幕間 現在

現在――二〇二一年 十二月二十二日 水曜日

 十二月二十二日、――。十八時四十七分。


 地下展示室のドアをたたくスレッジハンマーの轟音。ドンッと大きく鳴り響いた打撃音に鼓膜を揺さぶられた杏奈は、鳩の彫像と古風な時計つきの四つの台座からいったん目をそらした。ドアもバリケードもめいどうしている。どちらも、まだかろうじて大丈夫そうだが、この調子だとそんなに長くはもたないだろう。


 速やかな救援を望むが、寮の管理会社には期待できない。防犯センサーは玄関、裏口、非常口、外と接する窓が破壊されて寮内に侵入された場合と、管理事務室のドア、窓、金庫、キーボックスが壊された状況下でのみ作動する。管理事務室以外の屋内のドアはセキュリティの対象外だ。宝石がしゅうしゅうされていた別荘時代はどうか知らないが、展示室が物置同然に成り下がってからは展示室のドアが壊されたところで自動で通報はされないのだ。


 じゃあ、大声で助けを求めてみる? そうだ、真っ先にそうすべきだったと後悔したのは一分程度だった。ためしに何度か声を張りあげてみる。杏奈はそれからすぐにあきらめた。大声を出すのにも体力が必要、もともとタフなほうでもない。小中高時代の長距離走の成績はさんざんだったという忘れかけの事実も強制的にそうさせられてへきえきした。


 大急ぎでバリケードを築くために、それなり以上の体力をすでに消費している。鳩の顔の赤ずきんが展示室内に乗りこんできたときに備えなければならない。逃げ回れるだけの体力を温存しておかないと。


 それに何度さけんだところで、どうせ地上に声は届かないだろう。届くのなら、それより大音量にちがいないスレッジハンマーがドアを殴る音を耳にした誰かが様子を窺いに来るはずだ。そんなことにはなっていない。なっていたら、赤ずきんはドアをたたくのを一時的にやめて、様子を見にきた人物を襲っていると思う。……襲う? すでに他の寮生たちが赤ずきんの手にかかっている恐れは……あるにはあるが、なるべく考えたくなかった。


 みんな無事だと信じたい。無事なら、やがてこの異常事態に気づいた誰かが上手い具合に赤ずきんをやりすごして、警察に通報してくれるかもしれない。ずいぶんと都合のいい話だが、わずかでも希望があるのなら、それにすがりつくしかないのが現状だ。どのみち、このまま雷の日の猫みたいに縮こまっていてもらちが明かない。希望の火がまだ胸に灯っているうちに、杏奈は自分にできることをしたいと思った。


 赤ずきんがルビーリングの隠し場所を知っていた場合、それを発見されるのが嫌だから襲ってきたのか? 知らなかった場合は先を越されるのが嫌なのか? 後者なら宝石の所在と引き換えに見逃してもらえないだろうか? 


 どくどくと加速する鼓動、にじみ出る冷や汗。杏奈は左手に氷沼紅子の『回想録』を持ったまま、右手で自分の両頬をパンパンと交互に軽くたたいて気合いを入れなおした。頬を打った右手には例のメモを持ったままだ。


 一段落目に〈K〉、二段落目に〈Y〉、三段落目が〈FD〉、四段落目が〈QB〉――四つの段落にわけて書かれたメモを。八年前に殺害された村木の手帳にこれと同じ謎のアルファベットが書き記されていたという。ルビーリングの隠し場所を示すヒントかもしれないと佐絵は考え、杏奈もぜんそんな気がしてきた。


 九億円の宝石がこの地下展示室に隠されているとして、その場所を突き止めることができたなら、赤ずきんとの交渉の余地も多少は出てくるだろう。選択肢は多いほうがいい。


 メモをパーカーのポケットにしまい、杏奈は深呼吸した。バリケードが無効化されるまでに宝石のありかを突き止めてやる。いまはそれぐらいしかできることがないと割りきると、杏奈は手はじめに『回想録』のページをたぐってみた。


 モナカいわく、ルビーリングの所在を忘れた場合に備えて、紅子が隠し場所のヒントを『回想録』に書き記しておいた可能性があるという。本の内容はほぼ日記だ。ことあるごとに日付が付されており、杏奈はモナカからこの本を借りて読了した。隠し場所のヒントらしき記述なんてどこにも見当たらなかったけれど、気になった箇所ならある。


 七月六日、この日付だけが日本語。なんで? 他はすべて英語なのに。日付の表記を英語に統一し忘れた箇所があるだけなのかもしれないが、だ。偶然だろうか。偶然ではない場合、これが隠し場所のヒントなのかな……。


 日本語の日付にも重要な意味があるのかもしれない。その場合は……「あっ」と杏奈は唐突に気がついた。


 七月六日の日付は、にある。このページ内に出てくる日付はこれだけだ。


「A、B、C、D、E……」と順に呟きながら、杏奈はパーカーのポケットからふたたび例のメモを取りだした。一段目がK。Kは学校で習う二十六文字の英語アルファベットのなかでだ。『回想録』の十一ページ目の七月六日の日付だけがなぜか日本語。七月の誕生石はルビー。村木のメモの最初の文字は、十一番目のK。


 これらがすべて偶然? 偶然ではないとしたら――。

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