第2歩 人と式神、仁和寺にある法師
せっかく近くに来たのだから、と、戻橋からまずは晴明神社へ。わらびは
「未だ何も成していない故、晴明坊ちゃんに合わせる顔が無い」
などと言って境内に入ろうとしない。あまり長く外で待たせるのも申し訳無く、有可は参拝を終えると授与所でお守りを授与してもらう事も、境内にある公式グッズの店に寄ることもせずに外へ出た。ショップから聞こえてくる雅楽の音に後ろ髪を引かれるが、今は仕方がないと自分に言い聞かせる。
まずは、堀川通を少しだけ北上。今出川通に出たところで左折し、しばらく直進。今出川通と千本通が交わる、千本今出川の交差点に辿り着いたところで、バス停から系統10番の市バスに乗り込んだ。
そこから乗り換える事無くバスに揺られる事、およそ四十分。バスから降りた有可は、その門構えを見て「ひぇっ」と呟いた。
「む? どうしたのだ?」
「いや、その……想像していたよりも、遙かにでかい門だから、つい……」
そう……まず、門──二王門が大きい。その大きな門の前には頻繁にバスが停まり、観光客と思わしき人々が降りてきては門の中に入っていく。その逆もまた然りで、多くの人々がバスが到着する度に乗り込み、京都の街中のどこかへと移動していく。
間断なく人々が入れ替わる様子に目を白黒とさせつつ、有可は門からそっと内側を覗く。そして、その敷地の広大さに再び「ひぇっ」と声を発した。
「どうした。入らぬのか?」
「いや、その……門が立派だし、中は広いしで、気圧されたと言うか……」
そう言うと、わらびは少々呆れた顔をする。
「なんだ。ユウカは案外、臆病者なのだな」
「ほっとけ」
「……ほう。仏を拝む場所で、〝ほっとけ〟か。これまた、上手い事を言う」
「……え? あ、いや別に上手い事言おうとしたわけでなく……」
しどろもどろになる有可の様子をしばし面白そうに眺めたところで、わらびは「時に……」と言葉を発した。
「入るのにまだかかるようなら、この者と話をしていても良いだろうか?」
「……え? この者って……?」
呟き、そして有可はわらびが指し示した先を見た。
わらびの指が指し示す先には、二王門……の少し手前、向かって左手側に見える、台座も含めれば人間の背丈の三倍はありそうな石碑。「総本山 仁和寺」と刻まれている。その台座の陰に、何やら黒い影のような物が見えた。
それは、よく見たら人だった。暗い顔をして、いわゆる体育座りで蹲っている。僧侶なのか、頭の毛は全て剃られている……と言いたいところだが、剃り残しや生え始めと思われる短い毛があちらこちらにちょろちょろと生えている。髭も同様で、無精髭になっている。身に纏った黒い僧衣もぼろぼろで、足に履いているのは草履ではなく草鞋だ。
「……えーっと……」
「どうした?」
わらびの問いに、有可は言葉を探す。
「話の流れ的に、霊……なんだよな? あの和尚さん……いや、お坊さん?」
「どちらが正しいか、と問われたら、お坊さんであろうな。お坊さんであれば仏門に入り修行している者全般に対して使うが、和尚というのは少なくともこの国では高僧への敬称とされておる」
へぇ、と呟き、有可は本題に入った。
「……で。ここ、お寺だよな?」
「うむ。ここをアミューズメントパークと思うような者は、よもや居るまいて」
わらびの言葉に、有可は「だよな」と返す。
「お寺に坊さんの霊がいるってどうなんだ、と思わなくもないんだけど……?」
「まぁ、世の中何事にも例外はあるものよ。それに、門を潜っておらぬ故、ここは寺の外だと言い張れぬ事も無いからな」
「……そうかなぁ……」
納得がいかない顔をする有可に、わらびは「それに」と言葉を足した。
「僧侶の姿をしているという事は、生前は僧侶だったのであろう。……となれば、経も読み慣れているだろうからな。成仏するように経を読まれても、慣れているのであれば成仏に至らなくとも致し方なし……と思わぬか?」
「……うん、まぁ。ここは寺じゃないと言い張る……という意見よりは納得できるな……」
頷き、そして改めて蹲る僧侶の霊を見た。ボロボロの僧衣姿や蹲った体勢のせいもでもあるだろうが、とにかく雰囲気が暗い。周囲に人魂が飛んでいるようにすら見える。
「……何と言うか……」
「うむ。どう見ても困りごとなり悩み事なりを抱えておるな」
そう言うや、わらびはとてとてと僧侶の霊に近付いていった。そして、何の迷いも躊躇いも無く「のう」と声をかける。
「そこな御坊。何をそのように悩んでおるのだ?」
かなりストレートな問い掛けだな、と思いながら、有可は事の成り行きを見守った。わらびの声が届いたらしい僧侶はのろのろながらも頭を持ち上げ、わらびの事を仰ぎ見た。
「あなた方は……?」
悩み疲れた事が嫌でもわかる、老いた声。顔全体に刻み込まれた、深い皺。僧侶は、かなりの高齢であるようだ。
「儂の名は、わらび! 訳あって悩みを抱えし人々を救うために京を練り歩いておる、式神よ」
「式神、ですと……?」
僧侶の目が見開かれた。たったあれだけの言葉でわらびが式神であると信じたという事は、霊などの存在を信じ、恐れていた時代の人物か。
「左様。それ故、何も言われずとも御坊が悩みを抱えている事を見抜く事ができた、というわけよ」
……いや、式神でなくとも、誰が見ても明らかに悩みを抱えている様子だったと思うが。
そんなツッコミを、有可は密かに飲み込んだ。それを知ってか知らずか、わらびは胸を張って僧侶に言う。
「御坊の悩み、儂とここに居るユウカが解決し、御坊の事を救ってみせようぞ。さぁ、御坊の悩み、儂らに話してみせるが良い!」
人によっては反発心を抱いて何も話してくれなくなりそうな物の言い方だが、この尊大さが逆に頼もしさでも覚えさせるのであろうか。僧侶は「実は……」と言葉を紡ぎ始めた。
「私は、生前はこの寺で修行をしておりました……」
僧侶が言うには、それが何年前の事であったかは記憶が定かではないらしい。自分が死んでからの年数を数え切れなくなるほど昔に生きていた、という事だろう。
「ある日のことです。私は、かねてより詣でてみたいと思っていた石清水八幡宮へと行く決意をいたしました」
「……え、それって。ひょっとして、「仁和寺にある法師」……?」
「知っておるのか?」
「知ってるも何も。中学の時、国語の教科書に載ってたんだよ。たしか、徒然草だったと思うけど……」
言って、有可はスマートフォンを取り出すと検索アプリで「仁和寺にある法師」について調べ始めた。教科書に載っていた事は覚えているのだが、肝心の内容はうろ覚えだ。
検索して得た情報を頭の中でまとめ、わらびに伝える。要約すると、こういう事だ。
昔、仁和寺のある年老いた僧侶が、一度は石清水八幡宮に詣でてみたいと考え、徒歩で石清水八幡宮へと向かった。尚、スマートフォンの地図アプリで距離を調べたところ、仁和寺から石清水八幡宮までは、徒歩で大体四時間から四時間半かかるらしい。
その距離を無事に歩ききった僧侶だが、なんと麓にある極楽寺と
僧侶は帰ってから、参詣者はみんな山に登っていたが、山には何があるのだろう。と人に言ったという。だが、その山の上にある建物こそが、石清水八幡宮の本殿なのだ。
「案内者がいればこんな失敗はしなくて済んだのにね」と、この話は結ばれている。
有可が概要を語り終えた、その時だ。しくしくと、すすり泣く音が聞こえてきた。見れば、かの僧侶が文字通り洟をすすりながら涙を流している。
「えっ⁉ ちょっ……俺、なんかまずい事言っちゃったか……?」
うろたえながら有可が問うと、僧侶は「いいえ」と首を振る。
「ユウカ殿は、何もおかしな事など……。ただ、今のユウカ殿のお話しを聞いていて……改めて己の情けなさを実感した……。それだけでございますよ……」
その言葉に、有可は再び「えっ」と呟く。
「じゃあ、やっぱり……?」
はい、と僧侶は涙ぐみながら頷いた。
「そこで語られている、〝ある法師〟とは……ほぼ間違い無く、私のことでございましょう。私はたしかに石清水八幡具を訪った際、麓にある立派な建物を見ただけでそこが目的地だと思い込み、満足して帰ってしまいましたので……」
そう言ってから、僧侶は再びぐすりと洟をすすった。
「何故、私は出掛ける前に誰かに石清水八幡宮の話を聞いておかなかったのか……。このように大きな寺です。訊けば、石清水八幡宮は山の上にあると教えてくれる人がきっといたでしょうに……。何故あの時、私は山を登る人々に「どこへ行くのか」と問わなかったのか。訊けばきっと、誰かが山の上にある石清水八幡宮を目指すのだと教えてくれたでしょうに……」
そこで僧侶は、湿り気のある深いため息を吐いた。
「私が一人で行けるなどと見栄を張らず、頭を下げて教えを請うておれば……。もしくは、常日頃より周りと親交を深めておけば……。そうすればまた異なる結果を得られたのではないか、と思いますと……」
そう言って、またしくしくとすすり泣く。だが、これでわかった。この僧侶、恐らくは人付き合いが苦手なタイプなのだろう。……いや、人付き合いというよりも、人に自分から話しかけるのが苦手なタイプか。そのために、石清水八幡宮へ行く際に気を付けるべき事も、山に登る人々がどこを目指すのかも、誰にも訊く事ができなかったのだ。
そして、彼は今それを、悔いている。人に尋ねていれば、石清水八幡宮をちゃんと訪れる事ができ、このように失敗を後世まで語り継がれずに済んだのに、と。
「それで……御坊。そなたの悩みはなんなのだ? もし歴史上残る書物という書物からその「仁和寺にある法師」とやらの文章を消す事ができないか、という悩みであれば、悪いが聞けぬぞ。儂には、世界各地に広まった書物を誰にも気付かれずに回収し、全て書き換えて元の場所に戻す……などという真似はできぬぞ。やってしまった事を、無かった事にはできぬ故」
意外だ。てっきり、早く一つでも多くの悩みを解決したくて、どんな無茶な悩み事でも飛びついて引き受けてしまうだろうと思っていたのだが。わらびは、できない事はできないと、きっちり断れるタイプのようだ。
「なにを意外そうな顔をしておる。儂が、早く事を進めようと、見境無く霊達の話に飛びつくとでも思っておったのか?」
「い、いや……そういうわけじゃ……! そりゃ、たしかにちょっと意外とは思った事は否めないけども!」
「やはり意外と思っているのではないか! 儂を誰だと思うておる! 天下の大陰陽師、安倍晴明坊ちゃんのお力によって姿を得た式神ぞ! 万事においてそつなくこなせるに決まっているではないか!」
本気度は不明だが、怒らせてしまった。思わず有可は目を逸らし、わらびは「やはりか」と言って目を眇める。その様子に、僧侶は目を細め、静かに笑った。くすり、という笑い声が聞こえ、有可とわらびは反射的にそちらを見る。
目を丸くする二人に、僧侶は「失礼をば」と頭を下げた。
「お二人のやり取りを見ていたら、こう……久方ぶりに、楽しい気持ちになって参りました。恐らく、お二人のやり取りが本気のいがみ合いではなく、互いを傷つける気の無い、温かみのある掛け合いに感じられるから……なのでしょう」
そう言われて、有可とわらびは揃って互いの顔を見、「そうだろうか」と言うように首を傾げた。その様子に、僧侶はまた笑う。そして、ぽつりと呟いた。
「お二人になら……」
「……え?」
聞き返した二人に、僧侶は口元を緩めて言った。
「お二人に話せば、私の悩みも晴れるかもしれない……。今、お二人の他愛のやり取りを見ていて、そう……思いました」
有可とわらびは、再び顔を見合わせた。そして、わらびはニッと明るく笑うと、「よし!」と叫んで掌を打ち合わせる。パン! と乾いたいい音がした。
「それでは、早速話を聞こうではないか。御坊、そなたは一体、何を悩んでおるのだ?」
わらびの問いに、僧侶は一瞬、言い淀んだ。だが、黙っていても悩みは晴れぬと腹を括ったのだろう。口を開き、「実は……」と声を発した。
「石清水八幡宮に、再び行ってみたいと思っておるのです」
その答えに、二人は「へ?」と呟いた。わらびが、いかにも不思議そうに首を傾げる。
「……行けば良いのではないか? 別に今は入山が規制されておるわけでもなし。以前行った事があるのであれば、道や景色は様変わりしているかもしれぬが、大体どの方角へ行けば良いかはわかるであろうに」
「……もうちょっと言い方とか考えてやれよ……」
あまりにも直截な物言いに、有可は堪らず言葉を挟んだ。「行けば良いのでは?」という意見には有可も同意せざるを得ないところだが、ひょっとしたら何か事情があるのかもしれない。
「……む。たしかに。済まぬ、御坊。今の儂の言葉は、御坊への配慮が足りなんだ」
「いえいえ。私も言葉が足りのうございました。先ほどの言い方では、そのようにお感じになるのも至極当然の事……」
そう言って僧侶は息を大きく吸い、そして吐く。死んでいる霊でも、緊張すると深呼吸をするんだな……と有可は場違いな事を考えた。
「先ほど申し上げた通り、私は以前登らずに帰ってしまったお山を登り、今度こそ石清水八幡宮にお参りをしたいと願っております。しかし、いざ石清水八幡宮を目指そうとすると、いつも考えてしまうのです。石清水八幡宮へ行こうと考えるのは良いが、もしも再び思い違いをして、お参りをせずに帰ってしまったら? そうならないためにも、共に石清水八幡宮へ行ってくれる仲間が欲しい。しかし……」
「霊の身では共に行ってくれる仲間を探すのもひと苦労。生きている人間はそなたの姿が見えぬ者がほとんどで、たまにいたとしても共に行くのは了承してくれず……もしくは都合がつかない、と言ったところだろうか」
「じゃあ、霊に一緒に行ってもらえば良かったんじゃないのか? 霊なら姿も見えるし話も聞けるし、都合が悪いって事も無いんじゃ……」
そう言ってみると、僧侶はふるふると首を横に振った。
「霊になるという事は、死んでも死にきれぬほどの未練を抱えている、という事ですから……」
「皆、自分の想いだけで精一杯。他人の悩みに付き合えるほどの余裕は無いと言えよう」
それで、同道してくれる者が見付からないままに数百年が経ってしまった。その説明に、有可は「そっか……」と呟いた。
「儂は構わぬぞ。御坊と共に石清水八幡宮へと詣でるのも一興と言えよう。それで御坊の悩みが晴れるのであれば、安いものよ」
「良いのですか? ……ありがとうございます、わらび殿……!」
「涙を流すほど感激せんでも良い、良い。それよりも、無事に悩みが晴れてあの世へ出向いたあかつきには、あの世におわす晴明坊ちゃんに是非とも伝えておくのだぞ。晴明坊ちゃんの式神、わらびは、坊ちゃんとの約束を守り困っている人々を助ける役目を立派に果たしておると!」
「もちろんでございます!」
互いに嬉しそうにしながら話すわらびと僧侶を横目に、有可はスマートフォンを取り出した。すいすいと操作し、交通案内のアプリを呼び出す。
「ここからだと……一旦京都駅に行って、そこから行くのがわかりやすいか……? 御室仁和寺のバス停で系統26のバスに乗れば、乗り換え無しで京都駅に行けそうだな……」
ブツブツと呟いていると、わらびと僧侶が揃って怪訝な顔をした。その支線に気付き、有可は「ん?」と首を傾げる。
「どうした? 変な顔して……」
「ユウカ殿も、来てくださるのですか……?」
「え? あ、まぁ。乗りかかった船だし、この後の予定もざっくりとした感じで、あって無いようなものだったし。まだ昼前だから、帰りもそんなに遅くならないだろうし電車も混んでないだろ」
そう言うと、僧侶は感極まった顔をする。わらびと、有可と。二人もついてきてくれるとは思っていなかったのだろう。そんな僧侶の横では、わらびが相変わらず怪訝な顔をしている。
「しかし、ユウカ……。先ほど仁和寺へ来る時も思ったのだが……何故わざわざバスや電車を使うのだ? 霊なのだから、飛んでいった方が早いと思うのだが……」
「アンタとお坊さんは霊でも、俺は人間だから飛べないんだよ!」
思わず叫ぶと、わらびはハッと息を呑んだ。雷に打たれたように目を見開いて言葉を失っている。
まさか、こんな基本的な事を失念されていたとは思いもよらなかった有可の方こそ、目を見開きたい気分である。
「まぁ、良い。ユウカが来ると言うのであれば、儂らだけが飛んでいくわけにもいくまい。電車やバスはこちらの都合では動いてくれぬからな。乗り遅れたりせぬよう、速やかに駅へ向かおうではないか」
ちなみに、バス停に限って言えば、今居る場所の目の前だ。見れば、丁度バスがやってくるところである。騒ぎになるといけないので、車内では有可から声をかける事はできないと予め断って。一行はバスへ乗り込んだ。
旅の思わぬ展開にそわそわしつつ、有可は手元のカメラをそっと撫でた。そして、そんな有可を、何故かわらびが、じっと見詰めていた。
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