第21歩 再会と土産と後日談
鮮やかなピンク色が、青い空に映えている。時は三月上旬、所は京都市上京区。堀川に架かった一條戻橋の傍らに佇む河津桜は、今年も見事としか言いようがないほどに咲きこぼれている。
道行く人々は足を止め、ある人は花の様子に顔をほころばせ、ある人は楽しそうにスマートフォンのカメラを向ける。
早咲きの桜が姿を見せるこの時期の一條戻橋は、一年のうちでも一等賑わっている。
そんな平和で賑やかな橋の下。美しい桜には目もくれず、橋板でできた薄暗がりをじっと見詰める若者が一人。
年の頃は、二十代の半ばぐらいであろうか。清潔感はあるが華やかさには欠ける顔立ちで、背も高からず低からず。ジーンズにタートルネック、上にダッフルコートを引っかけたような服装で、あまりにも特徴が無い。
手にはCanonのロゴが入ったカメラを持っており、そのファインダーは薄暗がりを向いている。黒いボディに大きなレンズを装着したそのカメラは、素人目に見てもいわゆる一眼レフなどの高性能で良いカメラなのだという事がわかる。時々ピピ、という電子音が聞こえるので、フィルムではなくデジタルカメラなのだろう。このカメラが、若者の特徴であるとは言えるかもしれない。
「さてもさても、奇っ怪な。今年も見事に咲いた河津桜がすぐそこにあるというのに、見向きもせずに何も無い橋の下へカメラを向けるとは」
すぐ後ろから声が聞こえ、若者──有可は振り向いた。
「……久しぶり」
そう挨拶した有可に、わらびは「うむ」と頷いた。
「まこと、久しいな。その様子だと、めでたく霊が見え、声も聞こえるようになったか」
「……お陰様で」
そう言って、有可は苦笑しため息を吐いた。まさかこの歳になって霊感持ちになるとは思っていなかった、という顔である。
「……少し、痩せたか?」
心配そうに問うわらびに、有可は首を横に振る。
「わらびが知ってる俺は、生き霊の俺……つまり、倒れる前の俺の姿だろ。倒れて数ヶ月意識不明でいる間に、かなり痩せててさ。休んで食べて、最近やっとここまで太ってきたとこ」
「そうか。……仕事はどうだ? 無理はしておらぬか?」
その問いには、首を縦に振った。
「厳しい仕事は、同僚や上司に相談するようにしてる。倒れた後だし、元々心配させてたからさ。みんな、できる範囲で手を貸してくれてるよ」
加えて、これまで引き受けていた社内で使用する写真撮影は断るようになった。これまでは自分の仕事の時間を削って撮影してデータを渡し、その分残業をしていた。体を大事にするために残業を減らしたい、という理由で断ったところ、こちらも一度倒れているのが効いているのか、あっさりと退いてくれた。「村南が引き受けてくれなくなって、これからどうしよう」みたいな様子も一切無かったのが少々寂しくもあるが……己の時間には替えられない。
「その後って言えば、橋姫はどうなったんだ? 俺、すごく半端なところで離脱しちゃったと思うんだけど……」
鞄から名古屋土産のういろうと両口屋是清の銘菓詰合、手羽先味のスナック。そして何故か名古屋駅でも売っているお伊勢名物の赤福を取り出し、わらびに渡しながら問う。
手渡された様々な菓子に目を輝かせつつ、わらびは「うむ」と頷いた。早くも包装を破り、ういろうを竿ごと囓っている。せめて切ってから食べて欲しい。
「それがな……すごい事になっておるぞ……」
もぐもぐと黒砂糖味のういろうを咀嚼しつつ、わらびは言った。ひと竿あったういろうが既に半分以上消えているのが恐ろしい。
「すごいって……どういう風に……?」
「さてもさても、〝化〟けて〝
追加で差し出されたペットボトルのお茶を飲みつつ、わらびは言った。手は早くも、赤福の箱に伸びている。まだ食べる気かと言いたいところだが、赤福の消費期限は今の時期でも製造日を含めて三日と非常に短いので、早めに食べてもらえるのは有り難い。
「化けたって……まさか、また鬼みたいに……なったわけじゃなさそうだな? わらびのその様子だと」
新しいペットボトルを取り出し、自分もお茶を飲みつつ有可は首を傾げた。
「うむ。ユウカの見立て通り、あやつは非常に器用でな……一度デパートの化粧品売り場に連れて行って店員に試してもらっただけで、コツを掴みおった。その後、試しにドラッグストアで安い化粧品を一式買い揃えてみたのだが……それで練習した結果、みるみるうちに腕を上げてな。いつの間にやらどうやってか、デパートの化粧品売り場で時折バイトをするようになり、今ではカリスマびゅーてぃーあどばいざー……とやらになっておる」
使い慣れない言葉だからだろうか。比較的カタカナ語に強そうなわらびの口調が、たどたどしい。有可はと言えば……声も出ない様子で、固まっている。
「……かりすま……びゅーてぃー……?」
やっと言葉が出てきても、中々文章にならない。完全に処理落ちしている。
「何故そんな事に……と思うであろう? 儂も、最初に報告を受けた時は耳を疑ったものよ。たしか、
「……いや、どこのデパートだよ。あと、普段化粧をしない俺がどんな口実で化粧品売り場を覗けば良いんだ」
そう言いながら、有可はスマートフォンを取り出して、検索を始めた。橋姫の働く時の名前、何やら聞き覚えがある。
漢字ではなく、ひらがなで「せおりつ」と入力し、検索してみる。すると、すぐに答えは出た。「
わかりやすい名前を付けたな、と思うと同時に、現代にいてもおかしくないであろう字面に変換してみせた橋姫の現代適応能力に戦慄するばかりである。
ひょっとしたら、橋姫に限らず、生きた人間のフリをして人間社会で生きている神様は他にもいるかもしれない。そして、案外自分のすぐ近くに住んでいるのかもしれないな、と考えながら、有可は菓子をむさぼり食っているわらびに目を遣った。
格好は百歩譲ってもコスプレだし、名前も現代に馴染むかと言われるとちょっと微妙かもしれない。他の神様がみんな興味本位で人間社会に溶け込んだとしても、彼女だけはそのままの姿で、この橋の下に住み続けるのだろうな、と有可は苦笑した。
そんなわらびは、既に手羽先味のスナックも食べ尽くし、残る土産は銘菓詰合のみとなっている。だが、それには手を出す様子が無い。
「どうした? 流石に腹一杯になったか?」
問うと、わらびは「いいや」と言って首を横に振る。ふにゃふにゃと、照れ臭そうに笑ってみせた。
「これは個包装で、まだ賞味期限にも余裕があろう? それ故、夜になってから晴明坊ちゃんのところにお持ちして、一緒に食べることができないか、と思ってのう」
そう言って、いそいそと懐に菓子をしまっている。この様子を見て、この戻橋の下に住む式神が、かの陰陽師、安倍晴明の母に仕えていた狐で、晴明によって式神と化した存在であるなどと、誰が思うだろうか。しかも、その晴明から頼まれて、この地に住む人々が困っていたら助けようと、日夜頑張っているなどと。
そう思うと、自然と笑みがこぼれ出た。その様子を見とがめて、わらびは少し不機嫌そうに顔をしかめ、「む?」と首を傾げる。
「ユウカ、何を笑っておる? 儂の顔に、餡子でもついておるのか?」
「いや、別に? ……それよりもさ。この後、紫式部と小野篁にも土産を渡しに行きたいんだけど……いると思うか?」
有可の問いに、わらびは腕組みをして「ふむ……」と唸った。
「どうであろうか。小野篁卿は地獄の裁判で忙しい身であるし、紫式部殿も原稿の締切が迫っておる時は何があっても姿を見せぬ事で有名である故……」
「……そんな忙しい二人が、あの時は俺達の為に時間を割いて、力を貸してくれたんだな。……ちょっと待て。紫式部、原稿の締切に追われるような生活してるのか? あの世で?」
「うむ。近頃の誰でも好きなように物語を書いて自由に発表できる風土や、国民の識字率が上がってより多くの人が物語を楽しめるようになっている様子が羨ましいそうでな。時折、此岸のイベントに合わせて締切を設定し、執筆をしておるようだぞ。ゆくゆくはコミケとやらに出展するのが目標と言っておったのう」
「紫式部が? コミケに参加?」
色々な意味で大混乱が起きそうな組み合わせである。その様子を見てみたいような、怖いような……。
どんな事になるだろう、と想像力を働かせ始めた有可に、わらびは「そんな事よりも……」と言った。
「せっかく見事な河津桜が咲いておるのだ。一枚ぐらい、撮っていかぬのか?」
「ん? あぁ……そうだな」
今回も、気付けば橋の下ばかり撮っている。ここへ来たら橋の下を撮らなければ、という義務感でも湧いているのだろうか。たしかに、あんな見事な桜を撮らないのは、写真撮影を趣味とする者として勿体無い。
「わらび、せっかくだ。桜と一緒に写るか?」
問えば、わらびは嬉しそうに「うむ!」と頷き、橋の下でも綺麗に桜が撮れるであろう場所へと移動していく。そんな後ろ姿を眺めながら、有可は「いつ話を切り出そうか」と考える。
どういう力が働いたのか。目覚めた時、鞄の中にはちゃんと、あの手紙があった。まだまだ勉強中で、完全に読めるようになるのは当分先の話だが……それでも最初の一文だけはなんとか読めたと思うので、わらびに答え合わせをして欲しい。流石にこの手紙を、古文読解講座に持ち込んで答え合わせをしてもらうわけにはいかない。
「ユウカ、何をしておる? 早く来るが良い!」
オススメスポットらしい場所から、わらびが催促の声をかけてくる。有可はその声に応え、足早にわらびの元へと向かった。
構図を決め、ファインダーを覗き込む前に。有可は何気なく、カメラのサブディスプレイを見た。ここへ来るまでに、それなりに写真を撮ったからだろうか。
バッテリー残量は、七十五パーセントまで減っていた。
(了)
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