第12歩 貴船神社と丑の刻 尚、藁人形は触法行為

 思ったよりは坂でなかったものの、愛宕山登山で疲れていた体にはやはり堪える。……と言うか、バスで五分だから徒歩でも五分というわけではない。十五分はかかる。

 ブツブツとそう言っているうちに有名な石段と灯籠が見えたのでやっと着いたと安堵したかと思いきや、わらびは更に先へ行くと言う。

「ここから上がれる本宮にも高龗神は御座すが、迦遇槌命が言うには今回は奥宮の方へ来て欲しいという事だ」

 バスで五分程度の距離というのは、一般的には本宮への道のりの事を指すと思う。

「何を世界が滅びそうな顔をしておる。ほれ、さっさと行こうぞ」

 促されるままに、有可は歩を進める。しんどいので、どうしても呼吸が荒くなる。その分、多くの空気を吸い込む事になる。

「……空気、綺麗だな……」

「うむ。周りの木々や、そばを流れる川の水がこの清らかな空気を生み出しておるのだろう」

 流石は神の御座す場所。そう言えば、石清水八幡宮のある男山や、愛宕神社がある愛宕山も空気が綺麗だったな、と思い出す。「この空気を堪能しながら歩くが良い」というわらびの言葉に従って、空気を意識しながら歩くことにした。なるほど、綺麗な空気を取り込みながらだと、多少体が軽くなる気がする。

 そうしてなんとか奥宮へ辿り着くと、できるだけひと目に触れないように意識しながら敷地内に踏み入る。もう遅い時間だ。閉門間際に入った人間がいるのにまだ出てこない、と思われるのはまずい。そう言うと、わらびは何故か難しそうな顔をする。

「……まぁ、それほど気にする事もあるまい」

「そりゃ、アンタはいざとなったら姿を消せば良いんだろうけど……」

 その言葉に、わらびが何か言いたげにした、その時だ。

「あなたが、迦遇槌命殿が仰っていた狐の式神かい?」

 涼やかな声が聞こえ、有可は声のした方へと首を巡らせた。そこには、男性とも女性ともつかぬ美しい人が佇んでいた。

「……そなたが、高龗神か?」

 わらびの問いに、その人……否、神──高龗神は頷いた。面立ち、服装、声音、どれを取っても男性か女性かは判別できない。どのような場にいても、スッと溶け込む事ができそうな柔らかい雰囲気を持っているのは、水を司る神故か。

「自己紹介は要らないようだ。じゃあ、早速本題に入らせて貰っても良いかな?」

 そう言うと、わらびと有可が頷くのを待ってから、こちらへ」と行って移動を促した。その先には、大きな樹。かなり古い。樹齢何百年……いや、ひょっとしたら千年以上あるのではないだろうか。

 そんな古い木だというのに、よく見るとところどころ、そこそこ明るい色が見える。木肌が剥がれて、内側が姿を現しているのだ。樹木には詳しくないが、外から大きな力がかからないとこのような事にはならないのではないのか? それに、自然の風などでできるようなものでもない。

 つまり、樹を傷付けた者がいるという事だ。しかも、傷は一ヶ所二ヶ所の話ではない。樹のあちらこちらにある。

「これは……酷いな」

 顔をしかめたわらびに、高龗神は「そうだろう?」と言って同じく顔をしかめた。

「いわゆる、丑の刻参りという奴で藁人形を打ち付けていく人が後を絶たなくてね……」

「わらっ……!?」

 その言葉の強烈さに、有可は思わず後ずさった。その様子に高龗神は苦笑し、それからため息を吐いた。

「時代錯誤だろう? けど、未だにいるんだよ。憎い相手を傷付けるために、藁人形を打ち付けにくる人間が」

「むう……。憎い相手を傷付けたいが、自ら手を下すと法に触れる故、藁人形に手を出すのか……。それとも、己の力では返り討ちに遭うち思われる故に神の力に頼ろうとするのか……」

「……と言われても。自分の神域にある樹を傷付ける人に、私が手を貸すわけもなし。効果なんて無いんだけどねぇ……」

「効果が無いという証明が、人間の間ではされておらぬからな。普通の人間には神の姿は見えぬし、声も聞こえぬ。効果が無いと証明する事は絶対にできぬ、悪魔の証明という奴になる故、試してみようとするのやもしれぬな……」

「……あ、でも丑の刻参りって法には触れるらしいぞ?」

 わらびと高龗神が会話をしているうちにスマートフォンで検索していた有可が、呟いた。「そうなのか?」と目を瞬くわらびに、有可は頷いた。

「現代でも、人を呪う事は重罪になるのかい?」

 高龗神も意外そうな顔をしている。そう言えば、平安時代は人を呪った事が判明した場合は重罪になったのだったか。

「……いや、丑の刻参りって言うぐらいだから、深夜にやるだろ? 大抵の神社はその時間帯は閉門してるから、単純に不法侵入罪。それと、神社の樹に藁人形を打ち付けて傷付けた事による器物損壊罪。あと、お前の事を呪っているから死にたくなければどうこうしろ、みたいな感じで相手に言ったら脅迫罪が適用される場合もあるみたいだな」

 淡々と読み上げる有可に、わらびと高龗神は揃って「な、なるほど……?」となんとも言えぬ表情をして見せた。呪いに現代の法律が適用されると、たしかにシュールだ。

「ただね……生きた人間なら、現代の法律に照らして裁いてもらえば良いんだけど……」

 表情を曇らせた高龗神に、わらびが「む?」と唸った。

「人間ではない者まで、丑の刻参りをしていると?」

 その問いに、高龗神は頷いた。

「橋姫」

 その名前は、聞いたことがある。ぼんやりとそう思った有可の横で、わらびが「なっ……」と声を詰まらせている。

「橋姫とは……宇治の橋姫か!?」

「そう。丑の刻参りの発端となった、あの橋姫だよ」

 話になんとかついていこうと、有可はすぐにスマートフォンを再び取り出し、橋姫で検索をした。だが、諸説あるらしく情報をまとめる事が難しい。仕方が無いので、話の腰を折ること覚悟でわらびに問うた。すると、わらびも「さもありなん」という顔をして頷く。

「正確なところは、儂にもわからぬ。嵯峨帝の時代とする説もあるようだが、その時代だと儂もまだ生まれておらぬ」

「私もだよ。気付いた時には巻き込まれていたようなものだから」

 恐らく男女の仲に関わる御利益が謳われているために、男女の関係が元で事件が起こる橋姫の話に登場する事となったのだろうが……そのために不法侵入をされたり神域の樹に五寸釘を打ち込まれたり、挙げ句人を呪う力があると思われてしまうのは良い迷惑だ、と高龗神は憤慨して言う。

 とりあえず、何が起こるかわからない事だし。正確なところはわからないが、情報の共有だけはしておこうとわらびが言った。そして、「儂が知るところでは……」と語り出す。

「橋姫の正体は、公家の娘とも、大昔から宇治橋に祀られていた守り神とも言われておる。……が、神であればここに御座す高龗神も話ぐらいは聞いたことがあるであろうが、その様子は無い。……故に、ひとまずはどこぞやの公家の娘の事であろうと、儂は思っておる」

「もっとも、私は世俗に疎いからね。新しい神が生まれたことに気付かなかっただけかもしれないから、橋姫が人間ではない可能性も捨てきれない」

 わらびが頷き、話を進める。

「橋姫はある時、愛する男を他の女に奪われた。嫉妬に狂った姫がこの貴船の宮にやって来ると、そこで貴船大明神が鬼へと姿を変える方法を教えてくれ、それを実行した姫は鬼女と成った……という話だが……」

「覚えていないんだ。私がたまたま留守にしている時に鬼か何かが悪さをして、私の名を騙ったのかもしれない」

 それについては昔の事であるし、今論じたところで意味は無い、と高龗神は断りを入れた。

「鬼女になる方法は諸説あるが、姿は概ね共通しておる。顔などを丹で真っ赤に塗り、鉄輪かなわ……五徳はわかるか? それを頭に被っておる」

「あ、それ……聞いた事ある」

 丑の刻参りをする者がそのような格好をすると聞いたことがある。たしか、能の「鉄輪」という演目ではなかったか。

「うむ。そしてこの橋姫がな……鬼女となり浮気をした男と、男を奪った女に復讐したまではまぁ……良いのだが」

「良いのか」

「当人同士の問題故」

 倫理的にはいかがかと思う理由だが、まぁ、そうかもしれない。それでなくてもわらびは人間ではないのだから、人間の倫理に多少当てはまらないところがあるのも頷ける。

「過ぎたるは及ばざるがごとしとでも言うか、人間が扱うには過ぎた力であったと言うか……この鬼女となった橋姫がな、時折暴走しておったのだ」

「暴走?」

 首を傾げた有可に、わらびは「うむ」と頷いた。

「人としての自我を失うとでも言えばわかろうか。復讐対象である男や女の周りの人間まで殺したり、嫉妬に狂って関係の無い仲睦まじい男女をまとめて殺したり、己を裏切った男や男を奪った女に似ている関係の無い男女を殺したり、挙げ句はもう本当に一切全く何も関係が無い者に無差別に襲いかかるようになったりと……滅茶苦茶であった」

 そう言って、高龗神に「のう?」と同意を求める。高龗神も頷いているあたり、いつの間にやら人間的には伝説に過ぎないがわらび達式神や神にとっては実際にあった出来事の話になっているらしい。

「でも……今は止んでるんだよな? そんなにたくさんの人間が襲われたりしたら、今の時代はあっという間にニュースになるし」

「橋姫は、千年前に命を落としておる。それ故、ここ千年ばかりは橋姫の被害に遭う者はおらなかったのであろう」

「わらび殿がお仕えしていたという陰陽師、安倍晴明殿と、鬼退治で有名な武士もののふ、渡辺綱殿。この二人が諸々の末に橋姫に対応してくれたのだったね」

 その言葉に、わらびは自慢げに胸を張った。ここで晴明の名が出てくるとは思わなかったが、丑の刻参りは呪詛なのだから出てきてもおかしくない話ではある。

「うむ。儂はその時、既に戻橋の下に住んでおったからな。よぉっく覚えておるぞ。渡辺綱が戻橋の上で若い女に扮した橋姫に襲われたものの、手にしていた名刀、髭切で見事その腕を切り落としたその様を!」

「あ、それって茨木童子の……?」

「うむ。同じ話の茨木童子バージョンもあるのう。同じような事が何度もあったのかどうかは知らぬが、儂が見たのは橋姫よ」

 渡辺綱は鬼──わらびが言うには橋姫を返り討ちにしたものの、取り逃がした。そして、切り取った腕をどうするか、対応を相談したのが安倍晴明であった……という話である。

「その後、渡辺綱に追い詰められた橋姫は、どうか己を弔って欲しいと言い残し、宇治川に身を投げたという。そこで宇治川のほとりに橋姫を祀ったのが、我らが晴明坊ちゃんよ!」

 もの凄く誇らしげだ。それは良いとして。

「それが、なんでまた今になって、また藁人形を打ち込みに来ている……って話になってるんだ?」

 首を傾げて有可が問うと、高龗神は困った様子で眉根を寄せた。

「それがわからないから、困っているんだ」

「わからない?」

 顔をしかめた有可に、高龗神は頷いた。それに呼応するように、わらびも頷く。

「橋姫が蘇り、再び五寸釘を打てるような肉体を得ている事についてはそれほど疑問は持たぬ。元々鬼と化しておったのだ。何らかの原因でその場に霊的な力が貯まったりだとか、誰かが術で蘇らせたりだとか、霊的素養のある生きた人間に取り憑いたりだとか、色々考えられるし、割とよくある事故」

「よくあってたまるか」

 術で蘇らせたり、霊に取り憑かれたりは「よくある事」で済ませられる事ではないだろう。

「儂らの間では割とよくある事故、茶々を入れるでない! ……それで、なんであったか……そう! 蘇っている事自体は、儂ら的にはそれほど不思議ではないのだ。だがな……」

 何故蘇った? と、わらびは言う。

「え? 何故って……それは今、アンタが言った通り……」

「儂が言ったのは、蘇る方法よ。蘇る方法があっても、蘇る魂自体に蘇る気が無ければ蘇りはなし得ぬ。……儂の言っている意味がわかるか?」

「えっと……簡単に言うと、お前なんでここに来たんだよ、みたいな……?」

 有可の回答に、わらびは一旦がくりと肩を落とした。……が、持ち直し「まぁ、そんなところだ」と言って仕切り直す。

「ユウカの言い方に合わせて言うなら、こうだ。例えばこの貴船神社へ来たければ、現代なら電車、バス、自家用車、体力に自信があるなら自転車や徒歩という交通手段がある。……が、神社にも歴史にもパワースポットにも興味が無ければ、来ようとは思わぬだろう。そういう事だ」

「……つまり、橋姫が蘇る動機がわからない?」

「うむ。そして困った事にな……動機を突き止めて解決してやらぬと、一時的に追い払ったとしても、また同じ事を繰り返すのだ。……ほれ。御坊は石清水八幡宮に未練があってあの世へ行けず、たつと源太は地獄の炎が怖くて三途の川を渡れずにいただろう? あれらを強制的にあの世や三途の川の先へ送ったとしても、御坊は未練に執着してこの世に戻ってきてしまったであろうし、たつと源太は三途の川の先でも逐一足を止めて、あの世の者どもを困らせる事になったであろうよ」

 なるほど……と、有可は頷いた。ただ行くべき場所に追うだけでは駄目なのだ。動機を把握しなければ、追い払ったり倒したりしても、またいつか橋姫は蘇り、同じ事をする。

「だから、高龗神が蘇った橋姫に困っているという事であれば、橋姫が何故蘇ったのか、何を目的としてここへ来るのか。動機を掴まねばならぬのだが……」

 そう言いながら、ちろりと高龗神の方を見る。すると、高龗神は申し訳なさそうに苦笑した。

「先ほども言ったように、私は世俗に疎いからね。元々人間であったであろう彼女が、何を思って再び肉体を得たのか動機を掴もうと思っても……」

 人間の心がよくわからないので、動機を把握しようにも理解ができない、と。それで、一応人間であったはずの安倍晴明により式神となり、時折何らかの方法で小金を稼いでは外で飲食したり道案内までしたりしているわらびに目を付けた、というわけだ。オマケに今なら、役に立つかどうかはわからないが本物の人間である有可もついてくる。

「……そういうわけか……」

 呟いてから有可は「あれ?」と眉根を寄せた。

「そう言えば、肉体も蘇ったって言ってたけど……それってつまり、霊感ゼロでも見えるって事? 橋姫」

「いいや?」

 わらびはあっさりと首を振った。

「槌と五寸釘と持って、樹に物理的に藁人形を打ち付ける事ができる程度には肉体が蘇っておるが、誰にでも見える姿になるには橋姫自身が姿を見せようと気合いを入れねばならぬであろうな。儂とて、今の状態でも物を触る事はできるが、霊感の無い者にも姿を見せようと思ったら気合いを入れねばならぬ」

 それから、「あぁ、そうそう」と思い出したように言う。

「相手がどう出るかわからぬがな。橋姫が触れて、人間からは見えないという状況を人間始点でわかりやすく言うと、『向こうの攻撃は通るが、こちらの攻撃は通らない』になる。向こうがもし攻撃してきた場合、当たったら痛いでは済まぬ。最悪死ぬ事もある故、気を付けよ」

 言われて、有可は「えぇ……」と呻いた。

「痛いのは嫌だな……。当たるのを回避できない時は、いっそ一撃で仕留めて欲しい……」

 途端に、わらびが「おい」と目を据わらせて呟いた。

「そこは、死にたくないからなるべく穏便に済ませたい、ではないのか? その言い草だと、痛くなければ死んでも良いと言っているように聞こえるが?」

 言われて、有可は「え?」と呟いた。

「そうかな? ……あー……そうか……」

 何やら、煮え切らない。一体どうした事かと、わらびが更に問いただそうとした、その時だ。

「……来た……!」

 そう、高龗神が呟いた。辺りを見れば、とうに陽は落ち真っ暗闇になっている。いつの間にか、夜になっていたのだ。スマートフォンで時間を確認してみれば、もうすぐ深夜の一時。深夜の一時から三時が該当するという、丑の刻が近い。

「……話は後だ。ユウカ、何が起こるかわからぬ。決して、無茶をするでないぞ」

「わ、わかった……」

 頷き、そして有可は「あれ?」と思った。今、わらびに言われた「無茶をするな」という言葉。前にも言われた事があるような気がする。

 一体いつ、誰に?

 思い出せないという状況が、橋姫が迫っているという状況とは別のプレッシャーを与えてくる。

 思い出したいのに思い出せない焦燥感と、危険かもしれない霊が迫ってきているという緊張感と。二つのプレッシャーに苛まれながら、有可はただ、静かにその時を待つ。両手が、無意識のうちにカメラに触れていた。

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