2 書斎

 一週間後の十二月九日、木曜日。


 杏奈はこの日も先回りして別室に隠れていた。買い出しから戻ってきたモナカが書斎に入るのをドアの隙間から確認する。時刻は十八時二十一分。


 それから十分弱が経過しただろうか。古い木の匂いがする部屋のドアに耳をはりつけ、室外の様子をうかがっていた杏奈は、コンコンとノックする音にきょかれた。「ひゃっ……!」と変な声まで出る。反射的にドアから飛びのき、その勢いでバランスも崩して、尻餅までついてしまった。


「誰……?」と、かすれがちな声で訊く。返事はない。ふつうに考えたらモナカだ。それ以外だと佐絵か若葉か、――。


「聞こえなかったの?」


 コンコン……とノックするかんそうな音だけが聞こえる。最初は控えめだったその音が次第に大きくなる。数秒後にはコンコンからあつてきなドンドンへと変化した。耳のなか全体を重く震わせるような不穏な音に。ガタガタと振動するドアが壊れてしまいそうな気がして、「ちょっと……やめてよ!」と杏奈は語気を強めてうったえかけた。


 ――この第四女子寮には――

 ――わたしたち四人と、八年前に死んだ吉野りんかの幽霊。です――


 寮生四人で最初に食堂で飲んだ日に、モナカが真顔でそう言っていたのを思い出した杏奈の血の気が急速にせていく。やっと上がりかけた腰からも力がぬけ落ち、杏奈は冷たい床へとへたりこんだ。呼吸のペースが乱れて不規則に震える唇を半開きにした杏奈は、腕の力だけで部屋の奥のほうへと逃げようとした。


 ドアがうっすらとだが確実に、ギィィと嫌な音を立ててひらかれていく。わずかに生じたドアの隙間に人の目がのぞいた。女の目だ。大きく見ひらかれた女の目! ついでに。……メガネ!? 


「モナカ!」

「ご名答。おどろきましたか?」


 ドアが完全にひらききった先の薄暗い廊下で、モナカがくすくすと笑っていた。頭とメガネと肩まで揺らしながら、この子がこんな風に笑うなんてめずらしい。いつもの無表情よりよっぽどお似合いだが、ふんまんやるかたない杏奈は「なんのつもり!?」と声を荒げた。


「先にわたしをつけ回したのはそっちです。ちょっとぐらい、お返ししてもよいのでは」

 痛いところをかれた。「……気づいてたの?」

「尾行が下手ですね」

 笑みを消したモナカが手を差し伸べてくる。杏奈は無視して自力で立ちあがった。


「杏奈さんは勘違いしています。だから、わたしを尾行した。再度申しあげますが、ハロウィンの夜、バーンブラックにを入れたのはわたしではありません」

「じゃあ……これは?」

 杏奈は一ヵ月前にポストに投函されていたB5用紙をズボンのポケットから取り出すと、冷ややかな視線を向けているモナカの面前にぐいっと突きつけてやった。


「……ほう。〈ここから出ていけ〉。なんですか、これは?」

 モナカは微かに眉を動かしただけで動揺した素振りをいっさい見せない。演技なら大したものだ。犯人が演技しているのではない場合も想定して、杏奈は事情を説明してあげた。


「……なるほど。それはごしゅうしょうさまでした。しかし、わたしの仕業ではありません」

 本当だろうか?「モナカじゃないとしたら、犯人は誰なのかな?」

「杏奈さんの自作自演の可能性は?」

「絶対にないよ」

「……では、ひとまずはそれを信じます。となると、佐絵さんか若葉さんが――」

「あのふたりが、なんで警告文なんか?」

「わかりません。あのふたりが犯人ではない可能性も大いにありえます。なんにせよ、バーンブラックに警告文とおぼしき文面のB5用紙を押しこんだ人物と、杏奈さんの郵便ポストに警告文を放りこんだ人物が、仮に同一人物だとしましょう。最初の警告文のときに四人、もしくはが食堂にいました」


 ツッコミを入れたい衝動に駆られたが、いまは話の腰を折りたくない。吉野りんかのところは聞こえなかったふりをして、杏奈は沈黙を貫いた。


「あのとき、犯人だと名乗り出た人物はいませんでした。食堂にはたったの四人、もしくは五人しかいなかったとはいえ、他人の目があった。バーンブラックの表面を引き裂いて紙を入れるところを見られる恐れはじゅうぶんにあったのです」

 モナカの言うとおりだろう。五人目がどうのと言っていなければ完全に同意できる。


「バーンブラックに押しこまれていた紙、そこにつづられていた文章は、〈それ以上はやめろ〉でした。なんのことだか、さっぱりです。これがイタズラではないとしたら、犯人はわたしたちの誰かに、なにかをやめさせたい――ちょくにそう解釈すべきでしょう。なにをやめさせようとしているのか、杏奈さんに心当たりは?」

 杏奈は渋い面持ちになって、メトロノームのように首を左右に傾けてから答えた。

「卒業制作かも……。わたしは最初、若葉と一緒に八年前の事件について調べようとした。でも、途中でテーマを変えた。氷沼紅子のルビーリング探しに。モナカも知ってるでしょ。なにかをやめさせたいとしたら、これぐらいしか思いつかない」


「では、杏奈さんのその推測が正しいとします。正しいとして、なぜ八年前の事件の調査をやめさせたいのか。なぜ、ルビーリング探しをやめさせたいのか。やめさせたいのは、そのどちらか一方なのか、それとも両方なのか。わかりますか?」

「わかんないよ。わたしも若葉も、八年前の事件とは無関係のはずなのに……。ルビーリングの隠し場所だって知らないし」

「われらが第四女子寮には唯一ただひとりだけ、八年前の事件の当事者がいますよね」

 さっきはがんばってもくさつしたが、今度は会話の流れからして無視できそうにない。「ええっと……その当事者っていうのは、吉野りんかのこと?」

「はい。りんか先輩のことです」


 杏奈は目もとを険しくして唇をすぼめた。わざとらしい渋面。吉野りんかの幽霊なんかいないと表情で反論したつもりだったが、モナカはどこ吹く風で話をつづける。


「りんか先輩がバーンブラックに警告文を入れた。もしそうなら、あのとき、われわれ四人のなかに犯人がいなかったとしても不思議ではありません。のですから。となると、杏奈さんのポストに警告文を放りこんだのも吉野りんか先輩でしょう。りんか先輩ははずです」

 杏奈はぽかんと口をあけた。

「理由……? 幽霊が犯人だなんて絶対に信じられないけど……吉野りんかの仕業だとしたら、なんで警告文なんか送りつけてくるわけ?」


「八年前の事件の真相が別にある――とかじゃないですか。それを探られたくないのかも……。あるいは、本当にこの第四女子寮のどこかに九億円のルビーリングが隠されているとして、それを発見されたら、なにか都合の悪いことが起こるのかもしれません」

「都合の悪いこと……」

 杏奈はまたぽかんと口をあけてしまった。「吉野りんかにとって……?」


 吉野りんか殺害の罪を押しつけられそうになった古坂一郎が、仲間の村木康志と依田友子を殺して逃亡した――これが世間一般に伝えられている〝事実〟だ。他方、実は真犯人は吉野りんかの怨霊で、彼女は古坂一郎も殺害している、なんて与太話の怪談がある。


 モナカの話をあえて鵜呑みにするとしよう。りんかが警告文の送り主で、八年前の事件についてほじくり返されたくない場合、世間に伝わっている〝事実〟とも〝与太話の怪談〟ともまったく異なる〝別の真相〟が存在している可能性があるらしい。そして、それを知られると困るのだそうだ。でも、なんで困るの? 


 ルビーリングに関してはますます、なんでという思いだ。九億円のルビーリングを見つけだされると、吉野りんかにとってどんな不都合があるというのだろうか? 


 細いため息が出た。くり返し、何度も。バカらしくなって肩から脱力する思いだ。こんなのはすべてモナカの話を真に受けた場合の解釈であって、真剣に考えるだけ時間のろうでしかない。無駄、無駄、無駄。モナカもそんな杏奈の様子を見て察したのだろう。「あくまでも仮定の話です」と言いわけがましい口調でつけ足してきた。

「わたしも絶対にそうなのだと確信しているわけではありません。ただ、吉野りんかが警告文を送る理由にはなる。そう思っただけです」

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