戻橋下のお助け狐~式神随行京歩き~

宗谷 圭

第1歩 桜とカメラと一條戻橋の下

 鮮やかなピンク色が、青い空に映えている。時は三月上旬、所は京都市上京区。堀川に架かった一條戻橋の傍らに佇む河津桜は、今年も見事としか言いようがないほどに咲きこぼれている。

 道行く人々は足を止め、ある人は花の様子に顔をほころばせ、ある人は楽しそうにスマートフォンのカメラを向ける。

 早咲きの桜が姿を見せるこの時期の一條戻橋は、一年のうちでも一等賑わっている。

 そんな平和で賑やかな橋の下。美しい桜には目もくれず、橋板でできた薄暗がりをじっと見詰める若者が一人。

 年の頃は、二十代の半ばぐらいであろうか。清潔感はあるが華やかさには欠ける顔立ちで、背も高からず低からず。ジーンズにタートルネック、上にダッフルコートを引っかけたような服装で、あまりにも特徴が無い。

 手にはCanonのロゴが入ったカメラを持っており、そのファインダーは薄暗がりを向いている。黒いボディに大きなレンズを装着したそのカメラは、素人目に見てもいわゆる一眼レフなどの高性能で良いカメラなのだという事がわかる。時々ピピ、という電子音が聞こえるので、フィルムではなくデジタルカメラなのだろう。このカメラが、若者の特徴であるとは言えるかもしれない。

「さてもさても、奇っ怪な。見事に咲いた河津桜がすぐそこにあるというのに、見向きもせずに何も無い橋の下へカメラを向けるとは」

 どこかから、楽しげに言う少女のような声が聞こえた。しかし、誰かの姿は見受けられない。

 だが、若者は誰もいないのに声が聞こえた、という事実には気付かない。暗がりを見詰めるのに忙しそうだ。ただし、やや芝居がかった言葉遣いに一瞬「ん?」という表情を見せたので、完全に集中しているわけではなさそうだ。

 集中をやや欠いた表情のまま、若者はカメラのシャッターを切り続ける。ピピ、ピピ……という電子音が、青空の下でしばらく続いた。

 やがて、若者は少し疲れた顔を上げ、カメラを下ろした。はぁ……と、深いため息が漏れる。その生気の無いため息に、またもどこからか声が聞こえた。今度も、何が楽しいのか、楽しげな声だ。

「おやおや。ずいぶんと疲れておるのぉ。だが、致し方あるまい。あんなにも力んだ体勢を続けておれば、疲れるのも道理よ。一体、何をそんなにも真剣に撮っているのやら」

 その言葉に、若者はのろりと右手を持ち上げると、そのまま己の右方向を指差した。そこには、一つの看板が立っている。

 看板と言うには、妙に立派だ。掲示物を支える二本の柱は、石でできている。石の表面はツルツルしていて、周りの建造物と比べると明らかに綺麗で新しい。

 その看板の冒頭には、大きな文字でこう書かれていた。〝伝説の橋「一条戻橋」〟と。

 何が伝説なのか、今や知らない者はいない……と言うと誇張が過ぎるが、映画やフィギュアスケートの影響で以前と比べて知名度は格段に上がったことだろう。

 戻橋の名に因るものなのか、それとも伝説に因り戻橋という名になったものか。この橋には、死んだ者がここで蘇った、という伝説がいくつもある。鬼退治で有名な渡辺綱が、名刀・髭切で茨木童子の腕を切ったとされるのもこの橋だ。

 平安時代を舞台にした物語ではもはやお馴染みとなっている陰陽師・安倍晴明が式神をこの橋の下に住まわせていたという話もある。彼の妻が式神を怖がったため、屋敷に常駐させることができなかったから、らしい。

 この伝説の中で、現代でも人々が触れることができる可能性があるとしたら……それは橋の下の式神だろう。

 死んで、遺体を運ぶ際に戻橋を通り、そこで蘇生する……という体験は中々得難いように思う。そもそも、現代では遺体を運ぶ方法は霊柩車であることがほとんどだ。それに積まれた棺の中で蘇ったとして、戻橋で蘇ったなどと誰がわかるだろうか。

 現代では鬼に襲われる事も、その腕を切り落とす事もまず無い。切り落とす以前に、すぐに抜き放つ事ができるような状態で刀を持ち歩いたりしたら確実に銃刀法違反でしょっ引かれる。

「なるほどなるほど。それでそなたは、橋の下に住まう式神を見る事はできないか、あわよくば写真に収める事ができないかと考え、闇雲に橋の下を撮っていた……というわけだな」

「そういう事……いや、闇雲って言うなよ。ってか、誰だよ、さっきから!」

 ようやく、自分が誰かに割と不躾な口調で声をかけられている事を認識したらしい。

「おぉ。ようやく儂と言葉を交わす気になったようだな」

 上機嫌な声が聞こえ、次いで若者の眼前に一人の少女が姿を現した。その姿形に、若者は思わず息を呑んだ。

 細面に、やや吊り上がった目。美人だが、どこか冷たそうな雰囲気を感じる。だが、それとは逆に口は猫のようにふにゃりとした笑みを湛えていて、愛嬌すら感じられる。

 上衣は若草色の狩衣。だが下は袴ではなく、ふわりと大きく広がった薄黄色のスカートを穿いている。スカートはワンピースタイプなのか、同じ色が狩衣の肩口──下に着ている着物の色が見える、縫われていない部分──から見えている。あれはたしか、スイングドレスという種類の服だったか。

 インパクトのある衣装とは逆に、髪型は肩の高さで結った二つ縛りと大人しめだ。後頭部を隠すようにしてお稲荷さんのような狐のお面を被っているので、お面を被る際に邪魔にならないよう敢えて大人しい髪型にしているのかもしれない。

「……いや、本当に誰だよ!? ……というか、すごいなそのカッコ!? ダメだろ、公共の場でコスプレしたら!」

 突然インパクトのある格好の少女が目の前に現れた事に混乱し、若者はつい内容の精査もせずに思い付いた言葉を出るに任せて口にした。すると、少女はわざとらしく頬を膨らませて見せる。

「誰がコスプレか! 儂はいつもこの格好をしておるわ! 周りと少し違うだけでコスプレと決め付けるでないわ!」

 少しかなぁ……などと思いながら、若者は改めて少女の格好を上から下まで見る。……うん、これだけインパクトのある服を普段着として着て歩いている人間は、まだ見た事が無い。コスプレではないと言われて納得するのは、無理がある。

 そう伝えると、少女はニヤリと笑って胸を張る。

「このような衣を日常的に纏う人間を見た事が無い? たしかに、常日頃より狩衣を纏うのは今の人間には難しかろう。一人で纏うには手間のかかる衣故な。だが、儂は人間ではない。……であれば、このような華やか且つ伝統的であるのに加え斬新な格好を日頃よりしていたとしても、不思議ではあるまい?」

「……は?」

 短く声を発したその顔は、人にあらざるモノを見、畏怖を抱いた者の顔ではない。例えて言うなれば、妄言甚だしい狂人を垣間見てしまった時の顔だ。

「なっ……なんだ、その顔は! 儂が人間ではないという言葉を疑っておるのか!? 本来であれば喜び昂ぶるところではないのか? 闇雲にシャッターを切ってまで写真に収めようとしていた式神が目の前におるのだぞ!?」

「……は?」

 今度の「……は?」は、シンプルに驚いた顔になった。目が大きく見開かれ、時折瞬かせる。その様子がお気に召したのか、少女は満足げにフンッ! と鼻息を吐いた。

「やっと驚いたか! そう……儂はこの戻橋の下に住まう事、約千年。かの大陰陽師、安倍晴明あべのはるあきら坊ちゃんに仕えし狐の式神よ! 恐れ入ったか!」

「安倍の……!?」

 驚きかけ、そして若者は「ん?」と首を傾げた。

「安倍の……はるあきら?」

 自分が知っている大陰陽師の名前とちょっと違う、と言いたげだ。それに気付いた少女──自称式神は、「あぁ」と手を叩いた。

「そう言えば、今の時代は〝せいめい〟の読みの方が通りが良いのであったな」

 その言葉に、若者は「あ、そうか」と口にする。そう言えば昔は、貴族などの偉い人の名前を古典に則って音読みに読み替える文化があったのだったか。

 それだけでなく、陰陽師と言えば呪詛の対応もするだろうし、正確な名前を相手に知られる事で逆に呪詛されてしまう恐れだってあったかもしれない。敢えて異なる読み方を公称とすることで呪詛を回避しようとする考え方だってあったかもしれない。

 だから、この自称式神がいう〝はるあきら〟というのがあの有名な陰陽師、安倍晴明あべのせいめいの事だという事は理解できた。だが。

「坊ちゃん、って……?」

 あの様々なエンターテイメント作品でほぼ無敵を誇る人物を坊ちゃん呼ばわりする者があるとは思わなかった。そんな若者の思いを察したのか、自称式神はクツクツと笑う。

「お前達人間からしてみれば伝説の大陰陽師かもしれぬがな。儂から見れば坊ちゃんはいつまで経っても坊ちゃんよ」

 言うや、自称式神は後ろへ倒れんほどにふんぞり返った。

「聞いて再び驚くが良い! 儂が仕えるは信太森に祀られし、神通力を持つ狐。その名も葛葉くずのは様! この橋の下に住まう式神の話を知っているお前なら聞いた事もあろう。類い希なる見鬼の才を持ち、多くの帝に仕えた大陰陽師、安倍晴明坊ちゃんの母君よ!」

「安倍晴明の、母狐……に仕えている式神……?」

 いきなりの情報量の多さに、若者は困惑を隠せない。

「うむ。葛葉様より、ご子息である晴明坊ちゃんの様子を見に行き、陰に日向に助けて欲しいと命ぜられてな。遠路はるばる京へやってきたところ、晴明坊ちゃんに頼まれたのよ。我のことは良いから、京中の困っている人々を助けてやってはくれまいか、とな」

 本当かよ……と、つい心の中で呟いてしまう。実際の安倍晴明がどのような性格であったかなど令和の時代では知る由も無いが、なんとなくその思い出は美化されているのではないか、と言うか、この自称式神に都合良く解釈されているのではないか、という気がしてしまう。……いや、本当にただそのような気がする、というだけなのだが。

「……その話が本当だとして……アンタが安倍晴明から頼み事をされてから、もう千年ぐらい経ってるよな? 当の安倍晴明もとっくの昔に死んでるだろうに……式神にとって、陰陽師からの頼み事っていうのは千年経っても有効なものなのか? ……と言うか、千年経っても式神として存在できるものなのか?」

 尚、安倍晴明の死没は西暦にして一〇〇五年であるらしい。西暦も二〇二〇年を過ぎている事だし、この自称式神が晴明から頼まれごとをして千年以上経っているのは間違いないと思って良いだろう。

 その問いを投げると、自称式神は「ふむ……」と唸って難しそうな顔をした。

「詳しく話すと時間がかかりすぎる故、要点だけかいつまんで話すとだな……儂は神として祀られている葛葉様の眷属であり、その儂が天から才を授かりし大陰陽師・晴明坊ちゃんのお力によって人間の世界に多少の力を与えられるよう式神となっておる。儂が千年経っても式神として存在できるのはそれが理由よ」

 そんな、凄いものに凄いものを足したから凄いものになりました、みたいな説明をされても……と若者は顔をしかめる。だが、自称式神はその表情に気付いていない。

「そして、何故晴明坊ちゃんが泉下へ向かわれても儂がこうして戻橋の下に住もうておるのかと言うとな……坊ちゃんの頼み事を、まだ一度たりともこなせたことが無いから、としか言えなくてな……」

 段々声に元気が無くなり、言葉が尻すぼみになっていく。若者が「は?」と首を傾げれば、「実はな……」と悲しそうな顔をした。

「式神として戻橋の下に住み始めてから千年……未だに、儂に困りごとを預けてくれる者がおらんのだ……」

 曰く、晴明存命時、戻橋付近を通る者は困った事があれば橋の下の式神ではなく、近くに住んでいる晴明に相談をしに行っていた。晴明に直接会えようもない身分が低い者は、寺の僧侶や辺りの法師陰陽師に相談をしていた。人間で解決できる事であれば周囲の人間、もしくは住まう集落の長に相談していた。

 そもそも、貴賤の境無く、橋の下に住む式神の姿を見たら逃げ出してしまう者がほとんど。たまに逃げ出さない者がいたとして、そんな度胸がある者はまず困りごとが無いか、式神に頼まなくても自力で解決できてしまう力を持っていた。

 その状況は人々が怪異を恐れていた文明開化の時代まで続き、明治になったと思いきや今度は人々が怪異を恐れず信じなくなったために霊や妖怪、神の類いを見る事ができる者がぐっと減ってしまった。戻橋下の式神は、その存在を認識される事すら稀有になってしまったのだ。

「そんなこんなで、晴明坊ちゃんからの頼まれごとはこなす事ができず、本来の役目である筈の晴明坊ちゃんの支援も、坊ちゃんが陰陽師として優れすぎている故、儂の出番なんぞとんと無く……命ぜられた事、頼まれた事を何一つこなす事ができぬままでは葛葉様や晴明坊ちゃんに顔向けができぬと粘り続けて……」

 気付いたら千年以上が経っていた、と。

 なんとなく、合点がいった。推測だが恐らくこの自称式神……割とポンコツだ。放っておくと独断で色々やらかして問題を起こしそうなので、早々に見切りを付けて「困っている人々を助けるように」という方便により晴明の仕事に支障を来さないようにしたと見た。

 ……などという事は、口が裂けても言えない。言ったところで面倒な事になる未来しか見えない。自分を有能だと思っているがその実色々やらかすタイプに下手に関わると面倒なのは、式神でも人間でも同じだ。多分。

 ……と言うか、今更だがこの自称式神、本当に式神なのだろうか。自分を式神と思い込んでいる普通の人間だったりしないだろうか。

 そんな疑惑を抱いている事を察知されたのだろうか。自称式神はジトリと若者を睨むと、「疑っておるな?」と呟いた。

「儂が式神である事を疑っておるな? ならば、証明してみせようではないか! 儂が確かに人にあらざる者である事を!」

 言いながら、自称式神は若者の事をふんふんと嗅ぐ。この仕草は、どことなく犬っぽい。これを見ると、狐の式神というのもあながち冗談ではないのかもな、と少しだけ納得してしまう。

「ふむ……晴明坊ちゃんの気配が微かだが感じられる……が、この近くの神社や、晴明坊ちゃんが生まれた阿倍野の地ともまた違う気配……。そしてこれは……お揚げさん……? 否、お揚げさんではない……が、それに近しい物……大豆……味噌か」

 ブツブツと呟いていたかと思うと顔を上げ、フンッと鼻息荒く腕組みをしている。よくわからないが、自信がありそうだ。

「わかったぞ。お前は味噌造りが盛んな土地から来たのだな? ……となれば、その地は、そう……三河か!」

「あ、いや。三河じゃなくて、その隣の尾張地方……と言うか、名古屋だけど」

 思わずそう言うと、相手はムッとした顔をしている。慌てて言葉を足した。

「あ、いや……三河地方も尾張地方も同じ愛知県だし。当たってる、当たってる!」

 フォローをしつつ、我が故郷はそんなに味噌の匂いがするのだろうか? と思わず自らの腕の匂いを嗅いでみる。自分ではよくわからない。

「……けどさ。味噌造りが盛んな土地って、愛知県だけじゃないだろ。なのに、なんで俺が愛知県から来たってわかった……?」

 そこは、純粋に疑問だ。すると、自称式神はふっふっふ、と嬉しそうな顔をしている。

「お前から、晴明坊ちゃんの気配が感じられたのでな」

「そう言えば、そんな事も言ってたような。けど、なんで俺から安倍晴明の気配?」

「まぁ、最後まで聞くが良い。お前から晴明坊ちゃんの気配がすると言っても、勿論お前が晴明坊ちゃんの生まれ変わりだとかそんな頓珍漢な事を言うつもりはない。お前はただの人間よ。それが何故、微かにだが晴明坊ちゃんの気配がするのか? それは、晴明坊ちゃんを祀る神社が身近にあるからだと、儂は見ておる」

「神社?」

 首を傾げた若者に、自称式神は頷いた。

「そう、神社よ。かと言って、ここからすぐ近くにある晴明神社や、晴明坊ちゃん生誕の地である阿倍野の安倍晴明神社の気配とも違う。それよりは、もう少し縁が薄い気配がするのよ。さて、ここで少し思い出して貰いたいのだが……お前の住む尾張や三河の地──愛知県に、晴明坊ちゃんを祀る神社があるのではないか?」

 言われて、「あぁ」と呟いた。たしかに、ある。三河地方なら、岡崎市に晴明社が。尾張地方なら名古屋市に晴明神社があるし、そのすぐ近くにある上野天満宮の境内にも晴明殿があったはずだ。

「晴明坊ちゃんの伝説が残る地は全国に数あるが、晴明坊ちゃんの名を冠す神社が愛知県には多いようでな。それ故、お前に晴明坊ちゃんの気配が微かに移っておるのだろう。それに加えて、味噌……否、大豆の香りよ。ここまで来れば、お前が愛知県から来た事など誰でもわかるというものよ」

 その割には、三河と尾張を間違えたようだが。味噌と言えば三河地方の方が有名な筈だが、普段尾張地方に住んでいる自分にも匂いが移ってしまう程に味噌の香りがするのだろうか、愛知県。

「まぁ、これも儂が式神故の能力よ! 人間はおろか、普通の犬や狐であってもそんな微弱な香りまでは嗅ぎ分けられまい!」

 さっきも匂いを嗅ぐ姿で狐の式神だと納得しかけたのだが、そう言えば狐はイヌ科だったか。……と言うか、肝心の晴明の気配よりも味噌の香りが決め手になってしまっているように思うのだが、式神のプライド的にそれは良いのだろうか。

 若者が首をひねっていると、自称式神はクツクツと笑いながら若者を上から下まで舐めるように見る。

「それにしても……わざわざ愛知県から出てきておきながら、ひたすら橋の下を撮り続けておるとは。ずいぶんと酔狂な真似をするものよな。自分でもそうは思わぬか? ムラナミ、ユウカ?」

「いや、俺の名前はユウカじゃなくてアリヨシ……いや、ちょっと待て。アンタ、なんで俺の名字……?」

 言いながら、若者──アリヨシはスマートフォンを操作し、表示された画面を自称式神に向かって提示した。表示されているのは、写真を投稿して見て貰うためのSNS。アリヨシは本名で登録しているらしい。プロフィール欄には、〝村南有可〟と書かれている。

 先ほど自称式神が口にした〝ユウカ〟とは、〝有可〟を音読みしたのだろう。免許証や保険証ではなくSNSを表示して見せたのは、住所などの情報をできる限り知られないためか。

「あぁ、別に目に見えぬ情報すらも読み取れるわけではないからの。安心せい。ただ、ほれ。そこにフルネームが記されているのに気付いたまでのことよ」

 そう言って、自称式神は有可が首にかけているカメラのストラップを指差した。万が一にも落としたりなくしたりしないために購入した頑丈で太めのストラップの裏側には、特注でフルネームが刺繍してある。

「……こんな小さい名前、よく見付けたな。たまには裏返る事もあったかもしれないけど、普段は名前が表側に来ないように掛けてるのに……」

「神にしろ妖怪にしろ陰陽師にしろ、霊的な力を有する者はとかく相手の名を知りたがるものでな。それ故、名前が書かれているものには敏感なのだ。何せ、真名を知る事ができれば、力ある者なら相手を呪うも操るも思いのまま。呪術や神から縁遠い時代になったとはいえ、真名を知ろうとする癖は中々抜けぬものよ」

 一瞬見えただけのそれを即座に名前だと認識し、漢字を一文字も違える事無く読み取った。式神故の動体視力だと、自称式神は言う。……いや、自称、ではないと認めた方が良いかもしれない。

 先ほどの安倍晴明に縁のある神社がある地域に住んでいると見抜き、ついでに味噌の匂いまで嗅ぎ分けた嗅覚。一瞬見えただけであろう小さな刺繍の名前を正確に読み取る視力。人間のものとは考え難い。ならば、さっさと式神であると認めて接した方が身のためだ。

「おぉ、顔つきが変わったな。儂の事を、葛葉様の眷属で、且つ晴明坊ちゃんの式神であると認める気になったか」

「……ん。まぁ……」

 曖昧ながらも頷いてみせ、そして有可は「あ」と呟いた。

「そう言えば……名前を知れば相手を思うままにできる文化で暮らしてきて、今でもその時の癖が抜けないってことは……アンタの名前を教えてもらう事は難しい……って事になるのか?」

 式神として認めて敬意を払った喋り方をしようにも、名前がわからないままでは難しい。そもそも丁寧な言葉遣いなど身についていないが、せめて名前がわからずアンタ呼びしてしまうのはどうにかしたいのだが……と、有可は言った。すると、式神は「ふむ」と唸る。

「名前か? 良いぞ。真名ではないがな。儂の名は、わらび、という」

 どうだ、と言わんばかりに胸を張り、式神──わらびは名乗った。

「……わらび? わらびって、山菜の?」

 主人が葛葉で、眷属はわらび。どちらも植物の名前だが、何か関係があるのだろうか?

「名前の由来か? なに、単純なものよ。以前この近辺で食したわらび餅が美味くてな」

 思った以上に単純な名前だった。そして美味しかった物の名前を名乗るぐらいなのだから、わらびは結構な食いしん坊ではないかと思われる。

 そこで、有可は「ん?」と首を傾げた。

「なぁ……この辺りで食べたって言ったよな、わらび餅?」

「うむ。言ったが?」

「言い方から察するに、露店で買うか、どっかの店に入って食べたんだよな?」

「うむ」

「それ、何年ぐらい前の話だ?」

「はて……それほど昔ではなかったと思うが……。たしか、令和にはなっておらなんだ。昭和は終わっていたように思うぞ」

 つまり、平成か。思った以上に最近である。

「さっき、明治になってからは人々が怪異を恐れず信じなくなったために霊や妖怪、神の類いを見る事ができる者がぐっと減ってしまった……って言ったよな?」

「うむ。言ったな」

「霊や妖怪を見る事ができる人間が減ったのに、買い物や外食はできたのか? 矛盾してねぇ? あと、金はどうしたんだよ?」

「あぁ、そのことか」

 わらびは、なんて事はない、とでも言いたげにやや胸を張った。

「そこは、ほれ。儂は式神じゃからな。相手に姿を見せようと思えば、見せる事ができるのよ。式神よりも格が上故納得し辛いかもしれぬが、神も普段は見る力のある者にしか見えぬが、神が相手に姿を見せる気になっていれば凡人にも見えるであろう?」

「いや、神様が凡人に姿を見せている現場に立ち会った事無いからわからないんだけど……」

「まぁ、そういうものだと思っておけ。だから、買い物や外食はできるわけだ。だが、四六時中誰にでも姿が見えるようにしていると、騒ぎになるであろう?」

「……うん、なるだろうな」

 三六五日、二四時間漏れなく。戻橋の下に狐面を被った変わった格好の少女がいる。そんな話が広がれば、間違い無く警察が補導に来るだろうし、式神だと言えばマスコミや野次馬が殺到するだろう。そうなれば、困っている人々を助けるどころではない。

「しかし、普段は姿を隠しておる故、困っている者が橋の上を通っても儂の姿に気付かぬ。そして儂は、残念ながら見ただけではその者が困っているのか困っていないのかを見分ける事ができぬ。故に、儂から〝困っているなら力を貸そう〟と声をかける事ができぬのだ」

 なるほど。姿は見えないはずなのに買い物や外食ができるわけはわかった。

「……で、金は? まさか食い逃げとか賽銭泥棒じゃねぇよな?」

「うむ。儂は式神故、特に飲食は必要としておらぬのだが……それでも飲食は楽しいからの。時々人間に化けては、履歴書も要らぬ日雇い仕事で小遣いを稼いでおる」

 至極健全な金だった。変に感心している有可をよそに、わらびは深くため息を吐く。

「お陰で、飢えることも無く、食べたい物はそれなりに食べる事ができ、博物館も入れるし、なんなら公園で人々と会話を楽しむこともでき、長い式神生活で退屈や不便を感じた事はほとんど無い。……が、やはり晴明坊ちゃんの頼み事を一度も叶えられていないのが歯がゆくてな……」

 寧ろ、それだけの事ができるのに、何故人々から困りごとを聞き出す事ができないのだろう、とつい疑問に思ってしまう。工夫次第でいくらでもなんとかできそうなものだが。

 そこで有可は「そう言えば……」と不思議そうな顔をした。

「俺にはわらびの方から声をかけてきたよな? さっきの口ぶりだと、橋の上を通りかかった人には声をかけてないみたいだったけど……なんでだ?」

 有可がいたのは橋の上ではなく下だが、この際細かい事は置いておこう。

「なに、知れたこと。河津桜があのように見事に咲いているというのに、見向きもせずに何も無い橋の下を撮り続けている様があまりに滑稽でな。つい声をかけてしまったというわけよ」

「ほっとけ」

 憮然として返すと、わらびはクツクツと笑って「冗談だ」と言う。

「この橋の下を写真に収めようとするという事は、少なくとも〝橋の下に今でも式神がいたら面白い〟ぐらいは考えていると見ても良いだろう? そのような者であれば、今のユウカのように儂の存在を受け入れてくれるかと思ってな。勿論、儂の姿が見え、声が聞こえれば、だが」

「いや、だから俺の名前は……」

 ユウカではなく、アリヨシだ。そう言おうとした有可の口を、わらびは手で遮った。

「お前の真名はちゃんとわかっておる。だが、儂が真名を明かしていないのにお前の事を真名で呼ぶのは、不公平ではないか。儂なりの流儀だ。お前の事は、名を表す字の音で呼ばせてはくれぬか?」

 そんな風に言われてしまっては、有可には断る理由がない。あだ名呼びみたいなものか、と納得し、了承の意味で頷いた。すると、わらびはどことなく嬉しそうな顔をする。

「ところで。わらびの声が聞こえて、姿が見えたって事は……俺、実は霊感とかあったりするのか?」

 少し期待を込めた声で、有可が問うた。だが、期待を打ち砕くようにわらびは首を横に振り、「さてな」と嘯いた。

「儂が話しかけて聞こえるのは、霊感のある人間、儂の声が聞こえるように人間に化けた儂が声をかけた人間。そして神や妖怪、幽霊に同じ式神といった生きた人間とは言い難いモノ。……さて、お前はどれであろうな?」

「こっ……怖いこと言うなよ!」

 思わず後ずさってから、有可は「あれ?」と呟いた。

「幽霊とかには声が聞こえるって言ったよな?」

「うむ。言ったが?」

 だからどうした、と言いたげなわらびに、有可は「あのさ……」と言い難そうに問いかけた。

「その、困ってる人達を助けるのってさ。生きた人間でないとダメなのか? 幽霊とか妖怪でも、困ってるひとはいるんじゃないかと思うんだけど」

 そう言うと、わらびはハッと目を見開く。

「たしかに……!」

「……いや、そんな目から鱗が落ちたような顔をされても……」

 やや呆れた顔の有可に、何を考えてか、わらびはニィ、と笑う。

「ユウカ……お前、中々頭が良いではないか」

 結構本気で感心している。その様子に、有可は言葉がない。そして、有可が言葉を紡げないでいる間に、わらびはぽん、と手を打った。

「うむ。一筋の光明が見えてきたぞ! ユウカ、お前と組めば、儂は千年の時を経て初めて、晴明坊ちゃんからの頼み事を叶えるという悲願を果たす事ができるやもしれぬ!」

「へ?」

 有可が間抜けな声を発した事など意にも介さず、わらびは一人でどんどん話を進めていく。

「うむ。そうだな、それが良い。儂とユウカが揃って出歩き、困っている霊達を探す。相手が霊であれば警察の補導も怖くない! 声もかけ放題よ!」

 発言が今からナンパでもしに行くように聞こえるのは何故なのか。

「手当たり次第に声をかけ、困りごとを抱えた霊を見付けたらあとは一気にたたみかけるのみ! 儂の式神としての実力にユウカの知恵が加われば、霊達の困りごとなど一網打尽! 未練もなくなり、皆一斉にあの世へおさらばよ!」

「アンタはヤクザかなんかの親玉か? ……というか、なに勝手に俺を面子に加えてるんだよ!」

「ユウカが助言をしてくれねば、儂は霊の困りごとを解決するという方策すら思い浮かばなかったのだぞ! そんな儂が一人で難事に当たることがあったとして、万事そつなく解決する事ができると思うてか?」

「胸を張って言う事か!」

 思わず有可が怒鳴りつけると、わらびは「ふむ」と唸った。そして「ならば」と言葉を継ぐ。

「ユウカ。お前は愛知県から来たという事は、つまり旅人であろう?」

「え? あ、まぁ……」

 たしかに、己は旅行者だ。肯定の意味で頷くと、わらびは「良い方法がある」と言った。

「儂はこれから霊達の困りごとを解決するため、困りごとを抱えた霊を探しに行こうと思うておる。だが困った事に、どこに行けば困りごとを抱えた霊に出会えるのか……儂には検討もつかぬ」

「霊の困りごとを解決する前に自分が困ってんのかよ……」

 呆れた有可に、わらびはまたも胸を張って「うむ」と頷く。もはや完全に式神としてのプライドを放棄しているように思える。有可を巻き込む気満々だ。

「そこで、だ。ユウカの旅路に儂もついていくというのはいかがであろう? そうすればユウカは予定通りの旅ができ、儂も一人で闇雲に霊を探すよりは退屈せず、時には相談をしながら事を進める事ができる。誰も損をせず、良い事ずくめよ。そうは思わぬか?」

 良い事ずくめかどうかはわからないし、損をしないという保証もない。……が、たしかにわらびの気が向いた場所へ闇雲に連れ回されるよりは良いし、有可の旅のついでに困った霊を見掛けたら相談に乗る……ぐらいであれば話に乗ってみても良いかもしれない。困った霊を見付ける事ができなければ、有可は帰ってしまえば良いのだし。

 そんな風に気持ちがぐらついているのを見透かされたのだろうか。わらびはニヤリと笑うと、ダメ押しをするかのように言った。

「それに、ほれ。儂と共に行動しておれば、変わった写真が撮れるやもしれぬぞ。戻橋の下で闇雲にシャッターを切っておるよりは、ずっと有益なのではないかと思うが。そうは思わぬか?」

 その提案に、有可は思わず「うぐっ」と呻く。式神の姿が写る事を期待して橋の下を撮り続けていたのだ。変わった写真が撮れるかもしれないなどと言われてしまったら、揺らがないわけがないではないか。

「断れるわけないだろ……。そんなんありか……」

 そう呟くと、それを耳にしたわらびが「おぉ」と目を輝かせる。

「上手いではないか。村南を〝そんなん〟、有可を〝ありか〟と読ませて、〝そんなんありか〟、というわけだな」

「いや、別にそんなつもりじゃ……」

 まさか、ぼやきの呟きが名前で遊んだようになってしまっているとは思わない。完全に無意識だ。しかし、今更そう言ったところで信じてもらえそうにない。

「仕方ないか……。付き合ってやるし、付き合わせてやるよ……」

 どこか疲れたような、諦めが混ざったような。そんな声で頷いた。すると、わらびは嬉しそうに力一杯頷いた。

「うむ。それではこれから、よろしく頼むぞ、ユウカ! ……して、まずはどこへ行くつもりでおるのだ?」

 その問いに、有可は「あぁ」と思い出したようにスマートフォンを取り出し、スケジュール管理のアプリを立ち上げた。予めざっくりと組んできた日程を確認しながら、有可は橋の北西へと視線を移す。

「詳細は決めてないんだけど、あっちの方へ行ってみようかなって。金閣寺とか仁和寺とか北野天満宮とか、見所がたくさんありそうだし」

「北野天満宮は……今回は止めておかぬか? 菅公には叱られる事が多くてな……。儂自身に覚えは無くとも、会うたが最後で何か説教をされるのだ。説教なんぞで時間を無駄に費やしたくはなかろう?」

 一体過去に何をやらかせば、会う度に説教をされるような仲になるのだろうか。それも、菅原道真と。

「じゃあ、金閣寺か仁和寺か……」

「どちらも良い場所だが……迷うようなら、賽なり棒倒しなりで決めてみても良いのではないか?」

 言われて、有可は「ふむ」と唸った。早くも、わらびのある意味独特な口調が移り始めているのかもしれないな、と苦笑する。

「? 何を笑っておるのだ?」

「いや? ……じゃあ、仁和寺で」

 答えると、今度はわらびが「ふむ」と唸った。

「その理由わけは?」

「金閣寺は小学生の時に修学旅行で行ったけど、仁和寺は行った事が無い」

 その答えに、わらびは「うむ」と頷いた。

「シンプルでわかりやすい理由で良いな。では、早速行くとするか。仁和寺へ行くにはバスを利用するが、バス停まではちと歩くぞ。覚悟は良いな?」

 言うや、わらびは橋の上へ行くための階段を上り出す。

「あっ、おい待てよ!」

 わらびの後を追って、有可も階段を駆け上った。橋の上では、まだ多くの人が河津桜を眺めたり撮影したり、平和でのどかなひとときを楽しんでいる。

 そんな人々に怪しまれないよう気を付けながら、有可はわらびを追いかける。

 風が吹き、二人を応援するかのように、河津桜の花びらが青い空に舞い散った。

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