3 スレッジハンマー

 不審人物がさっぱり現れない録画映像のチェックを終えると、若葉が杏奈にふり返った。


「訊いていい? ずっと気になってたんだよね。その、気持ちの悪い本」

「これは氷沼紅子の『回想録』。若葉も聞いたことぐらいあるでしょ」

 杏奈が机から本を取りあげて表紙と裏表紙を見せた。

「この不気味なのが……そうなんだ」


 本の説明は手短にすませた。モナカから『回想録』を借りた経緯はもちろん教えていない。モナカ犯人説の熱弁を聞かされたあとで言えるわけがなかった。


 若葉の推理にはそれなりの説得力があったとは思う。だけど、杏奈はうなずかなかった。モナカなら、犯人が寮生に限定されるような中途半端な状況ではなく、りんか個人に絞りこめるまで作りこむはずだ。あの頭のよさなら朝飯前だと杏奈は思う。そうなっていない時点で、モナカが警告文を利用して幽霊の存在を信じこませようとしている、という若葉の推理には賛同しかねた。機嫌を損ねるだろうから、口にはしないけど。


「この本、寮の書斎にあったから気になってたんだよね。それで借りたんだけど……」


 椅子から腰を上げて壁掛けのキーボックスのふたをあけた杏奈は、そこで動きを止めた。ちゅうくうで静止した杏奈の手。それを見つめながら「どうしたの?」と若葉が訊いてきた。


 宝石探しをやるなら各部屋の鍵をひとつずつ持ちだすより、金庫に保管してあるマスターキー一本だけ持っていくほうが効率的だ。だからキーボックスに用事はなかったのだけれど、一応中身をたしかめておきたい。不審な点がないか、確認しておきたかった。

「鍵が……」

 それぐらい警告文の犯人を警戒している。怖かった。次があるなら、本当になにをしてくるかわからない。カメラ映像と来訪者リストまでチェックしたのだ。それ以外のところでもろうのなくやりたいと思うのが人情だろう。被害者の杏奈なら、なおのこと。


 そのような理由でキーボックスをあけてみたら、鍵がふたつ見当たらないことに気がついた。


「誰が借りたんだろ?」


 キーボックスは無事なので、部外者が盗んだわけではないようだ。キーボックスが無事でない場合は警報音が鳴り響いて管理会社に通報される。そうなっていないので、寮生がカードキーを使ってキーボックスの鍵を解錠したということになる。


 管理員がうっかりミスで持ち帰った可能性もないだろう。管理員は退勤前に鍵の有無をチェックしてから帰る。鍵以外の各種もろもろのチェックリストが引き出しに入っていた。リストを取りだして、今日の日付の箇所を見る。鍵の項目にチェックずみの印。鍵がない場合は備考欄にその旨を記入するらしい。入寮前の内見のときにそう教えてもらった。備考欄に記述はなし。管理員は鍵を持ち帰っていない。なんらかの理由で展示室と地下倉庫の鍵がなくなっているのでもない。そういうことだ。


「わたしは知らないよ、鍵なんて」と、若葉が首を横にふった。


 となると、借りたのは佐絵か、モナカか? 


「消去法でモナカでしょ」と、若葉が決めつけた。「佐絵さんは、まだ大学だから」


 部屋の時計で時刻を確認する。じきに十七時五十分か。佐絵本人が言っていたとおり、彼女の時間割表が隙間なく埋まっているのなら、五時限目を聴講している時間帯だ。佐絵は大学にいないとおかしいが、休講で帰宅が早まった可能性もある。


 カメラの録画映像のチェックは、十七時十五分ごろからさかのぼること三時間だ。つまり十四時十五分ごろまで。その三時間のあいだに佐絵が帰宅した様子は映りこんでいなかったが、休講、もしくは午前中だけ講義を受けて午後からはサボっただとか、帰宅してリモートで聴講したい気分にでもなったとか、そういった可能性もあるにはあるのだ。十四時十五分よりも前に帰ってきているかもしれない。その場合は佐絵は不審者ではないので、管理員が寮生や本社に報告することはありえない。


 録画映像を確認していたときの若葉のあくびをふと思い出した。十四時十五分よりも前の映像を確認してもいい? なんて訊く気にはなれなかった。杏奈もその作業には疲れた。


「鍵を借りたのがモナカなら、展示室と地下倉庫でなにをしているんだろう?」


「わたしに訊かれても困るよ。あの子の思考はわたしには理解不可能だから。地下にいるなら出くわすでしょ。そのとき直接訊けば、杏奈が。わたしは苦手だから無視します」

「ひどいよ、若葉」


「あの子には付き合いきれないの。わたし、みんなと仲よくなりたいタイプでもないし。知ってるでしょ、杏奈は。合わないモナカには嫌われてもいいんだよ、もう」

「わたしも若葉と似たようなタイプだけど、モナカってさ、若葉が言うほど――」

「ごめん、さえぎるね。あの子の擁護は聞きたくないから。その本、面白かった?」


 若葉が金庫の読み取りパネルに部屋のカードキーをかざした。電子音に次いで金庫がひらく。マスターキーを取りだした若葉に、「微妙かな」と杏奈は正直に答えた。


「……ルビーリングと関係してるかもって思ったから、読んでみただけ」

「ルビーリングと関係してるって考えた根拠は?」

「勘……かなぁ」モナカからの受け売りだとは口が裂けても言えない雰囲気だ。「根拠はないよ。ただ、気になった箇所があって」


 日記も同然の『回想録』には、やたらと日付が出てくる。日付は英語だ。ただ一箇所、七月六日の日付をのぞいて。その日付だけがなぜか日本語だった。この本は紅子が自分のために作った私家版だから、表記の不統一などささいなことかもしれないが……。


 モナカは『回想録』を読めば違和感を覚える箇所が出てくると言っていた。もしかして、この日付のこと? 


 七月の誕生石はルビーだ。モナカはそんなことも言っていた。七月六日の日付が表記ミスではなく、そこになにか重要な意味があるのだしたら、それはルビーのことかもしれない、とも。モナカはただ「ルビー」とだけ言った。そのルビーがなんなのかは明言しなかったが、会話の流れからして九億円のルビーリングのことだろう。


 あのときたしか、『回想録』を読み終わったら、お互いに感想を述べ合おうとモナカが誘ってきた。たしかにいま、そんな気分だ。若葉がモナカを嫌っていなければ、ルビーリング探しに同行させていたかもしれない。



 大理石の階段を下りきって、地下フロアの研磨されたコンクリートの廊下に足をつける。照明の光を照り返す床から視線を水平に戻した杏奈は、まぶたを閉じて背筋を伸ばした。


 明日、ここから出ていく。そう思うと、のあたりがそわそわした。名残惜しさで落ち着かない気分にさせられる。若葉もそれがわかっているからだろう。杏奈に合わせてゆっくりと地下の廊下を歩いてくれた。


 用もないのにランドリールームに立ちよる。共用トイレにも、コスプレ衣装をつめこんだ地下倉庫にも。マスターキーで扉をあけて、ぶらりとなかを見て回った。

 ハロウィンのときにモナカが着ていた赤ずきんの衣装が元の位置に戻されている。鳩マスクの赤い目と杏奈の視線が重なった。ぞわっと微かに肌があわち、若葉と一緒に苦笑し合った杏奈は、心持ち歩調を速めて廊下に出た。


「誰もいないね、モナカも佐絵さんも。展示室かな?」


 首をかしげた杏奈と、「かもね」と言った若葉のふたりが、目に見える範囲内においては地下フロアを独占している。せいひつな地下フロア。本当に静かだ。


 杏奈はなんとはなしに首を横に向けた。廊下の東の壁際に、大きなロッカーが三つある。三つとも用具入れだ。近づいてなかをあけてみると、管理員が使う掃除道具の他に、脚立や伸縮式のはし、何種類もの工具が押しこまれていた。


「いろいろあるんだ。知らなかった」

 若葉も用具入れのなかをのぞきこんだ。


「ふだん見ないからね。……こんなのまであるよ。

 そう言って杏奈が取りだしたのは、大きなハンマーだった。柄の長さが九〇センチから一メートルぐらいはありそうなハンマーだ。両手で持つと、手のひらに沈みこんできて、ずしりと重い。先端のハンマーヘッドは金属製だった。


「そういう、でっかいハンマーのようってなに? 教えて、杏奈先生」

「杭打ちとか、解体作業でコンクリートを壊すときとか、いろいろありますねえ」


 祖父が過去に遭遇した事件で、スレッジハンマーを凶器として使っていたシリアルキラーがいた。それで多少は知っていたのだ。


「コンクリートが壊せるなら

 杏奈が用具入れに戻したスレッジハンマーを見つめながら、若葉がわざとらしく震わせた肩を抱いた。そう、殺そうと思えば殺せる。祖父が過去に関わった事件では実際にそのような残酷な使われ方をしていたのだから。当たりどころが悪ければ一撃でおぶつだ。

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