2 モナカの考え

 杏奈は飲んでいたビールを噴きだしそうになった。


「寮からちょっと離れた場所に、赤い目の鳩マスクをかぶり、赤ずきんの衣装を身にまとった女性がいたのです。赤いハイヒールのパンプスもはいていて、吉野りんかの幽霊だ――そう思い、Bさんはわが目を疑いました。ほんの一瞬まばたきをした隙に、吉野りんかの幽霊は消えてしまいました。

 その日からです。Bさんが女子寮で吉野りんかの幽霊を何度も目撃するようになったのは。ストーカーにはひるまないBさんも、幽霊には参った。眠れない夜がつづき、心身ともにへいした。こんなにも弱りきった状態でストーカーに襲われたらたいへんです。そう考え、その日からBさんの友人で氷沼女子大学の空手部主将に身辺警護を依頼しました。寮のBさんの部屋にも、しばらく泊まりこんでもらいました」


 杏奈は渋い面持ちで缶ビールを飲みほした。


「Bさんは第四女子寮のデザインがお気に召して入寮したそうです。しかし、幽霊騒動がきっかけで、セキュリティのしっかりした街中のマンションに引っ越しました。友人の空手部主将がそこの入居者だったのです。以後、吉野りんかの幽霊を見かけることはなくなりました。ありがたいことにストーカーも引っ越し先のマンション周辺をうろついていたところを近所の人に怪しまれて通報され、めでたく逮捕です」


「それってさ、かえってよかったんじゃないの? Bさんにとっては」

 話の途中から杏奈はそう思った。「第四女子寮にはオートロックがあるし、玄関も裏口も窓も防犯カメラの範囲内だけど、人里離れた場所に立ってる。八年前の事件のせいで寮生の数も減った。人目の多い街中のセキュリティが固いところに引っ越して正解だよ」


「それです!」

 モナカは人差し指でビシッと杏奈を指さした。「それこそが吉野りんかの目的だった」


「……目的?」


「わかりませんか? Aさんの話に戻りましょう。吉野りんかがAさんを殺そうとした――杏奈さんはそうおっしゃっていましたよね? しかしです、吉野りんかの幽霊がAさんを殺すつもりなら、外れかけの手すりがある避難階段になんぞ現れないと思いますよ。幽霊がほいほい出てきたら、怖くて誰も近寄らないでしょ?」

 言われてみればそうだ。


「けど、Aさんはしょっちゅう、そこで煙草を吸ってたんでしょ?」

「はい。Aさんは避難階段の手すりのところで頻繁に煙草を吸っていたのです」


 モナカはいくぶん前屈みになり、「だからこそ!」と声に力をこめた。


「吉野りんかはAさんを手すりから遠ざけたかった。Aさんの部屋は最上階の四階です。四階の避難階段の手すりにもたれかかって煙草を吸う習慣があった。放っておいたら、そのうち手すりが外れて、四階から地上に落ちるかもしれない。死ぬかもしれません」


「死ぬかもしれないから、吉野りんかの幽霊はAさんを助けようとした……?」


 モナカがまた人差し指でビシッと杏奈を指さしてくる。


「そうです。吉野りんかはAさんをあの世に引きずりこむために現れたのではありません。。Aさんを死なせないために、幽霊たるおのれをわざわざ手すりのところに出現させて、Aさんが怖がって近づかないようにしたのです」


 杏奈は……不本意ながら納得してしまった。モナカのこの解釈のほうがしっくりくる。


「Bさんの場合も同じくです。Bさんは第四女子寮のデザインが気に入って寮生になったようなお方ですから、そう簡単には引っ越さないでしょう。しかし、Bさんにはストーカーがいます。ストーカーは女子寮周辺にまで姿を見せるようになっていた。よからぬことを考えていたかもしれません。

 ゆえに、吉野りんかはBさんの前に現れた。Bさんは怖くなり、参ってしまった。そんな状態でストーカーに襲われたら一大事だからと、友人の空手部主将が護衛についた。空手部主将は女子寮にも住みこみ、やがてセキュリティのけんろうなマンションにBさんは引っ越した。引っ越し先は街中のマンションです。第四女子寮周辺とはちがって人目も多い。ストーカーは近所の人に通報されて逮捕されました」


「結果的に吉野りんかがBさんをストーカーから守ったわけか」

「ええ、そうにちがいありません」

「けどさ、吉野りんかは怨霊なんでしょ?」

「怨霊だからといって悪人とはかぎりません。怨霊イコール悪は偏見です」

「そうなんだ」

「そうです。霊能力者だった祖母もよく言っていました。本当のことです」

 モナカは力強く言いきった。杏奈はもちろん信じられない。


 第四女子寮の怪談は、佐絵が入寮する前にいた寮生のひとりが、りんかの幽霊を目撃したと発言したことがきっかけとなって生まれたそうだ。その寮生はイタズラ好きで、幽霊の件も冗談だと思われてまともに取り合ってもらえなかったそうだが、佐絵が入寮して以降もりんかの幽霊を目撃したと言う寮生が続出した。佐絵は見まちがいだろうと決めつけていたが、そうした目撃談の連続が妄想と推測を呼び起こしたらしい。幽霊が現れる理由があるはずだ、実は八年前の事件の真犯人は吉野りんかの怨霊で、逃亡犯の古坂一郎もとっくに殺されている――なんて妄想であったり推測を呼び起こしたのだと。


 今回のモナカの話は、以前に佐絵が教えてくれた話の裏付けだと思った。そうして織りなされた〝幽霊の目撃談〟が積み重なってゆき、吉野りんかの怨霊説は定着したのだろう。一度こびりついた汚れはなかなか落ちない。噂も同じだ。


 杏奈がそんな話をすると、「でしょうね」とモナカも同意してくれた。


「しかし、吉野りんかの幽霊は実在しています。ガセネタではありません。なかには創作が混じっているにせよ、AさんとBさんの話は事実です。わたしはそう判断しました。正義感が強くて行動力にあふれていた吉野りんか先輩。そんな彼女の生前の人となりとも合致します。んですよ。幽霊になってでも誰かを助けるタイプです」


「モナカ、ほんとに幽霊が好きなんだね」

「好きではありません。一部の幽霊には怒っています」


 なんで? と訊こうとしてできなかったのは、モナカがきつく眉間にしわを寄せ、眼球には殺意のような強烈な意志を宿していたからだ。


 杏奈は身じろぎした。「幽霊と……なんかあった?」


「ありましたよ。

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