第20歩 煽って始まるラスボス戦

 駅を出てすぐに、茶壺の形をした郵便ポストが視界に飛び込んでくる。流石は宇治。お茶の名産地である。

「ユウカ……珍しい物を見て写真を撮りたくなる気持ちはわかるが、次の機会にしておかぬか……?」

 呆れた口調のわらびに言われ、有可はハッと我に返った。珍しい物を見た瞬間にカメラを構える癖がついてしまっているようだ。

 時間は昼前。霊体であってもわかるほど、美味しそうな匂いがあちらこちらから漂ってくる。茶店を初めとして飲食店が軒を連ねる通りを、霊だというのにヨダレが出てきそうになるのを堪えながら二人で歩く。

 通りの先にある宇治橋の手前で曲がると、すぐそこに橋姫神社があった。わらびが中を覗いてみたが、今は橋姫の気配は無いと言う。留守のようだ。

「……と言うか、今更なんだけど神様って神社から離れても良いのか?」

「神無月に同じ事が言えたら大した物だが……儂が知る限りでは、神も神社を留守にする事ぐらいある。神々とて、心もあれば好き嫌いもある。アウトドア派の神であれば、留守にする事も珍しくなかろうよ」

「……神様にもインドア派、アウトドア派があるんだ……」

「まぁ、ある。……もし参拝した時に〝神がいない〟感じがしたならば、それは恐らく外出中であろうよ。そういう場合は、〝今回はご縁が無かった〟とすっぱり諦め、次の機会を楽しみに待つが良い」

「あー、御朱印集めやってる同僚が同じような事言ってたな、そう言えば」

 二人でとりとめも無い話をしながら、散策するかのように辺りを歩く。通りを歩けばやはり良い匂いがする。途中、平等院に面した道に出た。せっかくだから遠くから少しだけでも鳳凰堂が見えないかと思い背伸びをしてみた有可だが、残念ながら平等院の敷地を囲む垣根は背が高く、垣間見すらも難しい。

「世界遺産故、こうでもしなければ公道に人が溢れかえって大変であろうなぁ」

 それはたしかに、困るかもしれない。

 そうこうしているうちに、二人は宇治川の川岸へとその身を移した。

 良い場所だな、と、有可は瞬時に思う。明るく陽の光が射していて、広い川岸にはのんびりと散歩ができる歩道が敷かれている。事実、川の流れを眺めながら散歩を楽しんでいる人が何人も見受けられた。

 川面に視線をやれば、水鳥がゆったりと進んでいく姿が視界に入る。そして、橋の下……川岸からも橋の上からも目立ちにくい橋脚の陰で、水に浸かっている人物の姿も。

「……は?」

 有可は唖然としながら、そこを指差す。わらびも、指差された方向を見た。そして、顔をしかめる。

「角のように結い上げた髪に、頭に被った五徳……。橋姫ではないか」

「なんであんなところに……。霊が見える一般人に目撃されたら、入水自殺かと思われて騒ぎになるんじゃ……」

「橋姫に要らん知恵を授けて鬼にした何者かは、橋姫に〝宇治川の橋脚のところで二十一日間浸かっていれば力を得られる〟などと言ったらしい話があった。より強い力を得るために、再びその条件を満たそうとしているのかもしれぬな。……たしかに早く上がらせねば、面倒な事になりそうだ。騒ぎにもなるであろうし、実際には高龗神から力を与えられるわけではないにしても、思い込みの力でパワーアップしかねん」

 渋面を作るわらびに、有可は「けど、どうやって?」と問うた。

「気絶してるならともかく、そうじゃないだろ。力尽くで上がらせようにも、俺達が近付いたら暴れて槌とか振り回すんじゃ……」

「うむ。それ故……煽るしかあるまい」

「……は?」

 解せぬと言いたげな顔をする有可に、解説するようにわらびは言う。

「馬鹿にするなり何なりして、橋姫を怒らせるのだ。そうして、儂らを追わずにはいられない気持ちにさせ、岸に上がらせる」

「……それってひょっとしなくても、説得の余地もなくバトル展開にならないか……?」

「なるであろうなぁ。そなたは戦闘は不得手であろうし、儂とて式神となる際に特に戦いの能力を授けられたわけでもない。ただの人間相手であれば立ち回りもできるであろうが……」

 橋姫はただの人間ではない。神社に祀られた事で神格化されている、現在は再び鬼と化している霊である。

「まぁ、この辺りには橋姫神社以外にも寺社仏閣がある故。本当に危なくなったら、神か仏が助けてくれるやもしれぬし、やってみる他無いであろう」

 ざっくりと他力本願な事を言い、わらびはすたすたと川へ向かって歩き出す。

「一応言うておくが、ユウカは何があっても来るでないぞ。そなたには戦う力は無いし、生き霊になっていると言ってもその魂が大きなダメージを受ければ、本体にも影響があるやもしれぬ。そなたは貴船神社で既に一度橋姫の攻撃を食らっておるし、余計に危ない」

「……わかった」

 神妙に頷いた有可に、わらびは頷き返す。そして、水面に足が触れたかと思うと……ふわりと浮いた。そして、高度を変える事無く歩き出す。……水の上を、歩いている。

 よくよく考えれば、霊体なのだし普段でも空を飛べるようだし、沈むこと無く水の上を歩けるのも頷ける。……が、こういう場面を見ると「やはり式神なのだな」と思わずにはいられない。

 恐らく初めて目撃したであろう、わらびの式神っぽい様子に、感動すら覚える。

 わらびは脇目も振らずに橋姫の元まで歩いた。そして、あっという間に目的の場所まで辿り着く。

「式神……!」

 目を見開き、橋姫が呟いたのが、川岸にいる有可にも聞こえた。これだけ離れていても呟いた声が聞こえるというのは、生き霊になっているためであろうか。

 橋姫は腰より上まで宇治川の水に浸かっている。片やわらびは、水の上に立っている。自然と、わらびが橋姫を見下ろす形となった。

「何をしに来たのじゃ……!」

 橋姫がわらびの事を見上げながらも睨め付ける。あまり背の大きくないわらびに見下ろされる事で結構な屈辱を感じているようなので、煽りとしてはまずまずの出だしといったところか。

「なに。そろそろ夏で暑くなってきたとは言え、いきなり水に浸かって涼を取るような単純な思考が羨ましくての。思わず心地の感想を聞きにきてしもうた、というわけよ」

 煽るにしたって、いきなりアクセル全開過ぎやしないだろうか。案の定、橋姫の額にはピキピキと血管が浮き上がっているように見える。

「き、貴様……」

「ほう。怒ったか? 怒ったのであれば、怒ったと言えば良いのではないか? そのように我慢をしているから、恋人が調子に乗り浮気をした上、乗り換えるなどという愚行を犯したのではないのか?」

 言って良い事と悪い事があるのではないか……とも思うのだが、じゃあどの程度までなら言って良いかと言われると、人による、としか言えないので困る。

 そして、わらびの煽りは確実に効いているようだ。橋姫の形相が、更に鬼のようになっている。……これ、川岸に上がらせる事ができたとして、なんとかできるのだろうか……。

「貴様……わたくしを愚弄するのは、まだ許せる……。だが、あの方を貶めるような事を言うとは何事じゃ! 許さぬぞ!」

「ほうほう。不実に捨てられ、鬼になるほど恨んでいても、未だ愛情はあると見える。他人が男の事を悪く言う事を許さぬとは、優しいではないか。……そのように甘い態度を取り続けた故、男がつけ上がり、そなたへの仕打ちとなった事、まだわからぬか!」

「黙られい!」

 目を血走らせ、橋姫が叫んだ。だが、わらびは黙らない。

「……いや。甘やかした事が原因でつけ上がったのは、恐らくそなたも承知しておるな。だが、自分に自信の無いそなたは、男の浮気を咎める事で嫌われたら……と思うと何も言う事ができなかった。その結果男に捨てられ、それまでの我慢が爆発して恨み、鬼になるに至った。そういう事であろう」

「黙れ! 安倍晴明殿の式神といえど、許さぬぞ! それ以上愚弄するのであれば、殺す! 貴様の魂を喰ろうてくれる!」

「できるものなら、やってみるが良い。もっとも、そなたのような甘ちゃんに、魂を喰らうなどという残虐行為ができるとは思えぬがな。ほれ、おしりペンペン!」

 そう言うと、わらびは本当に橋姫に向かって尻を向け、ぺしぺしと叩いて見せる。酷く大人げない煽りに、有可は思わず「うわぁ……」と呻いた。

「殺す! 貴様だけはどうあっても殺してやるっ!」

 激昂した橋姫が、その場から動いた。わらびの煽りが、功を奏したのだ。「ふふん。殺すなどと強い言葉を使ったところで、言っているのがそなた故。全然恐ろしくも何ともないわ! 所詮は負け犬の遠吠えよ!」

 そう言って、トドメを刺すようにわらびは言う。その足目掛けて、橋姫は槌を振り上げた。互いに霊だからか、水しぶきは一切上がらない。

 橋姫の槌を、わらびはとんぼ返りで避けてみせる。よくもまぁ、狩衣にスイングドレスなどという動き難そうな格好でとんぼ返りなどできるものだ。霊だから服装など関係ないのか、それとも式神故なのか。

 感心している間にも、わらびは橋姫が振り回す槌を次から次へと避けていく。

「ほれほれ、どうした。当たらぬぞ!」

 楽しそうに叫び、とんぼを切り、時には大縄を飛ぶようにして。まるで遊んでいるかのようだ。

 そしてわらびは、橋姫の攻撃を避けつつ、少しずつだが川岸に近付いている。そう言えば、元々は水に浸かっている橋姫を霊感を持つ人が目撃して、入水と勘違いして騒ぎになると行けないから川岸に連れてこよう、という話ではなかったか。

 今の様子は、たしかに入水には見えない。……が、ひょっとしなくてもかなり目立つ。

 恐る恐る辺りを見渡してみたが、幸い、今この場に霊感持ちはいないか、いてもこちらの様子に興味を持っていないのだろう。川面を凝視している人間はいない。

 有可がホッとしている間に、遂にわらびが地上に戻り、次いで橋姫も川岸に足をかける。

 霊であっても、多少水の中にいた事が動きに制限をかけていたのだろうか。橋姫が槌を振り回すスピードが上がった。それに加え、もう片方の手で五寸釘まで振り回すようになっている。

 超スピードで振り回した槌をわらびが跳んで避け、着地をした瞬間に今度は五寸釘が顔を狙って突き出される。わらびはそれを咄嗟に伏せる事で避け、更にその勢いを利用して地面に手をつき、またとんぼ返り。振り下ろされた槌を間一髪で避けつつ、橋姫から少しだけ距離を取った。

 互いに霊なので、疲れる事は無いのだろう。このままだと、いつまで経っても終わらない。

 ……否、攻撃の手段を持たない分、わらびが不利か。式神とは言え、相手も霊。しかも、神格化している。当たればダメージはきっちり通るだろう。

 有可が「魂がダメージを受ければ、本体にもダメージがいくかもしれない」と言われたように、わらびとてどこかしらにダメージは蓄積するはずだ。

 どうすれば良い?

 自分には何ができる?

 橋姫を説得するには、何を言えば良い?

 何かを言うにしても、どうすれば橋姫に自分の声が届く? 耳を貸してくれる?

 考えても良い案が思い浮かばず、有可は無意識のうちに首から下げたカメラに触れる。その瞬間。

 本当に偶然だった。橋姫の視界に、有可が入る。両手でカメラに触れ、まるでこれから撮影をしようとしているように見える姿勢だ。

 それを認識した途端、橋姫が急に体の向きを変えた。わらびではなく、有可の方へ向かって。言葉にならない奇声を発しながら、走り出す。

「えっ、なんで急にこっち!?」

「ユウカ! 逃げよ!」

「いや、逃げろって言われてもどこに!」

 混乱しながら、有可は右を見て左を見て。そうしている間にも橋姫は迫り、そして槌を振り回してくる。

「うわっ……うわわわわっ!」

 すんでのところで、有可はなんとか槌を避けた。わらびのようにスマートに避ける事など、到底できない。

 そのなんとか避けたところに、橋姫は容赦無く槌やら五寸釘やらで攻撃を仕掛けてくる。

「ちょっ……待っ……そんなん……ありか!」

 なんとか避け続けられてはいるが、当たるのは時間の問題だ。加えて、橋姫の発する奇声が耳に突き刺さり、精神的に揺さぶりを掛けてくる。

 だが、次第に……何故だろう。奇声にしか聞こえなかった音が、意味を持つ言葉に聞こえ始めた。……いや、元々意味を持っていたが、有可が混乱して聞き取れなかっただけかもしれない。それが、次第に慣れて言葉をちゃんと聞き取れるようになっている……気がする。

「……るな……」

 るな? ルナのことだろうか? ……いやいや、平安時代以前の人間の口から咄嗟に出てくる言葉ではないだろう。まだ聞き取れていない部分がある。

「とるな……」

 とるな? 取るな、採るな、盗るな……様々な字が当てはまる。だが……と、有可は思った。今の有可に向かって言う「とるな」は、一つしか無いではないか。

「撮るな!」

 そう、撮るな……「写真を撮るな」だ。写真に撮らないでくれ、と言っている。……が、今それを言われたところで「え、今はそれ、気にしている状況か?」という感想が真っ先に湧いて出てくるわけで。

「へ? いや、撮らないけど!? ほら、カメラのレンズに、レンズカバー! はめたままだろ? このままだと、撮りたくても撮れないから!」

 そう叫んで、有可はカメラを掲げて見せた。大事なカメラを危ない中で掲げるのは気乗りしないが、仕方が無い。

 すると、橋姫がピタリと動きを止めた。有可の目と鼻の先で、目を大きく見開いている。その口元が、ホッと息を吐き出したように見えた。そして、ぽつりと小さな声で問う。

「……まことか?」

 その問いに、有可はコクコクと頷いた。その様子に、橋姫は有可が掲げるカメラをまじまじと見詰めた。

 カメラのレンズには、たしかに黒いカバーがはめてある。このまま撮影をしたところで、真っ黒くて何も写っていない写真が出来上がるだけだ。

 平安時代以前の人間だが、流石に観光客などで見慣れているのだろう。橋姫は、どの部分が「レンズ」を指すのか、すぐさま理解したらしい。そして、レンズが隠れていると写真が撮れない事も、承知しているのだろう。

 今度はわかりやすくホッと息を吐き、橋姫は「そうか……」と呟いた。

「またてっきり……化け物の写真を撮ったと言って、えすえぬえす、とやらに載せられてしまうのかと……」

 橋姫、カタカナ語は若干怪しいが、思ったよりも現代の文化に精通していそうだ。ならば、案外話も通じるかもしれない。

「えぇっと……確認なんだけど、撮られたくないっていうのは肖像権的な意味で? それとも、その姿を残したくないから?」

 突然割と平和な質問が飛んできて、橋姫は「え?」と意外そうに目を瞬いた。そして、律儀に考え始めると、やがて「そうじゃな……」と呟く。

「両方嫌じゃが……どちらかと言えば、この姿を残したくない、という方が強い。わたくしの個性はこれしか無いが……かと言って、好んでしておるわけでもないのじゃ……」

 知っている。彼女は人に好かれたいと考えている。寄り添ってくれる相手を探している。だが、昔男に平凡でつまらないと言われた事がトラウマとなり、奇矯な格好で人々に興味を持たせるという方法しかとる事ができなくなっていた。

 見るに、本来の彼女はとても真面目で、慎ましやかな性格なのだろう。それがこのような──髪の毛を逆立てて角とし、五徳を被り、体中を朱く塗って松明を銜えるような格好をするとなれば、心中どれほどの抵抗があった事だろう。

 それでも彼女は、やってのけた。しかも、力を高めるために二十一日間、川の水に浸かり続けたという。生半可な覚悟でできる事ではないだろう。

「それだけ……悲しかったって事だよな……」

 ぽつりと、有可は呟いた。その言葉に、橋姫は瞠目する。だが、それには気付かずに有可はぽつりぽつりと言葉を続けた。

「本当はしたくない格好をして、冷たい水に浸かり続けてでも力を手に入れたいって思うほど、悲しい思いをしたって事だよな……。相手にぎゃふんと言わせなきゃ気が済まなかったんだよな、きっと」

 その言葉を、橋姫は一語一語、大人しく聞いている。そんな橋姫に、有可は「すごいな」と呟いた。揶揄ではなく、本心で。それが伝わったのか、橋姫は意外そうな顔をした。そんな彼女に、有可は「だって、そうだろ」と言う。

「復讐が良いか悪いかは一旦置いておいてもさ。普段と違う格好をするのって、すごく勇気が要ると思うんだよな。少なくとも、俺はそう。それをアンタは、抵抗はあっただろうにその格好をして、寒かったろうに水に浸かり続けて。やると決めた事をやり遂げたんだよな。……すごいよ」

「すごい……? わたくしが……?」

 縋るような声で、橋姫は呟いた。有可は頷き、「すごい」と再び言う。

「うん。すっごい根性あると思う。すごいよ。……すごいと言えば、その髪もすごいよな。長い髪って、それだけで大変そうなのに、松脂だけでそんな風に結い上げる事ができるものなんだな……」

 先ほどとは、「すごい」の意味合いが少し違っているかもしれない。こちらを見るわらびの顔がちらりと見えたが、何やら見覚えのある表情のような気がして。少し考えて思い至ったのが、学生時代のクラスメイトの女子。彼女らが「これだから男は……」と呆れていた時の表情に似ている気がする。

 そう言えば、男は角というパーツ自体が好きな者も多い、という事に気付いた。これは性別によるものなのか、子どもの頃に親から与えられてきた娯楽によるものなのかは、判断が難しいところだ。

 それはそれとして。有可は、百パーセントの感嘆を込めて呟いた。

「器用なんだな」

「き、器用? わたくしが……?」

 ひょっとしたら、初めて言われたのかもしれない。橋姫に、動揺が見られた。それを気にする事無く、有可は「うん」と頷く。

「俺だったら絶対に、角にする途中で折れる。そう言えば、会社で髪の長いオシャレな人がいるんだけど、その人も「髪を盛るの難しい」って言ってた気がするな。盛るだけでも難しいのに、そんな細長く結って、しかもあれだけ激しく動いて乱れる事も無いとか、もう器用の域を超えてる気がする。今の時代、美容室にいたら結婚式とか成人式の前に重宝されそうだよな。せっかくスタイリングしてもらったのに崩れたって嘆いてる奴とか……予約が取れなくて前日に美容室行って、髪型を崩さないために徹夜したとか、そういう話も時々聞くし。橋姫にスタイリングしてもらったら、そのまま風呂に入ったり寝たりしても崩れる事無く、翌日そのまま式にも出れそう」

 どういう状況なのか有可にも理解しかねるのだが、喋っているうちに口が滑らかになり、止まらなくなってきた。ついでに言うと、橋姫は突然のマシンガン褒め言葉に顔を塗っている丹以上に赤くして混乱しているし、その光景を見てわらびは感心するやら呆れるやら、な顔をしている。

 カオスである。

「器用と言えば、その顔とか塗ってるのもすごいよな。どこにも塗りむらが無くて、均一に塗れてる。昔の化粧品でこの巧さで、今のきめ細かいパウダーなんとかってコスメとか使ったらどうなるんだろうな? すっごい綺麗に塗れるんじゃないのか?」

「こ、こすめ?」

 そこで有可は、我に返った。そう言えばなんとなく意味が通じるので使用していたが、正確な意味を知らない。急いでスマートフォンを取り出し、意味を調べた。

「えっと、化粧品の総称の事みたいだな。見た目を整える物や、体を清潔にする物の事……へぇ……。シャンプーとか歯磨き粉も、広義では化粧品に入るんだ……」

 うっかり今は不要な情報まで仕入れつつ、有可は普段化粧をしない自分でも理解できる範囲の情報を、なんとか噛み砕き、掻い摘まんで説明しようと試みる。そして、一つ説明するごとに、橋姫の目が興味で輝きを増していく。時には、有可の説明から単語を拾い出し、更に問いを重ねてくる場面まで現れ始めた。

 やがて。

「……その……わたくしも、試してみる事はできるじゃろうか? その、こすめ、とやら……。特に、すたいりんぐと、ねいるけあ、とやらを試してみたい……」

 顔を赤らめ、両手を組み合わせてもじもじとしながら、橋姫は小さな声で問うた。顔から険が無くなっているためか、鬼の格好をしているままだというのに、どこか愛嬌があって可愛く見える。

「あー……そこは俺じゃなくて、わらびの方が詳しいな。わらび、どうだ? 橋姫がコスメを体験する事、できそうか?」

「ふぁっ?」

 突然話を振られ、わらびが素っ頓狂な声を発した。そしてハッと我に返ると、「ふむ」と唸って考えた。

「そうさな……実体のある物に触れる事は、式神である儂もできておる事だし……神格化しておる橋姫であれば、気合いを入れれば同じように触れる事もできよう。儂は化粧品の事はわからぬし、最初はデパートなどで案内の者に聞いてみると良い。頼めば、使い方も教えてくれよう」

 自分の化粧品を手に入れるためには金が必要になるが、小遣いを稼ぐだけであれば戸籍も住民票も持たないわらびでもなんとかなっているのだ。橋姫も同じようにやれば良いだろう、とわらびは言う。

「……だがな」

 びしり、と橋姫を指差し、わらびは顔をしかめると言った。

「ここから先は、その鬼の化粧を落とし、髪を梳いて人間の姿になってから! 今ここで方法を全て教えて、その格好のまま街中を歩かれてはたまらぬわ!」

 言われて、橋姫はハッと息を呑んだ。そして、慌てて五徳と松明を頭から下ろし、手櫛で髪を整え始めたではないか。よっぽど、現代の化粧に興味を持ってくれたらしい。

 余談だが、普段狩衣を着ているわらびは、誰にでも見える姿になる時は毎回律儀に服を着替えている。着替えていると言っても霊なので、一瞬の事。面倒ではないらしい。尚、最初に服を入手した際は、コスプレイヤーが町歩きをしている体で服屋に入り、購入したらしい。心臓に毛が生えているのではないだろうか。……式神に心臓があるのかどうかは知らないが。

 さて、橋姫だ。松脂で固めた髪は梳くのが難しいらしく、難儀している。霊なのだからパッと落とせそうなものだが、わらびに言わせると松脂を落とす事に苦労をする事で、橋姫が自分自身を戒めているのだろう、という事だ。これは、全身に塗った丹を落とすのも大変そうである。

 たしか、鞄の中にウェットティッシュが入っていた筈だ。多少は役に立たないだろうか。

 そう考えて、鞄の中を漁り始めた、その時だ。

「……あれ? なんだろ、すごく……眠……」

 突然の眠気に襲われ、有可はその場で膝をついた。

「……ユウカ? 如何した?」

 気付いたわらびが駆け寄ってくるが、眠すぎてもう、声を発する事すらままならない。その状態を見たわらびが、「あぁ」と呟いた。その声は、どこか少しだけ寂しそうだ。

「そうだな……全て終わった……否、全てというと語弊があるやもしれぬが……橋姫は丑の刻参り以外に、興味を持った。もう貴船神社で樹を傷付ける事もあるまい。それ故……終わったと、そなたの魂が認識したのだな。故に……魂が、肉体に戻ろうとしておる」

 そうか……と。妙に納得した心持ちで、有可はわらびの言葉をぼんやりと聞く。

 終わったのだ、これで。橋姫の葛藤も、有可がわらびと共に歩くみやこの旅も。橋姫は新たな目標を見付けて新たな一歩を踏み出し、有可は元の生活に戻っていく。

 目を覚ました時、自分はどのようになっているだろう。霊は見えるままだろうか? 僧侶から貰った手紙はどうなるだろうか? わらび達の事を、覚えているだろうか?

 覚えて、いると良いな。

 ぼんやりと考えながら、有可は目を閉じる。もう見ることはできないが、手の指先から少しずつ透明度が増してきたようだ。完全に眠った時、己の姿がこの場から消えるのだろう。

 それを最後に、有可の思考は途絶える。わらびと橋姫が見守る中、有可の姿はどんどん透明になっていき、やがて、消えた。

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