第13歩 橋姫の叫び、有可の共感

 からん、ころん、と下駄の音が鳴り響く。髪を松脂で固めて結い上げた、五本の角が天を指している。

 そしてそれ以上に目立つのは、頭上に揺らめく三つの松明。更に、口にも松明を加え、その両端が燃えている。顔は勿論、着物から覗く肌という肌が丹か何かで朱く塗られている。目は爛々と光り、右手には五寸釘、左手には槌と藁人形。

 ただただ、純粋に怖い。これを橋姫以外の者も含めれば頻繁に目にしているのであろう高龗神、神とは言え凄まじい胆力である。

「……いや、いつもはここまでじゃないかな。流石に元祖は迫力が違うね」

 にこやか且つ爽やかに言うものじゃないと思う。

「……と言うか、橋姫を見たのは初めてみたいな口ぶりだけど、千年以上前にもここで呪詛をやってたんじゃないの?」

「いや、様々な伝承を見るに、橋姫は貴船の神に鬼となる方法を願ってはいるが、丑の刻参りに来た様子は無い。想像だが、橋姫の行動を耳にした者がこの格好を真似すれば更に呪詛の効果が上がるとでも思い、丑の刻参りに取り込んだのではないのか? 今回は橋姫が丑の刻参りをも行っているようだが、言わば逆輸入のようなものであろうな」

「……何でやろうと思っちゃったかな。こんな物騒な逆輸入……」

「だから、それを今から突き止めようという話であろうに」

 などというやり取りをしている間にも、橋姫は着々とこの奥宮に近付いてくる。今や、からころという下駄の音に加えて、ザッザッという土や小石を蹴る音も聞こえてくる。それが、段々と大きくなっていく。

 聞こえてくる音と共に、自らの心音も聞こえてきそうな気がする。ごくりと、有可が唾を飲み込んだ時。橋姫が、奥宮の門内へ足を踏み入れた。

 彼女の足は迷い無く、まっすぐに大きな樹へと向かっていく。そして、あの傷だらけになっていた古木の前に立つや樹皮に藁人形を押し当て、その腹部に五寸釘を当てる。そして、それを深く打ち込むべく、手にした槌を振り上げた。

「それ以上樹を傷付けてはならぬ」

 振り上げられた槌を持つ手を、わらびが掴み、止めた。その衝撃に、初めてこちらに気付いた様子で橋姫が首を巡らせた。その目の本来であれば白いであろう部分は、充血しているのか朱く血走っている。

「なんじゃ、貴様は。何故わたくしの邪魔をする?」

 落ち着いた声音とは裏腹に、一言発される度に腹の底に冷たく重い物がどすんと落ちてくるような感覚を覚える。これが、鬼になった人間に凄味というものなのだろうか。

「なんじゃも何故も、儂の台詞だ。橋姫、なんだその姿は。なに故、再びこの世で肉を得、人を呪おうとする? ……今、誰を呪おうとしておるのだ」

 わらびの声にも、いつものような軽さが無い。敵を睨め付けるかのような、鋭い声が、夏の夜の空気を切り裂くかのようだ。

 だが、わらびの声程度で怯むような橋姫ではない。怯むどころか、「ククッ」と喉で笑い、やがて何がおかしいのかクツクツと声に出して嗤いだした。

「……何がおかしい」

 眉根を寄せたわらびに、橋姫は「いや、なに」と口を開く。

「どこか覚えのある気配だと思うておったのじゃが、今思い出したのよ。貴様、あの陰陽師と同じ気配を纏うておる。……名前は、なんと言ったか……そうそう。安倍晴明殿、じゃったか。渡辺綱殿と共にわたくしを追い詰め、わたくしを祀るよう上申し、手配もしてくださった。名うての陰陽師という事じゃったが……さては貴様、安倍晴明殿の式神じゃな?」

 橋姫、非常に察しが良い。さて、これは説明が省けて助かる事となるか、こちらの情報を既に掴まれている事で不利となるか……。

「ふん。儂の事を既に知っておるとは、話が早い。早いついでに、儂の質問に答えてはくれぬか? 橋姫、そなたは渡辺綱に追い詰められた際、自らを弔って欲しいと言い残して宇治川に身を投げたと聞く。そしてその最期の願いは、我が主によって叶えられた。その社は移転こそしておるが今も残っており、そなたは千年もの時を超えても祀られ続けておる。先ほどの口ぶりからして、その対処に不満は無い。……相違無いな?」

 不満があるなら、「手配もしてくださった」などという言い方はしないだろう……と、わらびは言う。

「そうじゃな……不満は無い。神として祀られ、今も尚、多くの人に神とあがめられておる。弔いとしては上等じゃ。そのように手配をしてくださった安倍晴明殿、そして安倍晴明殿にわたくしの言葉を伝えてくださった渡辺綱殿には感謝もしておる」

「ならば、何故今また、そのような姿をしておるのだ? 何を望んで、再び肉体を得た? 答えよ!」

 その問いに。橋姫は一瞬、悲しそうに顔を歪めた。今にも涙を流しそうなその顔に、物陰から様子を窺っていた有可は一瞬息が苦しくなる。

「何故、とな……?」

 呟き、橋姫はしばし黙り込む。言葉を探しているようだ。やがて、小さく息を吐くと、ぽつりと言う。

「寂しゅうなった。そう言ったら、貴様は満足してくれるのかえ?」

 その言葉に、わらびは「え」と呟いた。虚を突かれた、という顔だ。

「寂しゅうなった。神として祀って頂けた。千年経っても、人々はわたくしの事を敬ってくれる。それで十分じゃと、思っておったのだが……やはりな、一人でいるというのは、寂しいのじゃ」

 咄嗟に、有可は橋姫の神社について検索した。現在は、同じ境内に水の神である住吉神社が並んで祀られているらしい。

 なんだ、同じ境内に祀られているなら一人じゃないじゃん、と一瞬思った。だが、恐らく違う。そういう事ではない。

「つまり……添うてくれる相手が欲しくなったと。その相手を探すには、社に縛られぬ肉体が必要と考え、蘇った……そういう事か?」

「……」

 橋姫は、答えない。頷きもしない。だが、その態度が逆に、わらびの推測が正解であると告げていた。そんな彼女に、わらびは少々呆れた顔で言う。

「ならば、何故丑の刻参りなどという真似をしたのだ? 儂が思うに、連れ添う相手を見付けるには逆効果ではないか」

 正論だと思う。有可だったら、丑の刻参りを実行している人をパートナーにするのは抵抗がある。まず、見た目が怖すぎる。

 すると、橋姫は「だって……」と呟いた。

「わたくしには……これしか無いのじゃ……」

 その言葉を聞いた時、有可はキュッと、心臓を捕まれたような錯覚を覚えた。一瞬の痛みに、思わず顔をしかめる。

「どうしたんだい?」

 心配そうな顔をする高龗神に、有可は「なんでもない」と答えた。……そう、なんでもない。痛みはすぐに消えた。だが、なんだ? 何故、橋姫の言葉で胸が痛んだ?

 有可が顔をしかめている間にも、橋姫は苦しそうに独白する。

「わたくしは、元を辿れば平凡な娘の一人に過ぎぬ。顔も普通。教養も普通。何をやっても失敗は少ないが、一緒にいて面白みが無いと……わたくしを捨てたあの方にもよく言われたものじゃ……」

 そんな中、唯一橋姫が手にした、人には無い個性。それが鬼となり人を呪い殺める力であったと。そう、橋姫は言う。

「じゃが、直接誰かを殺めれば、恐らくは再び血の香に酔い、多くの人を殺めるに至ってしまうじゃろう。じゃから……血の香に酔うことの無い呪いを……」

 行う事にしたのだという。時には、橋姫の事を知ってか知らずかカップルで橋姫神社に参拝しに来た女性を。時には、橋姫伝説の触りだけを知って馬鹿にするような話をしていた者を男女問わず。その日見掛けた、その時一番殺したいと思った者を都度、呪ってきたと橋姫は告白する。

「……む。都度呪う相手が違うのか。しかも、ほとんどの場合は相手の名前も知らなければ、藁人形に入れるとより効果が出ると言われる髪の毛なども未入手。……という事は……」

 わらびの呟きに、有可と共に物陰に隠れていた高龗神は頷く。

「少なくとも、彼女の呪いで被害に遭った者はいないだろうね。呪いを成就させるにはあまりにも色々と足りていないし、そもそもこの境内で丑の刻参りを行う者に私が力を貸す事は無い」

 本当に形だけの呪い、というわけだ。あとはまぁ……ここで夜な夜な丑の刻参りをしている者がいるという噂が広がれば、度胸試しで夜中にこっそり見に来る者がいるかもしれない。その中に理想の相手がいれば……という思いも多少透けて見える。……夜中に神社の境内に不法侵入して度胸試しを行うような者にまっとうな人物がいるかどうかはともかくとして。……と言うか、そんな事をする人物がいたら二度とそんなことをしないようにしてほしい。藁人形を打とうが打つまいが不法侵入は犯罪だし、神社の人に迷惑しかかからない。

 有可がそのような感想を抱いている中、わらびは呆れた顔をしている。

「しかし……己が添う相手を見付けるためにする事が丑の刻参りとは……。他になんぞ無かったのか? まっとうで、且つそなたの事を知らしめ魅力を伝えるための方法は……」

 わらびがそう言った時、有可は一瞬、ひくっと呼吸が不自由になったのを感じた。今度はなんだ? と思ったその瞬間。

「あるわけが無かろう! そんな方法があれば、そもそも私は鬼になる必要など無かったのじゃ!」

 橋姫が、爆発したように叫んだ。

 わかる、と。何故か有可は、橋姫に共感した。

 わかるのだ。自分が平凡だとわかっていて、それでも一つだけ特色があると……それが好ましくない方法だとわかっていても、縋るようにそれ一辺倒になってしまうと。

 そして、これもわかる。縋るすべが一つしかないのにそれを否定されると……意固地になる。だからきっと、橋姫の次の行動は……。

 その考えに至った途端、有可は血相を変えて物陰から飛び出した。

「貴様に何がわかる! 式神としての力! 名も力も持つ主! 人や神と睦まじく交わる事ができる性質! それだけのものを持つ貴様に、わたくしの何が!」

 叫ぶやいなや、橋姫は藁人形に当てていた五寸釘を振り上げた。まだ打ち込まれていなかった五寸釘は、容易に頭上に掲げられ、支えを失った藁人形は地面に落ちた。

 橋姫が、掲げた五寸釘をわらびの脳天に向かって振り下ろす。橋姫の方が上背が高い。振り下ろす高さがある分、威力も高い。外しさえしなければ、わらびの頭は砕けてしまってもおかしくない。

 だが、わらびは逃げない。逃げられない。彼女の手は、橋姫の手を掴んでいる。槌を振り上げたままになっている手。これを放せば、五寸釘は避けられても槌が脳天にたたき込まれるだろう。

「わらびっ!」

 五寸釘が直撃するか否かの、その瞬間。有可が突っ込んできて、わらびと橋姫の間に体を滑り込ませた。

「ユウカっ!?」

 わらびが叫ぶのと、五寸釘が有可の肩にたたき込まれたのは、同時だった。有可の体が、そのまま地面に倒れ込む。

「……え? あ……あぁ……っ!」

 狙った相手と違う者が攻撃を受けた事に橋姫が動揺し、手から槌と五寸釘がこぼれ落ちる。それらが地面にぶつかる、ゴトリ、カラン、という音が聞こえた。

「わたくしは……怒りに任せてこんな……また、人間を……?」

 動揺し、わざわざと顔を覆い。そして数歩後ずさったかと思うと、責められるのを恐れるように、駆けだした。……その場から、逃げたのだ。

 だが、追う者は誰もいない。倒れている有可と、その姿を呆然と見詰めるわらびと。そして、その二人を見守る高龗神と。誰もその場から動かない。動けない。

 そして、一瞬とも数時間ともとれる間を置いて。もぞりと、有可の体が動いた。彼は上体を起こすと、痛そうに顔をしかめる。

「……った……。飛び込んだ勢いで転ぶとかやるか、この歳で……。ん? あれ……?」

 不思議そうな顔をして、辺りを見渡す。状況を理解していない顔をしている。

「わらび、無事か? ……と言うか、橋姫は? いない?」

 目を瞬かせる有可に、わらびが肩を震わせた。

「このっ……大馬鹿者!」

 いきなり怒鳴られ、有可は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしている。何故怒られているのか理解ができない、という顔だ。

「儂と橋姫の間に飛び込むなど……何故あのような事をした! 普通に考えたら危険だとわかろうに! ダメージを受けない霊であっても避けるぞ、あれは!」

「いや、だって……アンタが危ないと思ったから、つい……」

「ついで命をかける者がおるか!」

 その怒鳴り声に、有可が「けど」と言って顔をしかめた。一方的に怒鳴られ、カチンときているようだ。

「俺とアンタだったら、アンタが無事な方が良いじゃないか! 俺はアンタと違って、誰かの役に立つことができないんだから!」

「……は?」

 今度は、わらびが顔を引き攣らせた。有可の言っている事が理解できない、という顔だ。

「……ユウカ? そなた、何を言っておる……?」

「……橋姫と同じだよ。俺は平凡で、特に秀でたものも持ってない。邪魔に

ならないようにする事はできるかもしれないけど、誰かにとって必要不可欠な存在じゃない。なら、ちょっとヌケてるかもしれないけど、式神として色んなポテンシャルを持ってるアンタが無事な方が、世間的には良いだろ。絶対に!」

「そんな理由で、死ぬかもしれぬ事をしたのか? そのような理由で、死んで良いとでも思っておるのか?」

 震える声で、わらびが問うた。すると、同じように震える声で、有可は問う。

「逆に……死んだらいけない理由ってあるのか? 俺がいなくなったら駄目な事ってあるか? あったら教えてくれよ……。大切な人が悲しむから、とか、感情的な理由以外を!」

「それは……」

 咄嗟に答えられず言い淀んだわらびの様子に、有可はため息を吐く。

「……無茶をするなと言われてたのに、無茶をしたのは悪かったよ。けど、あんな様子見せられたら、ジッとしてろって方が無茶な話だ。……もう良いだろ。なんでかわからないけど、俺もアンタも無事で済んだんだし」

 その言葉に、わらびがびくりと体を震わせる。そして、何度か口を開閉したかと思うと、やがて何かを決意したように、ぎゅっと手を握った。

「……無事ではない。本来ならユウカ、そなたは先ほどの一撃で死ぬか、重傷を負っていてもおかしくはないのだ……」

「……は?」

「起きた時、何が起こったのか把握をしていなかったね? あれは、橋姫の攻撃を受け、少しの間意識が混濁していたために状況を把握できていなかったためだよ」

 補足するように、高龗神が言った。だが、それだけでは有可は理解できない。

「え? 攻撃を受けた? けど、俺、無傷で……」

 背中や肩を触ってみても、どこにも血はつかない。痛くもない。

「攻撃を受けたかどうかも、どこを攻撃されたかも、見ていないのでわかっていない。だから、痛みを感じないんだろうね」

「……いやいや。見てなくても、怪我をしたら痛いだろ……」

「……怪我はせぬのだ。そなたは、生きておらぬから」

 その瞬間、辺りはシンと静まりかえった。誰も、言葉を発しない。

「……え?」

 たっぷりの間を置いて、有可はそれだけを搾りだした。言葉の意味はわかるが、言われている意味が理解できない。それを理解してか、わらびは有可の質問を待つ事無く、語り出した。

「生きてはおらぬ。……だが、死んでもおらぬ。いわゆる生き霊、というやつなのだ、そなたは。……そのスマートフォンでも、カメラのフラッシュでも良い。足元を照らしてみよ」

 言われるまま、有可は自分の足元をスマートフォンの発する光で照らした。……影が、できない。

「……けど、俺、さっき転んで痛かったし……石清水八幡宮や愛宕神社に行った時も、山を登って疲れて……」

 自分が霊だと言うなら、その痛みや疲れはなんなのだ、と有可は問う。だが、わらびは言い難そうにしながらも言った。

「先ほど高龗神が、見ていないから攻撃されたかもわからず、故に痛みを感じないのだろう、と言うたであろう? そういう事だ。そなたは自分が顔面から転んだと認識しているからこうなったら痛いだろうという想像により痛みを感じ、こんな山を登ったら疲れるだろうという想像によって疲れておった……」

 そう、なのだろうか。有可は考え込んだ。

 有可が生き霊だと言うのであれば、納得がいく事もある。

 仁和寺から石清水八幡宮へ行く時、わらびに「何故バスを使うのか」と尋ねられた。あれは、わらびが有可の事を霊だと認識していたから出てきた発言だったのだろう。

 嵐山で道案内を尋ねられた時。観光客に写真を頼まれたが、有可がどれだけ手を差し出したり声をかけたりしても、見向きもされなかった。霊だから、その姿は見えず、声も聞こえなかったのだ。

 ふと、デジタルカメラのバッテリー残量を確認してみる。昼間と同じ、八十パーセント程度だ。あの後も何枚か撮っていたはずで、全く減っていないという事は有り得ない。バッテリーが常に八十パーセント程度なのも、自分が霊だからなのか?

 そう言えば、先ほどこちらに向かってくる橋姫がどのような格好をして、何を持っているかも……遠目のうちからはっきりとわかり過ぎではないのか? 昼間ならまだしも、夜だ。橋姫が松明を持っていたとは言え、遠くから見ただけで詳細を把握し過ぎている。樹に新しい傷がいくつもある事も、夜で暗い中、何故わかった? 霊だから、光がなくてもはっきり見えたという事にならないか?

「けど……写真はコンビニでプリントできたし、豆大福も食えた。春はコートを着ていたけど、今は着ていなくて……」

 なんとか自分が霊になっていない根拠を探そうとするが、わらびがふるふると首を横に振る。

「写真の印刷は、儂がやりたがって手を出したな。豆大福は、儂が手ずから食わせた。儂は式神故、気合い次第で生きている人間にも死んでいる霊にも干渉できる。服は……痛みと同じ理屈よ。そなたが、今は初夏だな、と思った故、無意識のうちに気候に合わせた服になっただけの事」

「……なんで、黙ってた? 俺が霊だって……」

 押し殺した声で問う有可に、わらびは「そうさな……」と呟いた。

「そなたが……自らが霊となっている事に気付いていない様子だった故……」

「……だから? それだけの理由で?」

 わらびは、再び首を横に振った。

「そなたは自分が霊になっている事に気付かず、どうして霊になったのかの経緯も忘れておった。……何か、思い出したくない辛い事があって霊になったのやもしれぬ。いずれは気付かねばならぬ事ではあったが、御坊の悩みを共に解決しようとしている時のそなたが、げんなりしつつもどこか楽しそうでな……。辛い記憶を思い出す切っ掛けになるかもしれぬ気付きを、与えることができなんだ……」

 その後、石清水八幡宮から戻って解散したはずなのに、少し時が経ったら有可は再び戻橋の下で写真を撮っていた。相変わらず、霊のままで。

「推測だが……そなたは京都へ旅行に来ている最中に、何らかの理由で生死の境を彷徨う事になったのではないかと思う。そして、まだ寿命を迎えてはいない故、あの世へ行きかけていたところを戻橋に戻ってきたのやもしれぬな……」

 だから、一度目も、二度目の時も、スタート地点は戻橋だったのではないか、と。

「じゃあ……俺の体はまだどこかで生きていて……今ここにいる俺が体に戻ったら、目を覚ます……?」

「恐らく。だが……」

 言い淀み、そしてわらびは、悲しそうな顔をして言った。

「それは、ひょっとしたら難しいのかもしれぬ。そなたに、生きる意思があまり感じられぬ故……」

「……俺が生きる気にならないと、目を覚まさない……?」

 どういう事だ、と問いたげな顔をする有可に、わらびは「思い出せ」と言う。

「言ったであろう。肉体を蘇らせるすべがあっても、橋姫に蘇るための動機が無ければ蘇る事はできぬ、と。それと同じよ。目を覚ますすべがあっても、そなたに生きる気がなければ、そなたの体は目を覚ます事は無い」

「……生きる気……」

「そなたはこう言った。死んだらいけない理由はあるのか。そなたが死んだら駄目な理由はあるのか。と。恐らくそこに、そなたが生き霊となった原因があるのだろう。……そこをなんとかせねば……そなたが自力で乗り越えねば、そなたが自分の体に戻る事はあるまい」

「……そっか……」

 暗い面持ちのまま、有可はわらびに背を向ける。

「どこへ行く?」

「……どこって言うか……とにかく、戻る。悪いけど、頭の中、整理したいからさ。一人にして欲しい」

 そう言って、有可は奥宮から一人、出て行ってしまう。この時間ではもうバスも電車も無いだろうが、霊だと気付いた今、京都駅まで歩いて行ったとしても疲れはすまい。スマートフォンで検索もできるようだから、道に迷う事も無いだろう。ただ、飛ばずに歩こうとしているあたり、未だ自分が霊となっている事に心のどこかで納得していないのかもしれない。

 その後ろ姿を眺めながら、高龗神がぽつりと呟いた。

「誰かの役に立つことができない……か。本当に誰の役にも立たない者など、滅多にいないと思うんだけど。彼は何故、あそこまで自分を卑下するような事を言うのだろうね……」

「さぁなぁ……」

 同じように有可の後ろ姿を見送りながら、わらびが静かに呟く。

「ユウカ……否、有可……。有効や有力の有に、可能の可。……肯定を意味する文字を二つもその名に持ちながら、あそこまで己を否定するとは……。なんとも皮肉な事よ……」

 その呟きは闇に溶け、やがていつしか、川のせせらぎにかき消されて聞こえなくなった。

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