7 黒島佐絵②

 氷沼女子大学の気取った中庭には、絵葉書に採用されそうな小洒落たデザインのテーブルやら椅子やらベンチやらのセットがあちこちにある。


 佐絵の対面に座った若葉が、サラダと若葉のぶんのシュークリームを、若葉のとなりに腰かけた杏奈が、デミグラスソースのオムライス弁当を木製のテーブルに置いた。


「あ、そうだ、佐絵さん。この前、聞き忘れたことがあって」

 食事が終わると、杏奈が切りだした。「怪談の件、憶えてます? 吉野りんかの怨霊のやつ。あの話聞きそびれたんで、また時間があるときに話してもらっていいですか」


「いま話してやろうか」

「いや……でも、あと十五分で――」杏奈がスマホで時刻を確認した。「講義ですよ」

「大丈夫だ。十分で事足りるから」


 なんとはなしに佐絵が空を見上げると、あんうつそうな曇り空だった。朝からずっと曇っている。ここ何日かのなかではこれでもマシなほうだが、今日も外は冷蔵庫のなかみたいに肌寒い。


「幽霊の話がなぜ生まれて広まったのか。真相は単純だ。古坂が逃亡して一週間ぐらいが経ったころ、見たんだってよ。当時の寮生のひとりが、吉野りんかの幽霊を」

「……ほんとに?」

 杏奈が大真面目に訊いてくる。佐絵は笑いたくなるのをけんめいにこらえた。

「ほんとなわけねえだろ。幽霊を見たって言いふらしていた寮生がいたのは事実だがな。その人は当時四年で、大学院には行かず、就職した。わたしが寮に入ったときには、もういなかったわけだが、寮生だけじゃなくて、同じ学科の同期や後輩にまで幽霊を見たってふいちょうしていたらしい。その話を聞かされた先輩たちから、わたしは直接教えてもらった。わたしが寮に入ったころは、そういう先輩たちがまだ何人も残っていたからな」


「その幽霊を見たって人が、りんかが実は古坂も呪い殺してるっていう怪談の〝作者〟なんですね」

 半ば決めつけるような口ぶりの若葉に、「それはどうだか」と佐絵は曖昧に答えた。

「幽霊を見たと最初に言った先輩は、吉野りんかの怨霊に古坂が殺されて、なんて話はいっさいしていない。あくまでも見ただけだ、りんかの幽霊を。そう聞いてる。その先輩、イタズラが好きだったみたいだ。だから、幽霊の話もイタズラだろうって、みんなに思われていた。そのせいで先輩、誰も信じてくれないって泣いてたらしいよ」


 本当の話だろうか――杏奈はそう言いたげな顔つきだ。ノンフィクション作家志望の血が騒ぐのかもしれない。この女には相手を疑う癖がある。佐絵は嘘つきだが、りんかの幽霊を見た先輩の話は本当だ。これからしてやる話もな。


「誰も吉野りんかの幽霊なんて信じなかったそうだが、わたしが寮に入ってからも、りんかの幽霊を見たってやつが何人も現れた。目撃者のなかにはホラ吹きでもなければ、オカルト好きでもない学生がふくまれていた」

「ってことは――」

「見まちがいだよ」

 なにか言いかけた杏奈の声を、佐絵はさえぎった。

「吉野りんかの幽霊がいるかも――そんな先入観が存在するわけもねえ幽霊を見せるんだ。幽霊の正体は光だとか影だとか、どうせそういうオチさ。塵も積もればなんとやら。量産された与太話のなかから出来のいい怪談が生まれることもある。

 そういうのを真に受けたやつらが勝手に推理をはじめる。吉野りんかの幽霊がこんなにも目撃されるのには、わけがあるはずだってな。彼女には、なにか伝えたいことがあるんじゃないのかって。その伝えたいこととはなにか。それは八年前の事件の真相で……こんな具合にな。誰かの見まちがいで生まれた幽霊が、次の勘違いや創作を生む。それを真に受けたやつが妄想で新たな物語を構築する。これが真相さ、吉野りんか怨霊説の」


「納得です。ものすごく」

 若葉が目尻にしわを寄せて満足そうにうなずいた。「絶対、それですよ、佐絵さん」

 合点がいったらしい友人のとなりで、杏奈はなんとも言えない表情だ。「これまでに幽霊を目撃した人がたくさんいるんですよね? その全部が見まちがい?」


「りんかの幽霊を目撃したって情報のなかには創作も混じってると思う」

「創作は一部ですよね、混じっているとしても?」

「おまえ……ほんとは信じてるのか?」

 佐絵は片眉をつり上げて杏奈に顔を近づけた。「吉野りんかの怨霊がいるって」

「信じてません」

「……だよな。モナカじゃあるまいし」


「モナカと言えば――」

 若葉の表情が突然険しくなった。「あの子、ドッキリが好きだったりしますか?」

「ドッキリ?」佐絵はまた片眉をつり上げた。「そんなの、知らねえな」

「実はこの前、地下展示室に行ったんですよ、夜中に」

「展示室……」心臓が跳ねあがった。一瞬だけ生じた焦りに気づかれぬように、佐絵は冷静な口調でたずねた。「なんの用で行ったんだ?」

「佐絵さんにルビーリングの話を聞いて、ちょっと探してみたくなったから。怪しいでしょ。あの四つの台座。鳩が載っかってる」

「ルビーリングは見つかったのか?」

 若葉は首を横にふる。。佐絵は内心では警戒をつづけながら腕を組んだ。


 九億円のルビーリングを、紅子が孫の村木に密かに受け渡した。これは事実だ。あの謎のアルファベットが村木の手帳に書き記されていたことも。


 ルビーリングが第四女子寮に隠されているのなら拝んでみたい。本当にあれだけが見つかっていないから。第四女子寮に入寮してから、あちこち探し回ったのに……。


 見つかったら、どうする? 素直に理事長に渡す? それしかないよな。闇市場で売れないこともないが、よけいなリスクは負いたくなかった。佐絵の母親にこっそり買い取ってもらう、というプランもありえない。


 佐絵に宝石好きの母親などいない。父親も、親戚もいない。佐絵はたしかに金持ちだが、親の話は大嘘だ。出来の悪い嘘の自覚はあるが、他に思いつかなかった。自分が金持ちであることを説明する都合のいい〝設定〟を。

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