第7歩 安倍晴明嵯峨御墓所 生きているとは、死んでいるとは

「それにしても……墓、あったんだな。安倍晴明」

 わらびの後を歩きながら、有可は思い出すように言った。思わず足を止めて、渡月橋がある方角を見る。建物や木に阻まれて、有可の立ち位置からは渡月橋の姿は拝めない。

 その渡月橋を渡った、更に先。渡月橋からのんびり歩いて十分ほどの場所に、安倍晴明墓所はあった。

 わらびは嵐山散策などと言っていたが、結局のところ真の目的は安倍晴明に関するものであったというわけだ。

 墓所は、閑静な住宅街の中にあった。近くには小さな神社があるが、小さな祠があるっきりの無人の神社。場所柄、観光客の姿も全く無い。すぐ近くに日本有数の観光地である嵐山があるという事をうっかり忘れてしまいそうだ。

 こじんまりとしているが、一人のだめだけと思うと広く思える墓所の出入り口には「陰陽博士 安倍晴明公 嵯峨御墓所」と刻まれた石碑。その文字に、安倍晴明がただの物語の登場人物ではなく、歴史上実在した人物なのだと有可はひどく実感した。

 神社に祀られているほどの人物にしてはささやかに思えるサイズの墓石には、はっきりくっきりしっかりと五芒星の紋様。これで安倍晴明の墓でなければ詐欺だと叫びたくなるところだろう。

 そう言うと、わらびは「そうであろうな」と苦笑した。

「晴明坊ちゃんには、お子もおったし、その先の子孫も生まれておる。それ故、晴明坊ちゃん以外の者が五芒星を刻んだ墓に眠っておっても、何もおかしくは無いのだが……いかんせん、晴明坊ちゃんが五芒星とセットで有名になり過ぎたきらいはあるのう。晴明神社の社紋も五芒星故、五芒星が刻まれていれば晴明坊ちゃん、と思う者は少なくあるまい」

 そう言うわらびに、有可は「だよなぁ」と返した。そんな彼に、「ところで」と言いながらわらびがずいっと迫った。鼻と鼻がくっつきそうな距離に、思わず有可は仰け反ってしまう。

「ユウカ。先ほどの言葉はどういう意味かのう? 墓があったんだな、とは?」

 声が、少々怒気を含んでいる。

「まさか。晴明坊ちゃんほどのお方の墓が無いとでも? 死んでも墓を作ってもらえぬほど人望が無いとでも思うておったわけではあるまいな?」

「考えるわけないだろ、そんな失礼な事! ……そうじゃなくて。平安時代の人のお墓ってあんまり聞いた事無いから、残ってたんだ、と思って。それに、安倍晴明っていうと物語とか神社のイメージが強いしさ。あ、お墓がある、実在した人物なんだって」

「何をわかりきった事を……」

 そう言うと、わらびは有可から少しだけ離れ、呆れたようにため息を吐いた。

「墓石が今のような形になったのは、平安の都が栄えていた時よりもずっと後の事。晴明坊ちゃんが活躍していた時代にはまだ火葬や埋葬自体、庶民とは無縁のものであったのだぞ? 墓はあっても、精々卒塔婆のような木製の物。千年も屋外で野ざらしになっていれば、朽ちて然るべきであろう」

「え? いや、庶民って。安倍晴明って貴族……」

「貴族と言えば貴族だが、下級貴族よ。晴明坊ちゃんの晩年の位階こそ従四位下でギリ貴族と言えた……が! 平安時代の律令上、真に貴族と言えるのは三位以上の官人。これが「貴」と呼ばれる、いわゆる上級貴族。それに対して四位、五位は「通貴」と言って、特権はまぁあるが、貴族としては下位と言えよう。そして、六位以下は最早貴族ではない。下級官人じゃ。ちなみに、陰陽師の属していた陰陽寮の責任者とも言える博士……陰陽博士や晴明坊ちゃんも任じられた天文博士は正七位下。部下の陰陽師は従七位上。決して高位ではない。……儂の言わんとする事の意味がわかるか、ユウカ?」

 鼻息荒く一気につらつらと言ってのけたわらびが再びずいっと迫ってくる。有可はイナバウアーでもできそうなぐらい仰け反りながら、「あー、えー、あー……」と言葉にならない声を発するしかない。やがてしぼり出した言葉も、何とも自信が無さげであった。

「えーっと……貴族だった期間はそれほど長くないから、貯蓄的にも対外的にも、どちらかと言えば庶民寄りで、火葬して埋葬してもらえるような身分じゃなかった……とか?」

「違う! 本来精々七位止まりの陰陽師でありながら従四位下まで上り、上級貴族でもないのに死後このような立派な墓を建立された晴明坊ちゃんはすごかろう、という話しじゃ!」

 途端に、有可はずるっとずっこけた。こけた勢いで大事なカメラが地面に落ちそうになったのを慌てて受け止めつつ、「おい」と思わず突っ込む。

「三位とか七位とか、位階の話はどこに行ったんだよ! 正直半分も理解できてないけど、何とか聞いた話のオチが坊ちゃんすごいって、そんなんありか!」

 ツッコミを叫んでから、有可は「って言うか」と気持ちを切り替えた。

「なんでまた、墓参りなんてしようと思ったんだ? わらびが住んでる一條戻橋は晴明神社のすぐ近くなんだし、わざわざ墓まで来る必要は無いと思うんだけど」

 ……と言うか、そもそも安倍晴明から任じられた役目を果たす事ができずにいるから顔向けができないというような事を言っていなかっただろうか。

 そう問うと、わらびは何やら決まりが悪そうに「うむ……」と唸った。

「そう……たしかに儂は、晴明坊ちゃんから任された使命を中々果たす事ができずにいた。それ故、晴明坊ちゃんに顔向けができず、近くにありながら晴明神社に足を踏み入れる事もできなんだ。じゃが……墓であれば話は別よ! 近寄る事も、何なら話しかける事までできる! 何故なら、墓の前で泣こうがわめこうが、そこに晴明坊ちゃんはいないからじゃ!」

「そんな一昔前に流行った歌の詞みたいな理由で苦手を克服できるもんか……? ……と言うか、墓にはいないんだ……」

「うむ。晴明坊ちゃんは人気者でお忙しい故……最近は神社の方に出ずっぱりでな。墓の方は留守にしがち、というわけじゃ」

 墓に参っても死者の魂はそこにはいない、という詩的な理由ではなく、単純にお留守のようである。

「……その言い方だと、墓や神社がまるで家と別荘みたいなんだけど……」

「あながち間違いではないのう。様々な考え方があろうが、ここに死者の魂がいる、ここに神様がいる、と人々が思い、そのように扱えば、そこは魂や神の居場所となりうる。家のようなもの、という認識で問題はあるまい」

 そう言ってから、わらびはゴホン、と咳払いをした。「とにかく!」と鋭い声音で言うと、話の軌道を無理矢理元に戻した。

「普段晴明坊ちゃんがいらっしゃるのは晴明神社の方が多い故、墓は留守になりがちでな。だからこそ、晴明坊ちゃんに話しかける練習をしやすい。そうは思わぬか?」

「……練習?」

「うむ、練習じゃ!」

 勢いよく頷き、わらびは言った。

「晴明坊ちゃんから任された使命を果たせぬままでは、坊ちゃんに顔向けができぬ。だが、だからと言っていつまでも避けていては良くないとも思うのだ。いざという時、晴明坊ちゃんに臆する事無く話しかける練習をしておくべき。……そう思わぬか?」

 そう言われて、有可は「なるほど」と頷いた。

「それで、ずっと墓に向かって何事か話しかけ続けてたのか……」

 そう。安倍晴明の墓の前で、わらびはずっと言葉をかけ続けていた。

 有可は、「ユウカはそこで待っておれ」などと言われたため、墓から数メートル離れた墓所の入口付近にいた。だから、わらびが何を話しかけているのかはほとんど聞き取れなかった。

 だが、離れていても言葉の切れ端が時折、風に運ばれてくる。

「晴明坊ちゃん、最近、友ができました」

「仁和寺の僧侶を、救う事ができました」

「晴明坊ちゃんから使命を賜って早千年。誰かを救う事ができたのは初めてです」

「友が……ユウカが、力を貸してくれたのです」

 友と呼ばれて、こそばゆい気持ちになった事を有可は思い出した。練習とは言え、安倍晴明に向かって懸命に有可の事を説明しているらしい様子が脳裏に蘇り、思わず頬が緩む。

「……何を笑っておる」

「いや、別に? ……しっかしさ……」

 若干とぼけて見せてから、有可は話題の軌道を変えた。これまでと比べて声音がやや低くなる。目は、渡月橋の更に向こう。安倍晴明の墓がある方角を見詰めている。

「生きてるって、何なんだろうな……」

「……何じゃ。急に重く難しい事を言い出して」

 目を見開いたわらびに、有可は「いや……」と頭を掻く。

「わらびが墓参りしてるのを見ててさ。何か本当に目の前に生きてる安倍晴明がいて、それに向かって話しかけてるように見えたから。……あ、でも。わらびみたいな式神からしたら、相手が生きてようが死んでようが変わらないのかな? あれ?」

 喋っているうちに、何が言いたいのか、自分でもわからなくなってきたらしい。有可は「とにかく」と言って、話を仕切り直した。

「死んでても生きてる時と同じように話しかけられるなら、じゃあ生きてるとか死んでるとかって何なんだって思っちゃってさ」

 有可の脳裏に、数年前に他界した祖父母の姿が蘇る。先に祖母が他界してから、祖父は死ぬまで毎日のように仏壇に向かって話しかけていた。

「今日は、有可がお菓子を買ってきてくれたよ。敬老の日だから、って。とても美味しかったから、お前も早く頂きなさい。ほら、私がお茶を淹れてあげたから」

 などと言って、菓子や茶を仏壇に供える祖父の姿は、そこに祖母がいて、共に茶を楽しんでいるかのようだった。思わず、祖母がひょっこりと顔を出すのではないかと思って辺りを見渡してしまったぐらいだ。

 常識的に考えて、死者はそこにはいない。式神であるわらびと出会い、仁和寺の僧侶の霊と行動を共にする経験を積んだ今なら、「ひょっとしたらそこにいるかもしれない。何なら、見える」と思うようになったが……これはかなり特殊な例だ。普通の、霊が見えない人間にとって……死者は、そこにはいないはずなのだ。

 だと言うのに、式神であるわらびも、ごく普通の人間であったはずの祖父も、当たり前のように死者に向かって話しかけていた。生きている者と同じように、話しかけていた。

 そう言うと、わらびは「うむむ……」と難しそうな顔をして唸った。苦い物を食べた時のような口になっている。

「……俺、そんなに変な事言った……?」

 不安になって問えば、「いや、そうではない」と曖昧な答えが返ってくる。

「ユウカの疑問はもっともじゃ……が。説明しようにもどう言えば良いものやら……」

 そう言いながらも、首をひねったり唸ったりしながら言葉を探してくれている。考えすぎるあまりか、時々頭からぴょこんと狐の耳が飛び出してくるのは流石に周りの目が気になって肝が冷えるのだが……。

「ここは、一つずつ例えて話していくしかあるまい」

 観念したかのように呟くと、わらびは「まず」と呟いた。

「儂や晴明坊ちゃんの例で言うとだな。どちらも、肉体的には死んでおる。だから、ユウカのように霊を見る事ができる人間でない限りは、普通にしておったら儂や晴明坊ちゃんの姿を見る事も、声を聞く事もできぬ。これはわかるな?」

 有可はこくりと頷いた。流石に基本の部分であるし、これが理解できなかったら恐らくこの後の話は全く理解できないだろうと思う。

 その様子を確認して頷き返してから、わらびは言葉を続けた。

「じゃが、人間は肉体以外にも生きる、死ぬという言葉を使う事がある。そうであろう?」

 そう言うわらびの右手が、胸──心臓の辺りに当てられた。有可は「あぁ」と呟いて、そして彼もまた右手を心臓の辺りに当てる。正解と言うように、わらびが頷いた。

「そう、心よ。よく言うであろう? 心が死んでいる、とか。心の中で生きている、とか」

 有可が再び頷くのを見て、わらびは更に言葉を続ける。

「無気力、無感動になっている、とか。体は生きて元気であっても、何事にも興味を持てず感動できず、ただ目の前の作業を淡々とこなし続けるようになったら……それは、心が死んでいるのかもしれぬな。儂が見たところ、今のこの国には心が死んでおる者は非常に多い。それ故、儂の出番も多いだろうと思っておったのだが……」

 わらびの声がだんだん沈んでいく。有可と出会うまで成果ゼロだった事を、未だに気にしているらしい。

「無気力、無感動……か」

 呟き、有可は軽く唸った。何故か、その言葉に心がざわつく。

「心が生きている死んでいると言えるのも、体が生きていてこそ。体は死んでいるが心は生きている、というのは、通常は無かろう」

 体は死んでいるが心は生きている状態……超ハイテンションな幽霊の姿を想像してしまい、有可はぶんぶんと首を振った。

「どうした? 死んでいて顔色は悪いのにパリピな様子でひゃっはーと叫んでいる幽霊でも想像したか?」

 心を読んだかのようなわらびの問いに、有可は慌てて「いや、なんでも!」と返す。パリピなんて言葉、普段は橋の下に住む式神が、一体いつどこで覚えたのだろうか。

「まぁ、そのような霊もいる。死んだ者全てが悲壮感溢れる顔をしているわけではなく……死んだら死んだで死者なりの楽しみを見付けて楽しむ者もいるし、むしろ死んでからの方が生きている時の束縛から解放されて明るくなる者だっている。ただ、生きている者には通常霊の姿は見えぬし、霊は皆暗く沈んだ顔をしているというイメージもあろう。それ故、体は死んでいるが心は生きている、というのは通常は無いと言ったのじゃ」

 そこまで説明してから、かなり脱線してしまったと気付いたのだろう。わらびは間が悪そうに咳払いをすると「最後に」と言った。

「心の中で生きている。死んでしまっても、何なら最初から現実には存在していない創作上の人物だとしても。誰かの記憶や知識の中にその者がいて元気に活動しておれば……それは生きているのと同然という事になる。死者や、神話に登場する神々の事を生きているという時はほとんどがこのパターンになるのではないかのう? 生きている者達からすれば、晴明坊ちゃんや儂もこのパターンに属する事になる」

「……そっか。当たり前のように喋ってるし、俺以外の人間とも喋れてるから実感無かったけど……式神だもんな。普通に考えたら想像上の存在だから、霊はいないと思ってる人間からしたら体が生きてるのも心が生きてるのも有り得ないんだ」

 有可からすれば、わらびはこんなにイキイキと喋っているので、体は死んでいるが心は生きているパターンのように思える。なんなら、体も生きているように見える。

 気合いを入れれば霊感の無い人間にも見えるようになるわけだし、そう思ってしまっても無理の無い事なのかもしれない。

「……故に」

 わらびの顔が曇り、声が硬くなった。

「人々の記憶から消えれば、死者も、神々も死ぬ。死者を知る者がいなくなり、役所や銀行などに残っていた記録が期限を迎えて処分されれば、その者はこの世から永遠にいなくなってしまうであろう。そして……人々が信仰しなくなり、その存在を忘れてしまう事で神は死ぬのだ」

 その言葉に、有可はなんとなくではあるが、わらびが安倍晴明に任じられた使命とやらを果たせていなかった事を気にしている理由がわかった気がした。

 忘れられたら、神は死ぬ。だから、忘れられないようにしなければいけないのだ。

 わらびが生きている人を救う事ができれば、それは延いては安倍晴明が救ってくれた事になる。そうなれば、救われた者は安倍晴明の神としての力を認め、信仰してくれるようになる。信仰されている間は、忘れられる事は無い。

 仁和寺の僧侶を救った事で「初めて使命を果たせた」と喜んでいた割には、中々成果が出ずにいた事を未だに気にしていた。

 救う事ができたのは純粋に嬉しいが、霊である僧侶を救っても信仰には繋がらない。わらびにしてみれば、複雑な心境だったことだろう。

 今のところ、漫画やアニメ、ゲームにドラマ、フィギュアスケート等の影響で陰陽師……と言うか、安倍晴明の認知度は安定しているように思う。だが、安倍晴明に仕える式神であるわらびは、気が気ではないだろう。今人気があっても、それが未来永劫続くとは限らないのだから。

 人気が無くなり、人々に忘れられてしまった神は死ぬ。消えてしまう。そうならないよう、わらびも必死なのだろう。

 少し考えてから、有可はため息を吐いた。ただの呟きから結構な長講釈になったためか、頭が整理の時間を欲している気がする。

「体が生きてれば生きているっていうのは、わかりやすい。心が生きているか死んでいるかっていうのは、ちょっと難しいな……。体は生きてるけど心が死んでたりしたら、その人が生きてるのかどうか、どうやって判断したら良いのかわからないって言うか……」

 体が生きていれば、心が死んでいても生きているとみなして良いのか。心が生きている霊は、果たして生きていると考えて良いものなのか。

「ほれ。だから難しいと言うたではないか」

 頭を抱えてうんうん唸りつつ考える有可に、苦笑しながらわらびが言った。

「生者と死者の違いなんぞ……体の生き死に以外の答えを求めだしたら、はっきりと具体的に定義できる者なんぞおるまいて。言ったら悪いが、考えても埒が明かぬぞ?」

 言外に、「あまり深く考えるな」と言っている。恐らく。どれだけ考えたところで答えが出る事はなく、ただ時間だけが無為に過ぎていくことになるのだろう。

 有可は「わかった」と返し、だがすぐに「ただ……」と繋げる。

「これだけは、聞いておきたくて。……あの、さ。最後の……忘れられなければ、いつまでもその人の心の中で生きていられるっていうの。……そういうのってさ、才能はいるのかな、やっぱ?」

 その問いに、わらびは「は?」と目を見開いた。有可の言う「才能」が何を指しているのか、掴みかねている、という顔だ。

「才能……才能か……うむ。まぁ、ある意味いる、と言えようなぁ」

 その答えに、有可は「やっぱそうか……」と何やら残念そうな顔をする。その真意はわからないが、何やら齟齬が生じている、と察したのだろう。わらびは「これこれ」と言って苦笑した。

「何か、勘違いをしておるだろう? たしかに、死んでも尚、人に忘れられぬ者でいるには才能は必要だと、儂は思う。……が、それは別にわかりやすく活躍や儲けに繋がるような才能とは限らぬぞ?」

「……と、言うと?」

 有可が首を傾げると、わらびは「たしかに……」と呟く。

「スポーツや芸事のようなわかりやすい才能を持つ者は、印象に残りやすい。活躍によっては人々の記憶だけでなく、記録にも残るしのう。だが、才能と言えるのはそれだけではなかろう?」

 例えば、と言って、わらびは先ほどまでいた駅舎を指差した。年配の女性が、学生と思わしき青年に向かって何度も頭を下げている。わらびは、しばらくの間耳をそばだてていたかと思うと、言った。

「どうやら、混雑する電車の中で、あの青年が老女に席を譲ったらしい。更に、荷物が重くて改札を通るのも苦労しそうだとみて、改札を出るまで荷物を運んでやったようじゃの。老女は、とても助かったと喜んでおる。ここに家族が迎えにきてくれる予定だから、もう大丈夫とも言うておるな」

 そう言うと、わらびはくるりと回るようにしながら、有可の方を向いた。

「あれもまた、一つの才能よ。席を譲り荷物を運んでくれた青年の優しさを、老女はすぐには忘れぬであろう。青年とて、席を譲り荷物を少し運んだだけであそこまで喜んでくれた老女の事は簡単には忘れまい。二度と会う事が無くとも、互いにどこの誰かも知らずとも、あの二人はきっと、互いの事を長く覚えておる。これもひとえに、青年の優しさや老女の素直さ、礼儀正しさがあればこそ。益も人の目も無い場で他者に優しくできるのも、素直に喜び礼を言い、誰が相手でも礼儀正しく振る舞えるのも才能であると。儂はそう思うがな」

 そしてわらびは、「そなたは、どうだ?」と問うた。

「えっ、俺?」

「うむ。ユウカだって、何かあろう? 儲けには繋がらずとも、これが己の取り柄であると言えるような才能が。忘れられぬ者になるために才能が必要だと思うのであれば、まずはそれを磨いてみれば良いのではないか?」

「取り柄……俺の取り柄……」

 ブツブツと呟きながら、考える。そして、顔を少し曇らせたかと思うとパッと輝かせて、有可は「あっ」と小さく叫んだ。何か思い浮かんだようだ。

「根性かな。上手くいかなくても諦め悪く続けるし、根気の要る仕事も夜遅くまで残ってでも頑張ってくれてるって言ってもらった事が……」

 言いかけたところで、有可は言うのを止めた。わらびが何やら、変な顔をしている。

「根性……根性なぁ……」

「……俺、何か変な事言ったか?」

 不安になって、問うてみる。だが。

「……うむ。まぁ、変な事と言うか、何と言うべきか……」

 わらびらしくもない。やけに曖昧で、奥歯に物が挟まったかのような言い方をする。その様子に有可が首を傾げると、わらびは観念したかのように口を開いた。それでも尚、言葉を探しているような顔をしている。

「悪気は無いという事は、先に言うておくぞ? 根性というのは、たしかに取り柄と言えよう。だがな? 他の何物にも言える事ではあるが、根性というのは特に短所にもなりやすいもの故……」

「短所?」

 聞き返せば、「うむ……」と勢いの無い返事。やはり、煮え切らない。再び首を傾げた有可に、わらびは「良いか、ユウカ?」と語りかけた。

「根性があるというのは、悪い事ではない。何事も諦めず、粘り強く、コツコツと続ける。素晴らしい美徳であると、儂は思う。だがな、何事にも限度というものがあるものよ。根性だけを頼りに無理を続けようものなら、体を損ないかねぬ」

 そう言うと、わらびは少し背伸びをして、有可の両肩を手でしっかりと掴んだ。目が、まっすぐに有可の目を見ている。

「根性を誇るのも良いが、それだけを武器にしてはならぬ。努々、忘れるでないぞ」

 その真剣なまなざしに、有可は思わず頷いた。ひょっとして、過去に誰か近しい人が亡くなるような事でもあったのだろうか。それで、こんなにも真剣な表情で忠告をしてくれているのだろうか。

 深い部分を尋ねる事ができないまま、有可はもう一度頷いた。それに頷き返してから、わらびは「さて」と呟いた。

「このような道ばたに、ずいぶんと長居をしてしまったのう。……そろそろ行くぞ、ユウカ。いつまでも話し込んでいては、バスに乗り遅れてしまう故」

 そう言うと、わらびはくるりと体の向きを変え、スタスタと歩き出してしまう。その先では、僧侶とたつ、源太がそわそわとした様子でこちらを見ている。

 立ち止まったと思ったらいつまでも話し込んでいる有可とわらびに何かあったのか、と心配してくれているようだ。それでも近くまで様子を窺いに近付いてこなかったのは、話の内容を勝手に聞いてはいけないと配慮してくれたのだろう。

 それはさておき。

「……え、バス? 乗るの? 幽霊様ご一行+αで?」

 しかも、ご一行のうち半数は恐らく現代文明に疎く、バスにも乗った事が無い。引率はわらびがしているから大きな問題は起きないだろうが、絵面を想像すると結構シュールだ。もしバスが混んでいて、霊達と他の乗客の体が重なるなんて現場を見てしまったら、平静を保っていられるだろうか。

「ユウカ、何をしておる? 置いてゆくぞ!」

 要らぬ事を考えている間に、わらび達との距離がかなり空いてしまった。

「あ、悪い! 待ってくれ!」

 我に返って、有可は慌てて後を追う。目的の便かはわからないが、遠くからバスがやってくるのが見えた。

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