援されて、歌っているこの時が。
テレビよりも評価よりも、熱い一つの応援は香住の心を震わせた。
――永遠に続いて欲しいと思った時間は、最後の音が切れた時、香住を現実へと引き戻す。
喝采の拍手に、香住も由紀菜も麻美も涙を流していた。
彼女もまた、終わらない拍手を香住に送った。
すると由紀菜が、その彼女に話し掛けたのだ。
「そちらのお客様、カスミンの大ファンなんですね! 素敵な応援に私も嬉しくなりました!」
そう言い、彼女へとマイクを差しだす由紀菜。
「お姉さん、おいくつなんですか~?」なんて、麻美が失礼な質問も加えて。
すると、彼女は少し緊張しながら答えた。
「は、はい! 園田繭子、80歳です! 宮崎からカスミンの応援に来ました!」
「ええ~!? 宮崎から?!」
「すっごい!!」
周りのファン達も繭子の存在と行動力に騒めきが起きた。
そう、この会場に居たのは、
黒のスウェットパンツを履いた、その辺を歩いていそうな格好の小柄なグレーヘアーのおばあちゃんだったのだから。
それから、繭子は香住をじっと見つめて言う。
「私、貴女に拍手を送るために来たの」
「えっ」
「今の貴女に必要なのは拍手だと思って」
「ど、どうして、そう……」
「そうそう、カスミン、これ……!」
それから、繭子は持っていた紙袋から、紙飛行機を差し出した。
水色の紙飛行機。
羽部分に達筆な字で『カスミン、応援しています』と書かれていた。
「元気のないカスミンに、これを届けたかったの。でも私の勘違いだった。さっきの『天獄と時間』を歌うカスミン、本当に楽しそうだったから」
水色の紙飛行機に、ぽたぽたと涙の染みが滲む。
「……楽しかったです。本当に楽しかった……私、歌うが好きなんです」
「ええ」
「歌が好きです」
「ええ」
「……歌いたい」
「歌って、カスミン!」
香住はマイクを掴み直し、由紀菜と麻美を見た。強く頷く二人。
再び『天獄と時間』が流れ始めれば、ファン達の歓声が鳴り響く。
繭子のずれた応援も徐々に周りに溶け込み、二度目の『天獄と時間』が終わる頃には周りのファンと一体化した。
「好き」がある場所には、年齢も性別も生まれも育ちも関係ない。
みんな一つとなり、愛を叫ぶのだ――。
――拍手喝采の中、由紀菜はポツリと香住と麻美に言った。
「……もう少しだけ、この世界で
繭子達の鳴り止まない歓声が、香住の答えとなった。
貴女へ拍手を さくらみお @Yukimidaihuku
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