幕間 現在

現在――二〇二一年 十二月二十二日 水曜日

 十二月二十二日、――。十八時五十分。


 鳩の顔の赤ずきんの狙いがルビーリングだった場合、杏奈に見つけてほしくないのだ。見つけてほしくないのなら、絶対に見つけてやる。見つけて交渉材料にする。バリケードが無効化されるまでに九億円の宝石のありかを突き止めてやる。


 左手に氷沼紅子の『回想録』。右手にメモ。杏奈はその両方にふたたび視線を落とした。


 一段落目が〈K〉、二段落目に〈Y〉、三段落目に〈FD〉、四段落目に〈QB〉。A7サイズのメモ用紙にはそう記してある。


 メモの一段落目のKは、アルファベットで十一番目の文字だ。


『回想録』のページをめくる。で指を止めると、一行目に〈七月六日〉の日付。この日付だけが日本語だった。


 日本語で書かれた日記なのに他の日付はすべて英数字で記述されている。


 たとえば、二ページ前の九ページ目には〈5st July〉の日付。七月五日。


 表記はイギリス式。アメリカ式だと「日」よりも「月」が先に来る。最後に「年」が来るのは英米で共通しているが、この本は各章が西暦で表示されているためだろう、ページ内に出てくる日付の「年」は省略されていた。ちなみに「年」がある場合、アメリカ式だと「年」と「日」のあいだに「,カンマ」がつく。イギリス式にカンマはない。前に書いた大学のレポートでこの手の知識が必要だったから杏奈はそのことを知っていた。


 紅子の『回想録』はほぼ日記だ。やたらと日付が目につくものの、十一ページ目に出てくる日付は七月六日のみで他にはない。


 日付に関する表記の不統一はミスだろうか。ミスではなく意図的なものだとしたら? 九億円のルビーリングに関わっているのだろうか。


 七月の誕生石はルビーだ。モナカは『回想録』を読めば違和感を覚える箇所が見つかると言っていた。七月六日の日付のことにちがいない。


 日本語で表記されたその日付を足がかりにアルファベットの謎を解いていけば、ルビーリングの隠し場所が判明するということだろうか? 


 そんな気がしてきた杏奈は、四つの台座に目を向けた。台座の時計にも。時計は時計で怪しい。アンティークな意匠の時計だが、ただの飾りとは思えない。飾りではないのなら、どうして時間が止まっているんだろう? 長針と短針はあるけれど秒針がない。


「長針は……分を示すふんしん。短針はしん。長針、分針、短針、時針……英語、日本語」

 独り言が止まらない。なにかわかりそうな感覚が杏奈の脳を揺さぶっていた。


 英語、日本語、英語……英語で長針は〈long hand〉。分針は〈minute hand〉。

 短針は〈short hand〉。時針は〈hour hand〉。


「七月六日。この日付だけが……日本語。日本語?」


 七月は英語で〈July〉。英訳せずにアルファベットで書くと、〈Shichigatsu〉。ヘボン式のローマ字だとそうなる。くんれいしきでもだ。ローマ字だと七月はSからはじまる。


「Sから……。S……短針、short hand」

 はっと息を呑んだ杏奈は、本を抱えたまま台座に走りよった。右側手前、赤い目の鳩の彫像に。本の裏表紙も赤い目の鳩だ。


 もしかして……? 


「七月六日、七月の頭文字はS。それが短針、short handのことだとしたら……」

 六日は、なにを意味している? 

「六日、六……六……短針を――回す回数か!?」

 不意に閃いた。「? ?」


 回すとして、? 時計回りか、反時計回りか? 


 また閃いて、杏奈は本を表にした。カタツムリの絵。カタツムリには貝殻がある。貝殻の多くが右巻きらしいが、左巻きのカタツムリがいないわけじゃない。

『回想録』の表紙のカタツムリの絵は――左巻きだ! ヒダリマキマイマイ。『回想録』を書斎で見つけたときに、モナカがそう言っていたのを思い出した。


「時計で、……!」

 杏奈はおもわず声を張った。


 右側手前の台座の時計。十二時の位置で固定されている短針を反時計回りに六回転させてみると――赤い目の鳩の彫像が


 虚を衝かれた杏奈は転びそうになる。


 鳩の赤い目が見つめる先は……そのとなりの左側手前の台座だ。

 今度は、この台座の時計をいじれってことかな? 


 メモの二段目はY。Yはアルファベットで二十五番目の文字。

 つまり、『回想録』の二十五ページ目……? 二十五ページ目の一行目には、九月三日の日付が英語で記してある。〈3rd September〉とイギリス式で。同ページ内に他に日付はない。七月六日の日付がある十一ページ目と同じだ。日付は九月三日のぶんだけだった。


 九月三日3rd September、頭文字は今度もS。だからまた短針――short handを回すってことでオッケーなんだよね? 回す回数は、三日だから三回転? 


 杏奈は左側手前の台座の時計の短針を反時計回りに三回転させてみた。

 鳩の彫像が回転して、


 さっきほどではないが、再度おどろかされた杏奈は、左側奥の台座へと移動した。その最中もずっと、鳩の顔の赤ずきんは精力的にドアをぶったたいている。ふたつある蝶番のうち、上のほうがぐらつきはじめた。


 ドアをたたく音に合わせて、杏奈の呼吸も激しくなる。


 不安定に泳ぐ視線を手もとのメモに落とすと――三段落目はFD。

 最初はフロッピーディスクのことかと思った。杏奈は使ったことないけれど。

 FDの意味も、K、Yと同じように解釈していいのなら、当然、フロッピーディスクのことではない。


 Fはアルファベットで六番目。Dは四番目。このふたつが連続している。六と四……。

『回想録』の六十四ページ目……ってこと? その解釈でいいんだろうか? 


 六十四ページ目の一行目に日付。

〈8th May〉。五月八日。六十四ページ目の日付は、はたして、この五月八日ぶんしかない。

 Mは分針――minute handのことだろう。


「分針は長針。八日だから……」と口にしつつ、長針を反時計回りに八回転させる。

 鳩の彫像が。最後の一体、右側奥の台座の彫像へと。


 興奮で呼吸を乱しながら、杏奈はメモをたしかめた。


 最後の四段落目はQBだ。

 Qはアルファベットで十七番目。Bは二番目。すなわち、一七二ページ目。

 一七二ページ目の一行目に日付。

〈10th March〉。三月十日。一七二ページ目にある日付は、もちろん三月十日ぶんのみだ。


 今度もMだから分針。分針は長針。杏奈が長針を反時計回りに十回転させる。

 鳩の彫像は……ちっとも動かない。その代わりに、鳩の彫像から羽根が一枚落ちた。


 カチリと音が鳴る。


 音は……最初の台座、赤い目の鳩の台座から聞こえた気がする。


 杏奈は落ちた石造りの羽根をひろい、最初の台座へと走った。


 赤い目の鳩の彫像の胸に――なにこれ? 貯金箱のコイン投入口のような亀裂ができていた。さっきまでこんな亀裂はなかったはずなのに。


「あ……!」とうめくように言って、杏奈は『回想録』の裏表紙をたしかめた。


 赤い目の鳩の胸に刃物か羽根めいた物が突き立てられている裏表紙の絵。これか! 杏奈はさっきひろった石材の羽根を、石像の鳩の胸の亀裂に差しこんでみた。


 カチッカチッと音が鳴る。さっきよりも大きな音が。


 。ドアを設けた東側の壁とは対称の位置にある西側の壁から。北西のすみのほうからだ。杏奈は大急ぎでそこまで走った。


 展示室の東西の壁のデザインは黒と灰色の縦縞模様。北西の壁の縦縞の黒い部分の一部が内側にへこみ、ドアのけのようになっている。


 杏奈は手掛けの細長いくぼみに指を入れて、押したり引いたりしてみた。どうだにしない。左側にスライドさせてみる。……これもダメ。動かない。


 杏奈が今度は右側にスライドさせると――おもむろにだが確実に動いていく。

 動かしつづけた引き戸が、ややあって壁のすみ、室内からでは見えない死角へと吸いこまれていった。


 引き戸の向こう側はだ。こんな大がかりな仕掛けを施してまで隠したい物といえば決まっている。九億円の超高級ルビーリングしか考えられない! 


 赤ずきんがスレッジハンマーでドアをぶったたく音が反響していた。扉の木材が裂けてきしむ音も。地鳴りの勢いでバリケードが若干押された音も。杏奈が緊張の生唾を飲み下す音もだ。とうとう上のほうの蝶番が破壊され、ドアから外されてしまった音も。


 内開きの分厚い木製扉が室内側へと傾いた。下の蝶番がまだ無事なので、ななめになっただけだが、傾いてできたドアの隙間から鳩の顔の赤ずきんがのぞきこんでくる。じっと杏奈を見ていたが、それも数秒にすぎない。今度はゴルフでもするみたいにスレッジハンマーをスイングして、下の蝶番を豪快に連打しはじめた。


 ふたたびドアがきしんで、その振動でバリケードが震える。顔面があぶらあせでいっぱいの杏奈の呼吸も速くなる。不愉快なそれら全部の音を耳にしながら、杏奈はおそるおそる慎重に隠し部屋のなかへと踏みこんでいった。

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