番外編 松尾大社

「時にユウカ。そなた、酒は飲めるのか?」

 突然こんな事を問われても、何と返せば良いものやら。松尾大社の大きな鳥居の前で首を傾げながら、有可は「えぇっと……」と呟いた。

「飲むことができるかどうかって意味なら、一応、飲める……かな。成人してるから法的にも問題無いし、梅酒とか缶チューハイとか、甘い酒なら……」

 ただし、強くはない。「酒は飲めるか」が「酒に強いか」という意味で使われているのなら、答えはノーだ。まず愛知県民自体、酒に弱い人間が多いと聞く。

「それがどうしたんだ?」

 すると、わらびは「いや、何」と軽い調子で言う。

「松尾大社に祀られている大山咋神は醸造祖神と呼ばれておってな。そう言えばユウカは酒に強いか弱いかどっちであろうか、と訊いてみたくなっただけの事」

 訊いてみたくなっただけ、と言っているが、なんとなく目が泳いでいる気がする。

「……本当に、訊いてみたくなっただけ……?」

 重ねて問うと、わらびは「む……」と唸った。馬脚を現すのが早過ぎる気がしないでもない。

「……実はな……。儂は、酒を飲んだ事が無い故……ユウカが酒に強いのであれば、盃を交わして飲酒デビューをしてみたい、などとな……」

 前々から思っていたそうだが、醸造を司る神を祀っている松尾大社に来たこの機に訊いてみようと思った、というわけだそうだ。

「……と言うか、飲酒、した事無いのか? 千年も式神をやってて?」

 驚いて問うと、わらびは「仕方が無いではないか!」と頬を膨らませる。

「信太森で葛葉様に仕えておった頃は生身の子狐であった故、葛葉様に供えられた酒を下げ渡して頂く事も無かった。晴明坊ちゃんの元に辿り着いた時も生身の子狐で、酒を飲ませてくれよう筈も無い。死して式神となった後は橋の下に住んでおった故、盗み飲む酒も無く、かと言って晴明坊ちゃんの屋敷に忍び込んで酒を飲むような無礼など働く儂ではない!」

「……いやけど、いつも何の苦も無く菓子とか買い食いしてるんだし、酒だって……」

「できるわけがなかろう! 見ての通り、見た目は完全に未成年! 免許証のような身分証明書も持っておらぬ故、どこの店も酒を売ってなどくれぬのだ!」

 今ほど飲酒年齢にうるさくなかった時代でも、見た目が若すぎて売ってもらえなかったらしい。昭和以前であれば親の使いだとでも言えば良かったようにも思うが、それでもダメだったのか、それとも何かやらかしたのか。訊いてみたい気もするが、少々怖い気がして訊くのはやめておいた。

「えぇっと……酒買う時だけ大人の姿になるとかできないのか……?」

「できぬ。晴明坊ちゃんが儂を式神としてくださった時に生まれたこの姿が、儂の式神としての姿。これ以外の姿にはなれぬ……。ついでに言うておくと、狐として生きておった時間が短かった故、化け狐として化ける事もできぬ」

 姿を変える事は無理らしい。

「……何で大人に見えない姿の式神にしたんだろうな、安倍晴明。大人の姿の方が色々便利そうな気がするけど……」

「子狐のうちに死んでしまった故、式神となった時の儂はまだ本当に子どもであった。心と体のバランスが崩れぬように、という晴明坊ちゃんがご配慮くださった故、この姿になったのじゃ」

 しかしまさか、この姿のまま千年以上の時を過ごし、酒を買えないという悩みを抱える事になるとは思わなかった……とわらびは頭を抱えた。

「……今度一條戻橋に行く時は、アルコール度数低めの缶チューハイを持っていくよ……」

 少し同情気味に言えば、わらびは「まことか!?」と言って目を輝かせている。そんなにも酒を飲んでみたかったというのか。酒に弱く缶チューハイ一本で寝そうになってしまう有可は苦笑して頷いた。

 わらびのテンションが上がったところで境内に入り、お参りをする。醸造を司る神様を祀っているだけに、境内の一角には大量のこも樽が積み上がっている。壮観、という言葉が相応しい光景だ。

「……名古屋の熱田神宮でもこんな感じに樽が積んである場所があったけど、こっちもすごいな……」

「日本の神と酒は、切っても切れぬ故。全国から奉納されるのであろうなぁ。同じこも樽でも一つ一つデザインが異なるのも、また見ていて楽しいものよ」

 そんな言葉を交わしながらも参拝を済ませ、何気なく境内を見て回る。すると、有可の視界に入ってきた物があった。

「なぁ、あれ何だ? 樽うらない……?」

 指差した先には、「樽うらない」と書かれた看板。簡易テントのような物が建っており、その下には台。その上に弓と思われる物が載っている。そしてテントの奥には、台に載った樽らしき物が並んでいた。

「あぁ。見ての通り、樽を使った占いじゃな。あそこに置いてある弓で矢を二本射て、樽の真ん中を狙う、というものでな」

 そう言うと、わらびは「実際に見せた方が早い」と言い、社務所へ歩いて行く。受付で金銭を納めると、矢を二本受け取って戻ってきた。矢の先には被せ物がしてあり、うっかり誰かに当たっても怪我をしないようにしてある。

「終わったら、受付で結果を申告するのだが、一本でも真ん中に当たれば記念にお守りを授与してもらえる、という流れじゃ」

「じゃあ、受付の人がこっちを見るまでやれないのか? 今、他の参拝者の対応してるみたいだけど……」

 見てない時に弓を引いて、当たらなくても「当たった」と言い張る者が出てきてもおかしくない。

「その心配は不要と思うがのう。それっ!」

 言いながら、わらびは弓を引き、矢を放った。矢は樽の真ん中に当たり、カーンという音を立てる。

「ほれ、この通り。樽の底の、真ん中が金属になっている故。当たれば大きな音が出る、というわけじゃ」

 なるほど、これならその場を見ていなくても、当たれば音でわかりそうだ。有可が納得している間に、わらびはもう一本の矢も放つ。またしても、カーンという金属音が聞こえた。

 二本当てたわらびは受付に行き、記念に授与して貰ったというお守りを見せてくる。弓道の的に矢が刺さっている意匠の値付けで、中々可愛い。そして、こういう物を見ると自分でもやってみたくなるから不思議だ。

 有可も受付で金銭を納め、矢を二本、手渡してもらった。それを持って、早速樽に正面から向かい合う。

「……その向きで弓を引くのは難しいと思うぞ……?」

 早速、わらびが待ったをかけてきた。運動が苦手な有可は、先ほど二本当てて見せたわらびの言う事を素直に聞く事にする。

「的の中心からまっすぐに線が引かれていると思うが良い。その線の上に両足とも載るようにして、立つと良い。足は肩幅に開いて、両足の角度は六十度ぐらいを意識せよ」

 言われたままに立ってみると、思ったよりもまっすぐ立つのが難しい。

「立つのが難しいと感じるのであれば、足の筋力不足なのであろうなぁ」

 薄々察してはいたが、そこは言わないでおいていてほしかった有可である。それでも何とか弓を構え、先ほどのわらびや、以前テレビで見た弓道の様子を思い出して見よう見まねで引いてみようとする。

「たしか、両手で弓を頭上に持ち上げて、そのまま両腕を開くと弓が引け……」

 引けない。腕を開こうにも、開けない。

「まぁ、弓と言ってもおもちゃである故。本物の弓より短く、その分弦も短い。儂は背が低い分腕を広げた時の手と手の間隔も短い。それ故、弦が短くてもまぁ、それなりにそれらしくできた。……が、ユウカの腕の長さでは難しかろう」

 曰く、目一杯腕を開く事ができるという事は弓にその分のエネルギーが蓄えられるという事で、それで矢を放ったりしたら矢がどこへ飛んでいくかわかったものではない。安全を考慮してあまりたくさん引けないようにしてあるのだろう、という事だ。

「良いか?弓というものは、スポーツの道具である以前に武器じゃ。本物の弓矢であればベニヤ板ぐらいであれば容易く割るし、ガラスを貫通する事とてある。今後の人生でユウカが弓を扱う機会があるかどうかまではわからぬが、そのことをゆめゆめ、忘れるでないぞ?」

 わらびの忠告に、有可は神妙に頷いた。そして改めて、何とか弓を引き、やり方がよくわからないままに矢から手を放した。途端に矢は弦から放たれて宙を飛び、すぐに落下した。引き方が良くないのか、腕力が足りないためかはわからない。あと、狙ったつもりの樽よりも大分右に逸れてしまったので、恐らく落下しなくても当たらなかった。

「難しい……」

「うむ。弓道でも、有段者であっても的を外す事は当たり前のようにあると聞く。おもちゃとは言え、ある程度の基本は抑えておかねば難しかろう」

 そう言って、狙いの定め方や矢の放ち方などを懇切丁寧に説明してくれる。折角なので、的に当てて良い思い出にして欲しい、といったところか。

 素直にわらびの言う事を聞き、二本目の矢をつがえて、放つ。矢は先ほどよりも高い位置を、緩やかな弧を描いて飛んでいく。

 そして矢は、樽の中に吸い込まれていった。ただし、カーンという音葉聞こえない。

「えぇっと……この場合は、どうなるんだ……?」

 有可が首を傾げると、わらびが残念そうな顔で言う。

「残念ながら、ハズレじゃな。音がしなかったという事は、的に当たる前に矢が力尽きて落ちてしまったという事ではないかのう。あれが樽ではなく普通の的であったらば、的に当たる前に矢が落ちてしまった……という事になるのではないか?」

 よくわからないが、とにかく有可の結果は二本ともハズレである。それを受付で報告すると、二本とも外れた者用の記念品もあるらしく、陶器製で手の爪ほどの小さな亀だ。財布の中に入れておくと、御利益があるらしい。だが、それ以上に。

「それは、ユウカがこの樽うらないに挑んだ証じゃな」

「……ん」

 ほとんど声を出さずに有可は頷き、小さな亀をぎゅっと握った。

 これを貰ったという事は、残念ながら二本とも的に当てる事ができずに外してしまった事を意味する。だが、「どうせ自分は運動は苦手だし、当たるわけがない」と初めから挑戦せずにいたら、この亀すら貰えなかった。

 そう思うと、何だかこの小さな亀がとても愛らしく思えてくるから不思議だ。握りしめた拳を開き、再び目の前に姿を現した亀を丁寧に摘まんで、財布の小銭入れに入れた。

 有可が亀を財布に入れるのを見届けてから、わらびは「さて!」と仕切り直すように声を発した。

「松尾大社の楽しみは、これだけではないぞ。楼門を出れば甘味処があるし、酒の資料館もある。資料館では漬物を購入する事もできる故、ご飯の供に一つ購ってみるのも良かろう。察するに、普段の食事は手を抜いておるのであろう? 漬物が一つあるだけでも、かなり違うのではないかのう?」

「……余計なお世話だよ……」

 普段の食事は手を抜いている、というのは完全に図星だったため、少し不貞腐れながら有可は言葉を返した。しかしまぁ、甘味処と漬物の話をしているわらびは、今日一番機嫌が良いのではないだろうか。

 本当に食べる事が好きなんだな、と苦笑し。そしてこの式神に約束した酒を差し入れるとしたらどんな酒で何味が良いのだろうかと考えながら。

 有可は手招きをするわらびに応え、ゆっくりと楼門の外へと歩き出した。



(了)

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