第五章 過去――杏奈の小説
1 モナカの来訪①
十二月二十一日、火曜日の夜、二十一時に差しかかったころだ。モナカが杏奈の部屋を訪ねてきた。モナカはスウェットのセットアップに草履という、いつもの格好だが、風呂上がりらしい。警察に通報するような事態に陥ったときのために落書きをそのままにしている玄関ドアをあけると、いい匂いがした。杏奈もたまたま風呂上がりで寝間着だった。
「夜分遅くにすみません。これをどうぞ」
モナカから氷沼紅子の回想録を手渡された。書斎でこの本を見つけたとき、モナカが読み終わったら貸してもらう約束だったのを憶えていてくれたのだ。
「面白かった? ルビーリングの隠し場所のヒントは書いてあったの?」
せっかくなので、なかに入ってもらう。モナカは草履を脱ぎながら「内容はまあまあです。隠し場所のヒントが露骨に書かれていたわけではありません」と事務的な調子で答えた。この言い方だと露骨ではない書き方でヒントが示されていたみたいではないか。
「気になる箇所があったってこと?」
「あるにはありました」
スリッパを突っかけたモナカの唇の動きが一瞬止まる。「でも秘密です、いまはまだ」
「なんで? 教えてくれたらいいのに」
「それをここで言うと杏奈さんに先入観を与えてしまう。よろしければ、杏奈さんが『回想録』を読んだあとにお互いの感想を言い合いませんか? わたしと同じ疑問や違和感を覚えるかもしれないし、わたしが気づかなかった妙な点に杏奈さんなら気づくかもしれない。わたしは後者を期待しています。先入観を与えることで、杏奈さんの読み方を誘導したくないのです」
「そんなこと言われたら、かえって気になっちゃうけどな」
モナカをリビングに通して、三人掛けのソファに座らせる。紅茶でも淹れようかと思ったが、「お構いなく」と遠慮されたので、杏奈だけキリンの缶ビールをあけた。
「ひとつだけでも教えてよ、気になったところ」
モナカはちらと杏奈を上目づかいで見た。
「……仕方ないですね。では、ひとつだけ。七月の誕生石はルビーです」
「おっ、それってつまり、九億円のルビーリングのことが出てくるんだ」
「出てきません。実は九億円のルビーリングだけでなく、宝石に関する記述はあまりありません。出てきたとしても大した内容ではなかったですね」
「そうなんだ」と相槌を打ち、杏奈は缶ビールを持っていないほうの手でスマホを操作した。〈七月〉〈誕生石〉で検索してみたらモナカの言うとおりだ。七月の誕生石は本当にルビーだった。
「だったらさあ、モナカはどういうつもりで言ったの、七月の誕生石がルビーだって」
「注意深く本を読めば必ずや引っかかる箇所が出てきます。その該当箇所に意味があるならば、それはルビーかもしれない。よって、七月の誕生石はルビーだと申しあげたまで」
断片的なよくわからない説明を聞かされて余計にモヤモヤした。「もっとくわしく」とうながしたが、また上目づかいになったモナカの目が心なしか険しくなった気がする。
「杏奈さんはノンフィクション作家志望。事件ルポルタージュなどを執筆するおつもりなら、最低限の
上から目線のなんだか嫌な物言いだが、わざとかもしれない。「わたしは先入観を与えたくないと言いました」とモナカはくり返した。しつこく迫る相手は
「オッケー、これ以上は訊きません。なるべく先入観なしで読むよ」
「ありがとうございます。生意気言ってすみませんでした。ところで……」
モナカが話題を変えた。「最近はどうですか? あれ以来、警告文は?」
「ありがたいことに最近はないよ。平和を
「警告文が吉野りんかの仕業なら、彼女は杏奈さんのことが心配なのでしょう」
「心配?」ぐいぐい半分ほど一気にビールを流しこんだ。「幽霊が、わたしのことを?」
「はい。〈ここから出ていけ〉、その警告にしたがい、引っ越すべきです。どう転んでも来年の三月末までにはみな等しく出ていくのですから、それがいささか早まるだけです」
そんなふうには割りきれない。怖いけど、脅迫に屈するのは嫌だから。
「杏奈さん。警告文が吉野りんかのやったことなら、一連の警告はおそらく脅迫ではありません。もう一度言います。吉野りんかは杏奈さんのことが心配なのです。わたしはここずっと警告文について考えぬいた末にそのような結論に達しました」
「結論に達した理由を訊いてもいい?」と問いながら、杏奈もモナカの横に腰かけた。
「過去の事例に照らし合わせてみて、そのように結論づけました。第四女子寮には吉野りんかの怨霊が取り憑いている――この噂を真に受けている方はおよそいませんが、これまでに複数の奇妙な出来事が確認されています」
「元寮生がりんかの幽霊を目撃したってやつでしょ?」
オカルトなど全然信じていない元寮生のなかにも幽霊の目撃者がいたらしい。そんな話を前に佐絵から聞かされた。大学で若葉、佐絵と一緒にランチをしたときに。ただしそれは、あくまでも幽霊らしきものであって本物ではないはずだ。杏奈がそのときの話をしてあげると、「本物だと思いますけどね。具体的な事例を存じあげています。たとえば……」と断じたモナカが一方的に話しはじめた。
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